カントは、ピヨピヨ速報見てから読むとすごいわかりやすい。

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ピヨピヨ速報、みてから、純粋理性批判を読むとすごい頭に入ってくる。

気になるのは、天国とか神の世界とか人間にはわからないと切り捨てて科学の範囲を特定したところはすごく分かったのだけど、人間の認識の世界については、結構科学の中でとらえきれてないところ。

この部分について、どう考えたら良いのかちょっと悩んでいたけど、「サハリン島」という小説のあとがきでロシア人の著者が、論文で芥川龍之介のことを知って「手巾(ハンケチ)」と「芋粥」などを読んだら急に小説が書けるようになったということを書いていて、そうか読もうと思って「手巾」を読んだら、本当に雷に打たれたようになった。これはすごい。

これが、できるなら文学の手法でカントが科学の中で解決できてない人間の認識に迫ることはまだ可能かもしれないと思った。わりと見捨てられたように思って無視していたけど、文学とかフィクションとかには、可能性がまだまだあるのかもしれない。

上手く言葉になっていないけど、芥川龍之介は確かに信じられない領域に行っていた人だったということをいまさら知った。

人間の認識は脳科学の領域のような気もするけど、たぶん、脳の科学的な構造と文学が構造化していることがかみ合う感じで何かの科学領域ができる。これがたぶん経済学を代替するのでは、という謎の直感が訪れた。

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やりたいこと・できること・求められていること(Will,Can,Must)の一角を変えたら良いのではと思った

よくある、やりたいこと・できること・求められていること(Will,Can,Must)の三つの真ん中が良いですよ、重なっているところをやりましょう!という図の「やりたいこと」の部分を変えたら良いんじゃないかなと思った。

やりたいこと、と自分が思っていることが、大体において過去の経験に基づいている思い込みであることが多いのではないかと思うので、そこを入れ替えて、「Willだと自分で思っているけどそうでないことを深堀してわかった、たぶん、やりたいとは思っていなかったけどやるとじつは良いのかもしれないこと」にしたら良いのではないか。

そしたら、必然的に、「できること」「求められていること」との重なり部分も、やりたいと思っていなかったことと重なることになるので、考えやすいのではないか。

人は変革を望みながら、無意識に変革を拒んでいる ハーバード大学教育大学院のロバート・キーガン教授に聞く | DHBRオリジナル記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

あと、Will,Can,Mustの領域で整理して重なるところを探してもあんまり新展開はなくて、似たようなことを同じように続けるだけになり、本人が実は変えたいと感じていることは変わらなそう。分野は変えているけど、過去の成功体験に基づく固定観念の世界を強固にするエピソードを積み重ねるだけになるのでは。

なので、

  1. できること → スキルを追加したらできないことができることになる
  2. 求められていること → 属している集団を変えたら求められていることを変えることができる
  3. やりたいこと → 自分が思っていることを疑うと変えられる

というように、変化させる箇所を洗い出して、立体的に図を動かした方が面白そう。

 

ふるさと納税はなぜ年収が確定してないのに見込みで限度額を探り探り寄付する感じなのか 確定した年収を使った制度にしたほうがよいのでは

ということを初めてやってみて思った。

限度額がわからないから探り探りになるし、結果的に限度額がいくらになるのかがわからないまま終わるのでは。

なんか限度額確定してから寄付する制度にしたほうが良いのでは。ということを思ったけど、それだと何か不都合があるのだろうか。

●●力はどちらでも良いが、いろんなものをまとめて企画の本来の方向を実現するのがすごく大事なのでは

プログラミング力とかデザイン力とかは企画の実現力のことですよ、という整理を聞いてなるほどとなる。

そういう●●力はあれば良いけど、それよりも現有する全てのリソースを全部組み替えて企画の本来の方向に戻したり、方向をつくり直したりすることの方が大事なのではということを思った。

 

 

最初の地点

 原初には、最も深い統一、静かに澄み渡った無があった。

 はじめに、その統一はかすかな揺らぎを自ら生み出した。

 それが始まりで。

 素粒子よりも小さな最も小さな単位での揺らぎが、この世界を生み出した唯一の原因のようだった。

 その揺らぎが無限の統一の中を無限に伝わっていくことが統一のすべての局面を、元の状態とは異なる状態へと導き続けた。その動きは終わりながら、決して終わらなかった。元の位置に戻って静止することなく、その内部での果てしない揺らぎが、小さな揺らぎへの連なりを永遠に生み出し続けた。

