第3部 モチベーション:契約、情報とインセンティブ 組織の経済学 第5章 限定合理性と私的情報

・完備契約を達成できない要因がいくつかある。

・完備契約というのは、想定される事態が全てお互いに認識されていて、その場合どのように行動するかが全て決められている状態。これは考えられないけれど、その状態から何ができないから完備契約にならないのかを考える。

・そもそも、人は限定的にしか合理的に行動できない。つまり限定合理性がある。

・完備契約ではないから、効率的な行動からは必ず人は離れていく。例えば組合労働者に依存した方が、収穫は最大化することがわかっていても労働者がストライキを起こす可能性を恐れて雇い主は家族や親族でできる範囲に作付けを制限するかもしれない。

・私的情報(プライベート情報)がある場合も完備契約にならない。中古車などは、壊れていることを前の持ち主は知っている可能性があるが、買い手はそれを完全に知ることはできない。そのため、取引したら利益が大幅に増えそうな場合でも、取引が起きないことが多くある。

組織の経済学 第2章 組織経済と効率性

組織の経済学はすごい。

ちょっとすごすぎて、脳が爆発しそうになっている。これはすごい本当に。

「経済組織と効率性」まとめ

 経済全体に始まって企業とその内部に至るまで、さまざまな段階で経済組織が存在する。理論的には、企業は個々人と法的拘束力を持つ取り決めを結ぶことのできる法人であるという点で、他の小さな組織と区別される。企業の持つこの能力によって、個々人がその取引を行うために複雑で多面的契約を行う必要性がなくなり、取決めの効率性に貢献している。

 経済組織の分析の基本単位は、ある人から他の人に財・サービスを移転する取引(transaction)であり、分析の重要な焦点は、取引を行う個人の行動である。経済組織の主要な役割は、個々人の行動をコーディネートし、計画に即した行動をとるよう動機づけることである。

 われわれは企業がいかにうまく人々の欲求やニーズを満たすか。つまり効率性を基準にして組織を評価する。組織の一部は人為的にデザインされたものであり、組織の特徴のいくつかは、設計者が効率性を達成しようとした結果だと理解することができる。どんな組織がどの側面で成功しているかによって、どんな組織がどの状況の下でもっとも効率的であるかについて、重要な実証的証拠を提供する。

 効率性を事実解明的な(positive)原理として用いるためには、それが誰の利益に役立っているか、そしていかなる仕組みが実現可能かを考慮する必要がある。仲間内で取引交渉が行える小さな集団は、自分たちにとって効率的な仕組みを採用するだろうが、集団の規模が大きくなるとその仕組みも非効率になるかもしれない。この意味での効率性は、予測のためだけに用いられるべきであり、採用された仕組みの社会的な望ましさを評価するものではない。無駄を生む仕組みでさえ、その集団の全員が希望する適切な代替案がない場合には、効率的とされるかもしれない。

 現代の経済における生産拡大の大部分は、専門化(specialization)を通じて達成されており、いかなる個人も自分が最終的に使用する財をつくるために必要な仕事のごく一部しか行わない。専門化の増大は、人々がますます他の人の仕事に依存するようになり、コーディネーションの必要性が増大していることを意味している。コーディネーションには、2つのきわめて対照的な方法がある。1つは中央の計画策定者に情報を伝え、すべての重要な意思決定を委ねるものであり、もう1つは、全体の計画に整合的な、分権的な意思決定に必要な情報と資源を、個々人に提供するものである。この両極端はたんなる戯画化にすぎない。現実の経済はすべて、この2つの方法を混合しているからである。

 取引費用は、取引の交渉を行い、実行する際に必要な費用である。その中には、状況を監視し、どのニーズを満たすかの決定を行い交渉するための調整費用(coordination cost)と、成果を計り、インセンティブを与え、関係者が確実に指示に従い、約束を重んじ、取決めを維持するように合意を強制する動機づけ費用(motivation cost)が含まれる。

