仕事のテーマとは、を考えてレオナルド・ダ・ヴィンチが元祖セドラーだったことがわかった話

自分の仕事のテーマを探そうと思って色々考えて、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記を読んでいたらとりあえずダ・ヴィンチが元祖セドラーだったんだなということがわかった。

というのは脇道の話で、自分の将来のことを考えて、将来のことに予測不可能性が入るのがすごく嫌いなんだなというのがわかった。将来のことだから当たり前に予測不可能なのだけど。将来のことを妄想するとどうしても「夢」を実現しようみたいな要素が入ってきて、これが、今の自分とつながらないから予測ができなくて余計だ。こういう夢の妄想とかいらないんだよなーと思いながら「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上」を読んでいたら、

人間は、大そうな議論をするが、その大部分が空虚なまやかしである。動物はわずかしかそういうことをしないがそれは有益で真実だ。偉大な嘘よりささやかな正確さの方がましである。

という言葉があって、まさにその通りだなと思った。夢とかまやかしだわ。それよりささやかでも正確であることが良い。

将来のことは、ものすごく小さな正確性の上に堅固な土台のうえにつくった方が良い。あと、選ぶべき題材も見捨てられたものであるべきだなと思う。

なにしろ、あのレオナルド・ダ・ヴィンチですら

私より先に生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、また面白い題材を選ぶことができないのを知っている。それで私は、ちょうど貧乏のため一番あとから市場に到着したが、他に品物をととのえることもできないので、すでに他人のひやかしずみだがあまり値打ちがないために取り上げられず断られた品物すべてを買いとる男のようにふるまうであろう。

私はさげすまれ断られたこの商品、あまたの買い手の残り物、を自分のはかない荷物のうえにのせよう。そしてそれを大都会ではなく、貧しい村々に配り、かつ自分の提供するもの相応のおこぼれをもらいながらあるこう。

という認識だったのだ!

凡人は、いったいどうしたら良いのか…。

で、これを見て仕事のテーマは、「ただ同然で打ち捨てられているもの」を買いとってきて、高く売れる場所で売ることだろうなと思った。どんな仕事のテーマでも、これは変わらないのかもしれないけど、特に、私の場合はこの考え方に強く惹かれるものがある。

今も「退屈すぎて見向きもされない」仕事を引き受けて日々の糊口をしのいでいる。これは、それなりの価格で売れるのに、だれも引き受けない品物を仕入れている感じがする。しかも、この仕事は制度によってないといけないものとされているのだ・・・。

これからも、この仕事は続けていくとしても、(というのは、きっと誰もこの仕事を面白いと思いはじめる人はこれからもいないだろうから)、もっと高く売る方法とか、もっとたくさん売る方法は考えても良いかもしれない。

それと、もうひとつ面白いなと思うのは、国が違うと高く売れる品物を探したい。今までだと秋葉原仕入れたアニメグッズがアメリカでは高く売れるとか、日本の中古カメラが海外だと高く売れるとか、こういうセドリっぽいものはたくさんあったと思うけど、コンマリみたいなコンテンツで売っていけるものがまだある気がしている。

ダ・ヴィンチの姿は、まさにブックオフとか中古カメラ屋でスマホ片手に価格をしらべまくっているセドラーみたいなもので、見捨てられたテーマをいろんな田舎君主に売りつけたらまあまあ生き延びられた、という感じなのだろう。

買い手はまあまあ必要としているけど、売っている人が売れるとも思っていない、だれもが二束三文で手放してくれる分野が理想的だ。

そして、そういう領域は、売り手が見ているフレームが例えば国内の既存顧客だけが見えるとか、そのフレームの中では退屈なものに見えるとか、何かしらのその二束三文で手放したくなる「窓」がある。だけど、この「窓」のついている建物から外に出てみると、その窓からは影になって見えなかったところに買い手が大量にわらわらといて、窓から受け取った品物を、そこまで運んでいくとそれなりに売れていく。

