テーマを見つけること

前回、自分の好きなことをするだけだとあんまり良くないという話を聞いたということを書きましたが、今回はそれに続いて、その「自分の好きなことではないこと」つまりは、テーマにたどりつけるのかということを書きます。

 

テーマと学校の課題的なものとの違い

例えば学校で写真を学んでいる人は、課題のスケジュールを示されるので、必ず作品をつくるはめになる。ああ締め切りが、と思って作品を作ってしまう。そうすると、できてしまった何かに対して、よくわからないままに、テーマを後付けで検索して調べてこれだろうと、くっつけてしまう。「地球環境保護」とか、「日本の美」、みたいなすごく大きいテーマをつけてしまう。それで誰も反論できなくなってしまう。あー、いいですね、みたいなコメントしか返せない。

こういうことは、いろんなことに起きそう。

仕事をする場合でも、だいたいにおいて締め切りがあるので、その時間に間に合わせるために何かを決断してしまう。そうすると、その仮説はそんなに練りこまれていないものになり、反論を避けようとすると仮説がどんどんでかくなる。

 

「テーマ」のポイントは、ほかの人が気づかないこと。

それは、どこにでもあるもので、普通にあるのに何かの理由で気づかれていない。

気づくためには、自分の中にある違和感に耳を傾ける必要がある。

何かが違うという言葉が聞こえてくる時、それがテーマになりうる何かかもしれない。

 

日々の仕事は大体において学校の課題に近い

テーマのように見えてテーマじゃないことは、ほとんどの場合、学校の課題レベルの解決しかしていないことだと思われる。やることは悪くはないのだけど、そんなに画期的に良くもない。

課題として作られた作品が、何か意味ありげだけれども感動しない、見たことのあるものの繰り返しだったり、ひとを素通りさせるものであるように、ほとんどの仕事は、だれかを感動させるレベルには達していない。

そのことが悪いのかというと、それは全然悪くなくて、それが満足感を与える大切なものであったりするので否定されるものではない。人がすでに気づいていることを共有したいというニーズにはよく適合している。でも、課題的なものがその人のテーマと誤認されると不幸を生みそうな気がする。それは新しさを生まないものなので、そこから新しさが生まれるという錯覚があるとすると何か矛盾してしまいそう。

 

テーマの悪いところと良いところ

テーマにたどりついてしまうと、良いことと悪いことがある。

悪いこととしては、テーマのきっかけは自分の中の違和感なので、それと向き合うことがとても気持ち悪い感じになりそう。それが解決の道筋のある違和感であれば良いのだけど、もやもやして言葉にならない状態で向き合うと、どんどんエネルギーを消耗していきそう。なので、テーマに向き合うのもほどほどが良いのではないか。

良いこととしては、この周辺に答えとともに新しい問いもありそう!という見通しが出てくること。テーマのきっかけから発見に至る死の谷的なものがあって、最初の絶望的なもやもやを20年とか30年とか場合によっては50年80年かけて乗り越えれば、その先に見通しが出てくるのではというところは良いことだと思う。

 

テーマと、自分探しとの違い

 自分探し的なものと、テーマは違うのだけど違いが分かりにくい。

テーマは、自分と自分の外にあるもの、あるいは自分と自分自身の間にある「違和感」から発生している。それは「脅威、恐れ、期待」のような、自分ではコントロールできない何かをきっかけにして起きている。

自分探し的なものは、「私が良いと思っているかどうか」という感覚を探る旅になるので、微妙にして大きく違うスタートラインがある。(でも、テーマに気づく入り口のひとつは自分が良いと思っている作品を整理することだったりとかもあるからややこしい。良いと思っていることを入り口にしてその背景にある、何か囚われていることとか違和感にまで行けると良いのかも。)

「私が良いと思っているかどうか」は選択とか選好の余地があるのだけど、「脅威、恐れ、期待」は私の意図の及ばない何か別の領域を示している。

テーマには、時代や社会に対する解釈、同時代性が含まれていると言われているのは、スタートラインの違いにあると思う。

例えばなのだけど、歌が異常に上手く歌えてしまう大スター的な人とか、アーティストは、何か時代性を宿しているように思われるけど、これは多分、その人自身が「自分が制御できないほどに歌えてしまう」という事実への畏怖とか、不可解さがスタートラインとして持てるということが違いを生むのではないかと思う。

私が歌えてしまうことによって、周囲が変わってしまう、周囲の反応を引き出してしまうということは、それがポジティブなことであったとしても恐怖を呼び起こすと思う。それは、周りの数名から始まって数百人、数万人、数億人と広がるにつれて、どうしてもつきまとう「他者とは何か」「なぜ私は他者とコミュニケーションできてしまうのか」という恐怖として、深いテーマ性を存在そのものに焼き付けてしまうんではないだろうか。

言いたいことを伝えられないことよりも、言いたいことが伝わってしまうこと、何かが意図通りに動いてしまうことの不気味さの方が、自分の存在を脅かすのではないか、と思う。

ちょっと話が逸れてしまったけど、テーマは自分探しというよりは、自分の中にある「違和感」自分の外にあるものの違和感からスタートするので、成り立ちが変わるし、それが他の人から見たときに、同じような恐怖・違和感として伝播するときに、伝わっていくのではないだろうか。

 

つまりは、テーマを持つということは、結構「呪い」のような要素があって、それが自分の人生の使命を授けられるような栄光への道ではなくて、どちらかというと、あんまり良いことではないことのような気もしている。

見つけることは、新しい視点、人に新しい気づきを与える良いことでもあるのだけど、それによって、得られる気づきが報酬でない人にとってはどうでも良いことでもあるのだと思う。

 

まとめ

テーマを決めて何かを探求したい人には、テーマ探しはとても良いと思う。

ただ、テーマは「人が気づかないことを見つけること」なので、人が気づくことを共有したいというニーズには全然応えられない。

 自分が求めているものは場合によって違うと思うので、テーマで対処する場合と、好き嫌いで対処する場合とで区別しておくとわかりやすいかもしれません。

この分野は、自分の探求心としてテーマ探求で深めていきたいとか、この分野はどうでも良いので好き嫌いで決めておこうとか、緩急をつけておくと楽なのでは。

あと、ここまでで書いてないけど、テーマ探求のようだけど、実際には好き嫌いで決めている微妙なラインというのがありそう。自分にとって境界領域にある分野は、たぶん「生活のためにやっていること」というのがこの微妙なラインに入ってきそうだけど、これはまあ仕方がない。どんなことでも、そんなにきれいには仕分けできないし、まじりあっているのではないか。