 取引の最適なまとめ方と管理の仕方は、取引の基本的な性質に左右される。とくに重要な性質として、5つの性質を取り上げた。第1は資産の特殊性である。関係者が大規模な特殊投資を求められる場合、彼らはこの投資を保護する仕組みを追求する。第2に、長期にわたる頻繁かつ同種の取引を行う場合、取引費用を削減するための特別な仕組みや手続きを作ることは、関係者に利益をもたらす。複数の関係者の間で長期におよぶ頻繁な取引を行うことは、当事者の理解を深め、明示的な合意の必要性を減らし、また特別な好意を与えたり与えなかったりすることで、合意を外部の力で強制する必要性を減らすことができる。第3に、取引が行われる状況の不確実性と必要な意思決定の複雑性が、取引の成果についての正確な予想を困難にする。この結果、簡明な契約の有効性は低下し、当事者は取引の成果よりも、意思決定の権限や手続きを契約によって保証しようとする。第4に、業績の測定費用が高いことが成果に基づくインセンティブの提供を困難にし、測定やインセンティブに感応しない組織形態が生まれる。第5に、他の取引との連結性が高い場合、つまり局所的な資源の最適利用よりも、取引間の調和を図ることが費用削減の上ではるかに重要な場合には、管理体制の強化や個々の取引責任者間の情報交換の緊密化によって、コーディネーションの仕組みが強化される。

 もっとも単純な取引費用理論は、組織は総取引費用を最小化すると主張する。この単純な理論は、取引費用が他の費用と論理的には区別しえないこと、効率性自体は必ずしも総費用の最小化を意味しないこと、という2つの問題点を持つ。しかし、後者の問題が問題でなくなる特殊ケースがある。

 個人の選好が資産効果を持たない場合、すなわち、すべての人が意思決定の結果を一定額の金額の授受に完全に換算し、しかも金銭転移に制約がまったく存在しない場合、効率的な配分とは、総価値を最大にしそれをすべて参加者に分配する配分に他ならない。この結論は、価値最大化原理として知られている。コースの定理によれば、資産効果がない場合、生産活動や組織編成の在り方は、当事者の富や資産、交渉力に影響されない。これらの要因が影響をおよぼすのは、費用と便益をどのように分配するかという点だけである。この考え方は、組織は権力構造や階級利益を反映するものであり、総資産の最大化と関係しないというマルクス主義的見解と対照的である。資産効果がない場合、効率的な組織は、総価値を最大化するという明確な目的をもった個人のように行動する。

 価値最大化基準は組織の行動様式を説明するものではない。組織は、組織全体の単一の目的を最大化するというより、さまざまな対立する個人的利益に従うからである。このことは、例えば大学のように、社会のさまざまな利害のバランスで揺れ動く公的組織に特に妥当するし、また所有者どうしの間でも利害が異なる私的企業の場合にも、程度の差こそあれ妥当する。

 われわれは組織一般に固有の動機があるとはせず、動機は人日に属するものと考える。本書で取り上げる理論では、人々は利己的かつ機会主義的であり、成功する組織とは、この利己心を社会的便益をもたらす行動に向けることに成功した組織である。

 

文献ノート

 経済学の多くの主要関心事と同様、経済組織に関する問題を永続的な意義を持つ形で最初に取り扱ったのは、Adam Smithの『国富論』である。組織の問題は、Smith以後の主流派経済学者にとって大きな関心事にならなかったが、19世紀にはKarl Marxの著作が、またとくに20世紀の最初の25年間にはFrank Knight は企業組織、そしてもっと一般的には経済かつどう一般を、効率性という観点から論じた。

 Ronald Coaseは、取引費用の経済学の創始者といえる。本章で論じたことの多くは、彼の1937年の代表的な論文の産物である。この論文においてCoaseは、取引費用をいかに節約するかが、経済活動の組織化と企業と市場の間の活動区分を決定づけるという考えを最初に展開した。Coaseの定理を展開した1960年の論文は、彼のもう1つの代表的論文である。この論文は、価値最大化と効率性を実証的、事実解明的な原理として用いることがきわめて有用であることを、多くの経済学者に気づかせる上で大いに貢献した。これらの論文は、1991年にCoaseがノーベル経済学賞を受賞した際にとくに言及された。

 経済組織にとって分散された、局所的な情報が持つ重要性を論じたのは、ソ連に中央集権的な共産主義体制が築かれた後、市場システムと中央計画について論じたFriedrich Hayekの貢献である。

 より近年の貢献のなかでは企業内の階層構造(ヒエラルキー)と監督の役割をインセンティブという観点から説明しようとした、組織への契約的アプローチがある。この分野ではArmen AlchianとHarold Demsetzが傑出している。Kenneth Arrowはその影響力を持った小冊子を通じて、市場が失敗するときに組織が登場するという考え方を展開した。Oliver Williamsonの著作は、取引費用の経済学の発展のなかで大きな役割を演じてきた。彼の1985年の著書は、彼のアプローチについてのすぐれた全体像を提供している。このアプローチは資産特殊性、取引頻度、そして不確実性を取引の要の部分としており、また、人間の合理性の限界を強調している。 この最後のテーマを経済学に最初に導入したのはHerbert Simonである。Sidney WinterとRichard Nelsonはそれをさらに前進させた。Yoram BarzelはStephen Cheungの貢献に基づいて取引費用の経済学の費用測定コストの側面を強調した。ここで初めて、連結性の概念やデザイン上の連結性といった概念が導入された。