みたいなことがあるのだと思う。こういう価格差で稼ぐみたいなことはインターネットのせいで難しくなったと言われているけど、一方ではフレーミングが全世界で統一されていくので、いったん出来上がった偏見の「窓」がなかなか修正されないというチャンスもあるような気もする。

さげすまれて断られている品物、あるいは、そもそもそこに品物があるとも思われてないこと、これを探す仕事は楽しいんじゃないか。

昔、とある国から来ていた若者が、日本の中古スクーターとかPCを買い付けて母国にコンテナで運んで売りさばく仕事をし始めていて、とても楽しそうだったのを今、思い出した。

 

なんで人は自分の欲に負けるのか

投資をしていると、まあまあ勝っている時の後に、必ず大負けする時がきて、それはなんでなのだろうか、と思うと、やはり自分の欲に負けている。

ここで、大きく賭けても大丈夫、必ず勝てるという謎の確信。

これがよくない。マネーコントロールの基礎ができていない。

そして、この欲に負けるとは何なのか。考えてみると、ここには焦りがある、自分がここで勝って、何か逃げ出したい、どうしても仕事や責任から逃げ出したいという強い焦りがある。

どうしてそこまでして、逃げ出したいのか。

それは、自分がやっていることに対する批判的な気持ちがものすごくあるからだろう。こんな仕事は何の役にも立たないという憎しみに近いものがある。それでも仕事を通じて感謝されたりするから驚く。だから、ここはズレている。本当は役に立っている部分があるのに、それを絶対に認めたくないという気持ちがある。やりたくないなら辞めれば良いのに、何となく勇気がないままに、引き受けてまた仕事を始めてしまう。これがよくない。つまりは、仕事に対する確信がないことが損失を引き出すループになっている、焦る→大きく賭ける→負ける→仕事にしがみつく→テーマが定まらない→焦る。

何か、仕事についてもこの基本さえ押さえれば常にできる、少なくともやり続けられるという確信があれば、これほど逃げ出したいと思い続けることはないのでは。

絶対にズレない小さく限定された現象を突き詰める必要があるということがわかった。仕事にもテーマが必要で、テーマとして成立させるためには、タイミングや内容をとても小さく切り詰めていかないと詳細化できない。ばくっとしたものはダメだ。そうしないと結局また自分の欲に負けてしまう。

自分自身をクライアントとして考えた時に、これなら確実に成果を出してくれそうだなと思うことは何か、という観点で考えていくことにした。

お互いに自分勝手に生きる社会をつくるために、この自分勝手は禁止というルールが一つだけある

この世の中でいちばん良いなと思うのは、みんなが自分勝手に生きていても特に問題ない、という考え方だ。

反対にいちばん良くないなと思うのは、誰かが勝手なことをしているからダメなんだとか、余計な回り道をせずに成果を出していきたい!それ以外の人は従いなさい、みたいなことはとても嫌だ。

みんなが自分勝手に生きるということは、「好きなこと」をやることとはちがう。それは、「好きなこと」は「才能があること」と結び付けられて理解されているからだ。才能がなくても何も関係ないし、嫌いなことを自分勝手にやっても良いのだ。好きなことをやりましょう、はとても心の狭い押しつけがましい社会をつくる悪い言葉だと思う。

例えば、ドイツでは、自分の近所にまずいパン屋があっても必ず買いに行くらしい、なぜならまずかったとしても自分の近所にパン屋があった方が便利だし、ずっと買い続ければいつかは美味しくなるかもしれないから、という話があるらしい。

これは、素晴らしく勝手な理由で、自分の近くにパン屋がある方が良いからそうしているだけというのは、相手の努力を慮っているわけではないので、とても良い。

でも大体はその反対で、「好きなこと」を深堀りしていくと、「才能が開花して、誰かの役に立つ」から、良いのだという理屈になっていて、この時点で完全にダメだと思う。

先ほどのパン屋の例で言えば、好きなこと深堀り理論の人がそのまずいパン屋に行ったら上から目線のダメだしをすると思う。「お前は自分の好きなパンの味をまず勉強した方が良い、そうすれば、もっと上達してお客さんも増えるだろう。」みたいなことを言って、良いこと言った感に浸るだろう。これがダメだ。本当にダメな説教だ。