 揺らぎが始まったその瞬間に、原初の統一は己自身を知り、そして瞬時にその姿を忘れた。二度と統一に戻ることも、その形を似せることも、できない。それは揺らぎの瞬間に同時に現れた姿であり、その瞬間以降にはたどり着くことのない姿だった。

 原初に辿りつく方法はなく、思い出す方法もない。

 未来と過去が円環でつながれていることもない。

 しかし、原初の統一は、わたしたちの近くに、たった今とその前の瞬間の間にある。

 わたしたちの目の前に広がっては、閉じている。

 それは空中を浮遊する平らな平面のようなものとしてある。

 わたしたちの時空は、原初の統一の中にあり続けてもいる。

 驚くべき静寂が、日常の空間の向こう側を闇のように照らしている。

 視界がはげ落ちていくように、原初の統一が浸透する。

 すべてが始まった。

 今、常に、すべてが始まる瞬間を転げ落ちつつある。すべてのマイクロ秒のさらに小さな単位の間に、原初の始りがある。

 始り続け、終わることがない。水滴のように滴り落ち続ける世界。

 すべての世界には、関わりがない。すべては、お互いに知り合うこともなく崩壊し続ける。

 砕け散ることで、世界は揺らぎを生み出し続ける。 

 駆り立てられるように、砕けた世界を拾い集める人々がいる。

 世界を素材にして、塔のようなものをつくるひともいる。かたわらで塔の作られ方を研究し、人々に教えることも始まっている。競うように塔は作られて高くなるので、それを調べて教える人たちの仕事もなくならない。

 静寂はまたたいて、ゆらぎの向こうで静かに広がっている。

 もうすぐ、原初の時が来る。

 全ての始りの時が。

 それは、いつも次の瞬間に待ち構えている。

 わたしをとりまき、わたしを飲み込み、わたしを消し去る。

 その闇が、わたしたちを消し去る。

 原初の統一が、わたしたちの作り出したものすべてを、破壊し尽くしていく。

 わたしは、17歳のわたしに戻り、自室の机の前にいる。

 わたしが、始りの時に戻ったと思ったとき、わたしは天が戻ってきたのだと思った。

 結局のところ、それはすべてを忘れた私自身だった。

 記憶を失い、いま、突然にこの椅子と机とパソコンに向き合っているわたしだった。

 なぜ、ここにいるのか、なぜ、この文章を書いているのか理解していないわたしだった。

 突然に世界に放り込まれた、自分が誰なのかわかっていない人だった。

 その人は、これまでやっていたことも、これからやろうとしていたことも、すべて忘れてしまっている。ただ、昔、まったく同じように机にむかって、ノートに書きつけていた意味のわからない文章を眺めていた時と同じだと思い出しているだけで。

 何も変わっていない。

 ここにいるのが、誰なのかわからない。

 

二つめの場所

 忘れた人は、職場のことも他人のことも、すべての大切なものをなくした人だった。

 誰かはいるのだけど、それが誰なのかはよくはわからない。

 言っていることから、自分がした方が良いことは推測できる。

 それでも、それが正しいことなのかどうかはよくはわからない。

 思い出す方法があれば、自分が正しいことをしているのか知ることができるのかもしれない。思い出す方法を探しに行けば良いのかもしれない。

 よくわからないことをノートに書き続けてもわからないままだった。

 映画を作れば少しはカタチになったのだった。

 仕事はなにかのカタチになっているのだろうか。

 

 

普通の人びとは虚栄心で生きている

岩井克人「資本主義を語る」を読み直していて、最高だなと思ったのが、ここ。

かれが非常に苦労しているのは、近代の社会の根本原理だと思うんです。ホッブズいわく「普通の人びとは虚栄心で生きている」と。虚栄心というのは、自分が他人よりも優越していることで自己満足するような、そういう情念で、またそればかりでなく、自分が優越しているということを他人に証明してもらわないと満足しないという、そういう奇妙な情念であるわけです。 

・・・

それが、ホッブズ批判というかたちであれ、アダム・スミスのような議論にもつながっていたんでしょう。普通の人びとが自由に自分自身の関心だけで生きておれば、それでなんとかうまくいくという、断念にもとづく独自に自由な人間生活への展望が開けた。結局、どうしても人と人の関係を信頼関係できっちりと結ばねばならないとか、理性によってそれをなんとかするんだというほうが、むしろひじょうに恐ろしい結果になるんです。モノの関係にゆだねたほうがうまくいく。

p.144-145

 ここは、人間関係を「モノ化」するということにつながってくる。

「好きなモノ」を媒介項にするのは、人間関係をモノ化できるから好まれる。信頼関係をつくることは無理だという断念がその背後にあるはず。「コミュ障」という言葉と「モノ」への饒舌は、組み合わさって一体となったコミュニケーションの様式を作っている。