 Bengt Holmstrom、Jean Tirole、そしてWilliamsonによるサーベイ論文は、本章における諸問題だけでなく、本書全体を通じての多くの問題にとっての貴重な追加参考文献である。交渉とインフルエンス・コストに関するわれわれの論文は、取引費用の経済学の基礎に関して体系的な説明と批判を行なっている。P.53-55

 

世界の終わりの地政学 を読んでいる

久々に、「世界の終わりの地政学」良い本だとおもいます。

薄々感じているけど見なかったことにしていた世界の終わりの始まりをしっかりと認識できます。そして、アメリカは全然滅びないという残酷な真実もわかります。アメリカの安全保障がなくなっていくことで細分化した経済が、産業革命以前に向かって高速で逆回転していく様が手に取るようにわかります。やばい予測の本です。

人口動態的にはアメリカ・フランス・トルコ・ニュージーランドはまだ希望があるけど、他の国には希望がない。

ということで、長期投資の前提が崩壊しても、これらの国は検討できるのかもしれない。そこを仮説の最初のとっかかりにおいて次の20-30年の投資テーマを考えていきたい。

もはや、国債とか債権でも良いのかもしれない。株式とかではない感じがする。実物資産でも良いのだけど。インフレ+デフレみたいな、すごいことになっていく気がしてきた。人口がすごい勢いで下がりすぎて色々な物資が交易で調達できない国は猛烈なインフレで貨幣価値が暴落していくんだけど、一方で、世界経済が断たれても、貨幣価値が上がっていく国はマイルドインフレ気味に落ち着いて世界中の富裕層から資本が流入するので、金利が下がって逆に債権価格は上昇みたいなことかもしれない。

日本の中で、考えるなら

  1. 一次産業(交易条件の悪化で食糧生産増やすかもしれないから)
  2. 防衛(日本だけでなく周辺のアジアの国に安全保障の傘を広げないと交易ルートが確保できないかもしれないから)
  3. 半導体・機械などの一部の製造業(生産拠点が一時的だけど増えるかもしれないから)
  4. 金融(防衛力が確保され・食料が確保できる交易がまだ残っているという条件付きで、周辺国からの資本流入がまだあるかもしれないから)

あたりは、まだあるかもしれないけど、それ以外は結構やばい気がした。交易がぶつ切りになっていくと、何ができなくなるかを検証したほうが良い。高度に交易に依存している製品を個人的に買うのは控えたほうが良いとか、生活の考え方にも影響がでてくる。調達できないものは再利用したりとか、国内の流通が様変わりするはず。EVとかは部品の構成によっては厳しいかも、とか。どんなものに影響がでるかはわかんないけど。国内品だけで作れそうなもので調達網を考えておくと各社はBCP的な準備として良さそうではある。内部統制にも確実に影響でてくる。リスク管理委員会とかやっている会社は読んだほうが良いと思うけど。

Saasとかも調達価格が国内の販売価格とつりあいとれないなら、そもそもSaas調達してサービス提供してられないよねとかがでてくると思う。

喜望峰スエズ運河も超えられない、太平洋航路しか安全じゃない未来とかも平気であると思う。(そして、それを守るコストを超えられる利益を出せる商品が日本で作れますかという問いに答えられるのか。)