役に立つかどうかは、他人が、自分勝手に決めないといけない。近くにあって便利だからみたいなそういう視点で評価しないといけない。この視点が抜けていて、あらかじめパン屋をはじめる前に「私が誰かの役に立つかどうかを知りたい」と思っていろいろ考えるから間違う。そんなことどうでも良い。ただ誰かの家の近くで便利ならそれで良いのだ。いや、私は「近さ」みたいな卑近な理由では自分の崇高な存在を肯定できないみたいなことはあるかもしれないけど、そういう自分勝手はこの世界では許されていない。

自分勝手に生きる社会は、「私がお役に立てる世界であってほしい」という自分の勝手な思いだけは確実に封印される社会だ。これが唯一絶対的に、この自分勝手だけが禁止されている。(と、たぶんヘーゲルも言っている。)

これが禁止されていると誰も言わないからおかしなことになる。だけど、これを間違っているよ、というのが難しすぎる。その人は大体において、誰かの役に立ちたいと心の底から善意で願っているので、これを否定できない。だけど、本当にこれだけはできないのだから、どこかでそれを学ぶ機会があった方が良いのではないか。

この世の中では、お互いの自分勝手をお互いに容認しているのだから、自分の仕事や才能は純粋に他人がその人の都合にかかわらず勝手に決めていく。

そうでないと、みんなはお互いに、「あの人はあれが好きで、頑張っているんだから評価してあげないと」という自分勝手ではない理由で、評価しはじめてしまう。そうすると、評価されている側は、永遠に本当の評価が得られない。ただの頑張っているから誉めてもらえている人になってしまう。本当の評価というのは、「ただ近いから」ということだけで良い。それが本当のほんものの評価だ。才能とかそんな安っぽいものではない。「近い」ということはすごいことだと思う。

だから、「私が役に立てるかどうか」は知り得ない、どうにもならない、という断念だけは絶対に最初に必要だ。そうしたら、自分もだれかのことを自分勝手に評価するし、自分のことも勝手に評価してもらえば良い。お互いに近くにいるだけで、ほんとにありがたいですね、と思って自分勝手に生きれば良い。

 

テーマを見つけること

前回、自分の好きなことをするだけだとあんまり良くないという話を聞いたということを書きましたが、今回はそれに続いて、その「自分の好きなことではないこと」つまりは、テーマにたどりつけるのかということを書きます。

 

テーマと学校の課題的なものとの違い

例えば学校で写真を学んでいる人は、課題のスケジュールを示されるので、必ず作品をつくるはめになる。ああ締め切りが、と思って作品を作ってしまう。そうすると、できてしまった何かに対して、よくわからないままに、テーマを後付けで検索して調べてこれだろうと、くっつけてしまう。「地球環境保護」とか、「日本の美」、みたいなすごく大きいテーマをつけてしまう。それで誰も反論できなくなってしまう。あー、いいですね、みたいなコメントしか返せない。

こういうことは、いろんなことに起きそう。

仕事をする場合でも、だいたいにおいて締め切りがあるので、その時間に間に合わせるために何かを決断してしまう。そうすると、その仮説はそんなに練りこまれていないものになり、反論を避けようとすると仮説がどんどんでかくなる。

 

「テーマ」のポイントは、ほかの人が気づかないこと。

それは、どこにでもあるもので、普通にあるのに何かの理由で気づかれていない。

気づくためには、自分の中にある違和感に耳を傾ける必要がある。

何かが違うという言葉が聞こえてくる時、それがテーマになりうる何かかもしれない。

 