もう少し、精緻に考えるなら、いろいろ別の角度からも調査したら良いと思うけど、久々にこれは良い仮説の本だと思った。おすすめです。

期待

いつも、多くの人の期待がおそらく反映された何かができてしまうと、そのこと自体への強い失望があるのかも。

失望と面白くなさはつながりそう。退屈というのともちょっと違う気がする。がっかりしているということかも。

期待されていないものができるなら、この失望は免れるのだけど、自分でもそれを読み解くことはできない。なので、やはりわからないことに対しては失望してしまう。

失望しないことはまずなくて、できないことにも、できたことにも失望はする。

失望はつかれるのでしたくない。そもそも期待を考えるようなことはやめたら良いということかも。

面白くない、と、失望の違い。

失望は痛みと、哀しさがある。

期待が満たされると、退屈を感じるのではなくて、満たされたことで痛みがくる。

あるいは、期待を実現できなくて自分で自分を非難しても、同じような痛みがある。

痛みがないのは、結果がわからない時だけで、痛みの代わりに不安がある。

不安は紛らわすことができる。

けれど、痛みは紛らわすことはできなくて、ただ痛覚がある。怪我みたいなものかも。

期待の実現や、その失敗を見ると、連鎖した期待がもたらすことが見えてしまって痛みが強くなる。

何も結果がわからないのであれば、それは不安で、期待が成就しなかったらどうしようというイライラ。

結果が長い目で見たらわかってしまいそうなときは考えても結論が変わらないので、そのことが物理になって、痛い、

アプリ飽きるまでの時間記録

アークナイツを7/11にインストールして、3ヶ月弱くらいで起動をしなくなる。

きっかけは、ステージ3-8をクリアして、別コンテンツが解放されてゲームをまた新しく学習しなおす必要がありそうで面倒になったことと、メタキャラのリリースタイミングを理解したこと。

定期的に配布される人権キャラクターを獲得するために石を貯めるなどのゲーム内の望ましいとされる行動を把握してしまったので、以降の作業内容を予測可能だと判断してしまったことによる。

もう一つは、強めのキャラクターをガチャで獲得したことによって、満足感が出てしまったこともある。

ゲームについては、いつも、基本構造を理解するまでは面白い、というのがあって、この基本構造がわからない試行錯誤している時のアウトプットが自分でも面白いものになっていると思っている。

うまくいっていないアウトプットそのものが興味深い。これは、仕事にも当てはまりがある程度ある気がしていて、多くの人がアウトプットの面白さゆえに、成功を拒んでいる時というのがあるかもしれない。

成功するということは基本構造を自分なりに理解するということでもあって、それができると、面白くはない。

では、なぜ、これは面白くないのか。

よくあるのは、これが自己疎外であり、自分でなくても良いものであり、機械的なものであるからだ、そこから自分というものが拒まれているのだ、という説明。

だけど、これは説明にはなっていない。

繰り返しが可能である、という外形的な特徴から、機械を連想して、自己疎外のイメージを引き出しているにすぎない。これは、論理的な展開ではない。

論理的に展開するためには、基本構造が理解された、ということと、面白くなさ、を別の展開で結びつける必要がある気がしている。

それが何かはよくわかっていない。

 

 

 

過去は変えられる、の仮説・過去に向けた加速主義、忘却の効用

原因と結果を連鎖するものとして考えると、全ては原因のせいだ、ということになる。

だけど、実際には、過去は現在を規定できていないし、反対に現在が過去を規定しているし、現在を規定しているのは未来だということでもある。(これを最初の直感として採用してみるのが良いかもしれないと考え始めている。)

過去は常に強く漂白されているし、裁断された切片で、異なる鏡像として現在のために存在することを余儀なくされる。(脳構造マクロモデルも関係あるかも。)

原因から結果が生まれるというモデルの中にいると、この真実の姿が見えにくくなるけれど、本当は、そうした原因から結果というモデルが主張することは、たえざる忘却によって台無しになっているということがある気がする。

そして、台無しになっていることが良いことであると道徳的に捉え返せる気がしている。それを多くの人が善い立場だとして仮に採用することで、過去は無数の改変を被ることが当たり前のものになり、それを加速度的に進めることが過去を対象とした加速主義になる。未来を対象とした加速主義は意味がない気がしている。カタストロフを招聘することで、結果的に善い結果を得ようとするのは、依って立っているモデルが原因から結果を想定している時点で成立し得ない。常に、過去を変えていく脳のあり方に裏切られるような気がするので。

未来は運命によって確定されていて、起こった後のことだけが改変可能になっていく、分岐は未来に向かって開かれていくのではなくて過去に向かって開かれている。

歴史修正主義的な立場と、過去が変えられる、という主張は似ているようで、この過去に向かった分岐がないので違っている。

もう一つ想定できそうなのが、自由と責任が同時にある概念も、この時間を想定すると成立しなさそう。

未来から過去に向かって時間が流れていくと、自由は未来にはないので、責任は未来に対してはない。過去の分岐はこれから起きることではないので責任の概念で理解することは難しい。

全ては原因のせいであるという疎外の論理を避けようとする時に、「疎外の論理そのもの」を過去に遡って原因究明することはできなくて、それよりも、道徳の評価軸が未来ではなくて過去に向かって分岐しているという通常とは逆向きの流れを基準とすることがわかりやすい気がした。