日々の仕事は大体において学校の課題に近い

テーマのように見えてテーマじゃないことは、ほとんどの場合、学校の課題レベルの解決しかしていないことだと思われる。やることは悪くはないのだけど、そんなに画期的に良くもない。

課題として作られた作品が、何か意味ありげだけれども感動しない、見たことのあるものの繰り返しだったり、ひとを素通りさせるものであるように、ほとんどの仕事は、だれかを感動させるレベルには達していない。

そのことが悪いのかというと、それは全然悪くなくて、それが満足感を与える大切なものであったりするので否定されるものではない。人がすでに気づいていることを共有したいというニーズにはよく適合している。でも、課題的なものがその人のテーマと誤認されると不幸を生みそうな気がする。それは新しさを生まないものなので、そこから新しさが生まれるという錯覚があるとすると何か矛盾してしまいそう。

 

テーマの悪いところと良いところ

テーマにたどりついてしまうと、良いことと悪いことがある。

悪いこととしては、テーマのきっかけは自分の中の違和感なので、それと向き合うことがとても気持ち悪い感じになりそう。それが解決の道筋のある違和感であれば良いのだけど、もやもやして言葉にならない状態で向き合うと、どんどんエネルギーを消耗していきそう。なので、テーマに向き合うのもほどほどが良いのではないか。

良いこととしては、この周辺に答えとともに新しい問いもありそう!という見通しが出てくること。テーマのきっかけから発見に至る死の谷的なものがあって、最初の絶望的なもやもやを20年とか30年とか場合によっては50年80年かけて乗り越えれば、その先に見通しが出てくるのではというところは良いことだと思う。

 

テーマと、自分探しとの違い

 自分探し的なものと、テーマは違うのだけど違いが分かりにくい。

テーマは、自分と自分の外にあるもの、あるいは自分と自分自身の間にある「違和感」から発生している。それは「脅威、恐れ、期待」のような、自分ではコントロールできない何かをきっかけにして起きている。

自分探し的なものは、「私が良いと思っているかどうか」という感覚を探る旅になるので、微妙にして大きく違うスタートラインがある。(でも、テーマに気づく入り口のひとつは自分が良いと思っている作品を整理することだったりとかもあるからややこしい。良いと思っていることを入り口にしてその背景にある、何か囚われていることとか違和感にまで行けると良いのかも。)

「私が良いと思っているかどうか」は選択とか選好の余地があるのだけど、「脅威、恐れ、期待」は私の意図の及ばない何か別の領域を示している。

テーマには、時代や社会に対する解釈、同時代性が含まれていると言われているのは、スタートラインの違いにあると思う。

例えばなのだけど、歌が異常に上手く歌えてしまう大スター的な人とか、アーティストは、何か時代性を宿しているように思われるけど、これは多分、その人自身が「自分が制御できないほどに歌えてしまう」という事実への畏怖とか、不可解さがスタートラインとして持てるということが違いを生むのではないかと思う。

私が歌えてしまうことによって、周囲が変わってしまう、周囲の反応を引き出してしまうということは、それがポジティブなことであったとしても恐怖を呼び起こすと思う。それは、周りの数名から始まって数百人、数万人、数億人と広がるにつれて、どうしてもつきまとう「他者とは何か」「なぜ私は他者とコミュニケーションできてしまうのか」という恐怖として、深いテーマ性を存在そのものに焼き付けてしまうんではないだろうか。

言いたいことを伝えられないことよりも、言いたいことが伝わってしまうこと、何かが意図通りに動いてしまうことの不気味さの方が、自分の存在を脅かすのではないか、と思う。

ちょっと話が逸れてしまったけど、テーマは自分探しというよりは、自分の中にある「違和感」自分の外にあるものの違和感からスタートするので、成り立ちが変わるし、それが他の人から見たときに、同じような恐怖・違和感として伝播するときに、伝わっていくのではないだろうか。

 

つまりは、テーマを持つということは、結構「呪い」のような要素があって、それが自分の人生の使命を授けられるような栄光への道ではなくて、どちらかというと、あんまり良いことではないことのような気もしている。

見つけることは、新しい視点、人に新しい気づきを与える良いことでもあるのだけど、それによって、得られる気づきが報酬でない人にとってはどうでも良いことでもあるのだと思う。

 

まとめ

テーマを決めて何かを探求したい人には、テーマ探しはとても良いと思う。

ただ、テーマは「人が気づかないことを見つけること」なので、人が気づくことを共有したいというニーズには全然応えられない。

 自分が求めているものは場合によって違うと思うので、テーマで対処する場合と、好き嫌いで対処する場合とで区別しておくとわかりやすいかもしれません。

この分野は、自分の探求心としてテーマ探求で深めていきたいとか、この分野はどうでも良いので好き嫌いで決めておこうとか、緩急をつけておくと楽なのでは。

あと、ここまでで書いてないけど、テーマ探求のようだけど、実際には好き嫌いで決めている微妙なラインというのがありそう。自分にとって境界領域にある分野は、たぶん「生活のためにやっていること」というのがこの微妙なラインに入ってきそうだけど、これはまあ仕方がない。どんなことでも、そんなにきれいには仕分けできないし、まじりあっているのではないか。

上海総合指数だけが戻っているし、しかもけっこう前だ

香港は下げているので微妙だけど、上海総合指数はだいぶ前に戻っている。

こんな感じで、一か月くらいで全値戻しくらいの感じになっている。

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日本市場はこんな感じ。

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大体感染者数のピークアウトと株価が戻る時期が同じ。

 

 

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 https://www.yomiuri.co.jp/world/20200309-OYT1T50303/

 日本の感染者数の推移もピークアウトしているかもしれない。検査をするかどうかにもよるのだけど。

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https://jagjapan.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/641eba7fef234a47880e1e1dc4de85ce

 

感染のピークアウトがどこに来るかによるけど、終わりの期限が明確にあるイベントではある。

あとは、下値リスクをどうカバーして値幅がとれるポジションを作れるのかなのかもしれないけど、予測に振れ幅があるとあんまり正確に狙える感じもしないので、慎重にマネーコントロールしていきたい。

あるとしたら、さらに一段下げたときにアウトオブマネーのオプションをコールで買ってぼーっとするというのはあるかもしれないけど、わからん。

たぶん、ここが底っぽいのだけど、まだ様子を見ておいた方が良い気がする。何でだかわからないけど。何となくまだ何かある気がするな。もうないかもしれないけど。一応・・・。

写真の話を聞いて「自分の好きなことをするのが良い」という言葉が嫌いすぎるのはなぜかを考えた

写真家としてアーティストになるためには、という講座を特にアーティストになる予定はないけど聞いてきて、とても面白かったのだけど、この面白さの説明が難しいなあと思った話。

長年疑問だった「自分の好きなことをやるのが良い」という考え方が私は、とても嫌いという感じがなぜなのかも少しわかってきました。

日本で写真をやっている人(それ以外のアートっぽい活動の全体がそうかもしれないが)の多くは、「自分のやりたいことを追求する」のがアートだと思っているがそうではない、ということを講師の方が話してました。それは仲間内の自己満足で、アートはコミュニケーションになっていないとだめだと。

これは結構大きな話で、ここを紐解くのが難しい。

なぜかというと、アーティストは「問いかけ」を持つ必要があるのだけど、その「問いかけ」は自分の「心の動き」「感動」から生まれてくるものだ、と言われていたので。

  1. 「自分のやりたいこと」ではない
  2. 「問いかけ」になっていて、他者とコミュニケーションがとれる必要がある
  3. 自分が何かに感動し、心が動かされたこと、その人だけが気づけたことが「問いかけ」になる

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 どうですか。これ難しくないですか。フィーリングと感動同じではないのか。

 違いがあるというのは、その通りだろうなとは思うのですが、これをかみ砕かないと自分でも納得しにくい。この難しさは、

  1. 「心が動いている」と感じるのは、あくまでも自分である
  2. 「心が動いた」ことを「問いかけ」に転換するのも自分である
  3. 他者がそれを受け取ったと主張したとしても、主張していなくても、それが「問いかけ」として成立しているのか「自分のやりたいこと」に同調してもらっているだけなのかの区別はどこでするのか

 もちろん、アートマーケットという客観的な指標はあるし、問いかけの質も、これまでの作品群との比較で、どれくらいの規模感の気づきなのかはある程度は判定できそう、なのだけど、「自分のやりたいこと」を独善的に追究しているかどうかをどう見分けるのか。ここが難しい。

 

 お話の中で、フィーリングで撮られた写真は評価が難しいという話がありました。フィーリングは誰も否定ができない。序列のつけようがない。ここで、たぶんありそうなのは、「反論できる可能性」なのかも。事例としてよくあることとしてお聞きしたのは、作品を課題として与えられて作ってしまった後に「地球環境」とか巨大すぎるテーマを持ち出してくる場合があるそうです。巨大なテーマだと誰も反論できない。

  1.  この「感動」は重要で、なぜならば今まで気づかれていなかった〇〇を、「問いかけ」として明るみに出したから
  2.  その重要性について、過去との比較や、完成度、反響から反論できるかどうか。そうではない、という論拠をいくつも出していくことがそもそも可能かどうか。
  3.  重要性について、そうではないという論拠を示すことができない、そもそも何を反論すれば良いのかわからない場合は、「自分のやりたいこと」をやっている可能性が高い

 とすれば良いのだろうか。

 ルックアライクではなくてフィールアライクを大切にした方が良いというお話もありました。

 フィーリングではだめなんじゃなかったけとなるんだけど、このフィール、というのが深堀できそうな感じがする。

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 Look a like は、何かと似ているという意味があるので、「前に見たことのある何かの写真と同じものを撮影したい」という気持ち、「誰か自分ではないだれかと似たものに自分もなりたい」という気持ちがある。

 でも感動は、自分のそんな思惑とは全く関係なく「ただひたすらに世界が厳然と私に感じさせてくるもの」のことを指している。

 ここをもう少し明確にすれば、「自分の好きなことをやれば良い」とは違う言い方ができるようになるはず。

  アーティストは生き方だ、という言い方を講師の方がされていて、プロセスを求めて結果はどちらでも良いという言い方をされていたけど、これは、自分の思惑や他者の思惑も、世界が示してくるものに比べればそれほど重要ではない、ということを意味しているのかも。

  つまり、まとめると「自分が好きなことをやる」は、何か似たものを繰り返して世界が自分に対して感じさせるものを無視する行為だけど、感動を吟味しようとする姿勢は、自分の「こうなりたい」といった思惑とはかかわりなく、ただ世界が自分に対して示してくる何かを見る行為。

 それは自分が壊れるかもしれない怖いことでもあるのかも。

 前々から、ともかく「自分の好きなことをするのが良い」という言葉が嫌いすぎて、ずっと25年間ぐらいこの嫌さと向き合ってきたが、ようやく少しだけ解明されてきたような気がする。そもそも自分がやっていることが、好きなことかどうかとかも考えたくない。

前田建設と前田道路

前田建設が前田道路のTOBを予定している。だけど、撤回するかどうかがわからないから、前田道路の株を買っていいかどうかわからない…。という状況だと思うけど、もしこのまま多額の配当金が入ってくるのであれば、前田建設には130億円くらいの追加収入がある。

これだけでも結構でかいのではという気がしている。純利益の想定が265億円だから1.5倍くらいになる。これに、TOBで加わる前田道路の純利益が45.5億円(通期だともっと少ないか…)くらいあるから。

当期利益が、265億円⇒440億円になるのでは。1.66倍ということになるが。

だけど、まあ単年度のことだからこれで株価が動いたりしないのかな。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00002/022001101/