近年のコミュニティブームみたいなものは、ずっとある社会主義共産主義的な理想社会へ戻るということとは深層では違う可能性がある。どちらかというと、ホッブズが言うところの「自分が他人よりも優越していること」を示すためのアイテムとして「人間関係・社会関係・コミュニティ」が雑貨の一つとしてお金で買えるものになるということを意味している。

虚栄心の話と、「ブルシット・ジョブ」でグレイバーが指摘しているモラルエンヴィー「道徳羨望」はつながっている。自分より優越した価値を提示していると見える人に対して、攻撃をされていると感じて怒りをぶつける行動が「道徳羨望」。たとえば、意味のあるひとに喜びを与えるような仕事をしている人に対して、さらに良い待遇まで求めるのは思い上がりだ、というような攻撃が出てしまう。

このメカニズムは実は、「良い人すぎる人が疲れてしまう」という構造とも関係がないようだけど、つながっているのかもしれないということに気づいた。

「『ひとりで頑張る自分』を休ませる本」という心理学本に、こんなことが書いてある。

善意でやっているのに、相手は「悪い人」になっていて悪意として受け取ってしまって、「なんでそんなことになるの?」と苦しむことになってしまう。

・・・

確かに、人間関係でも「恒常性」が働いてバランスを取るので、相手には何かしらは伝わっています。

ただし、こちらの善意が相手に伝わってもバランスをとる「恒常性」が働いてしまうから、相手は「悪い人」の役割が自動的に割り振られて、受け止め方が「悪意」に変換されてしまいます。

p.14

ここでは、善意の人に落ち度がないように丁寧に書いてあるけれど、その裏側のメカニズムは、道徳羨望のメカニズムを理解せずに、「優れたこと、優れた言動」をすると、もれなく、相手は「虚栄心」のメカニズムの文脈で無意識に解釈をしてしまい、「私を批判し、私を否定しようとしている」と受け取るということを言っていると思う。

この本では、他人のためにではなく「自分の快」を意識することで、この陥穽から抜けられるということを教える本ですが、これは、ほぼアダム・スミスの解決策と同じでもある。

つまり、いわゆる自己啓発本で説かれるような処世術は、正統に現代の社会に対して、考えられてきたことの基盤の上に乗っかっている。

のだけど、その基盤が回収しきれていない限界や裂け目みたいなものが、どんどん広がっているような気もしている。

たとえば、アダム・スミスから、マルクスへ至る「労働価値説」が背景にしている工業製品をつくっていく産業資本主義は、労働者が作り出すモノの価値を目に見えて実感できたけれども、いまやサービス的な価値は、何が売れるのかはわからず、ひとりあたりの労働の貢献もわからない。そうなると、人間中心で考えられてきた社会とその価値の体系が、うまく生活実感や労働者としての自分の実感と合わなくなって、「私はこの社会で役に立っているのだろうか?」という疑問が生じてくる。

自動車一台をつくることは、そんなに極端に変動しないけれども、あるアニメが売れるかとか、ゲームが売れるかということは、極端に変動するので、「生産性」という概念が成立しずらくなってくる。

ここで、たぶん、求められているのは産業資本主義以前の感覚で、人間の労働というよりは自然が圧倒的な生産力を持って収穫しきれないほどの食糧を供給する、という感覚で、その中で、それほど人間が力を持っていると思わない、それ以外の要因が大きすぎる感覚を取り戻すことなのではと思ったりもする。

それは自然に生かされているとか、自然を守る、自然と一体になるという観点ではなくて、もっと自然に負けていくことが当たり前で、それを悪いことだと思わない感じなのではないだろうか。

ここを徹底することは、産業資本主義とつながっている道徳を解体していくことでもある。つまり、「生産性」で道徳の優劣が決まるという価値体系を解体していかないと、普通の人々の虚栄心の裂け目が閉じないままになってしまう。

これを、うまいこと修復するためにどうしたら良いのか。

答えは、たぶん、人間が社会の中心であり産業の支配者であった時代以前のことを思い出すことなのではないかと思ったりしている。多くのことが説明不能だったときに、人は何を思って生きていたのか。何を気にして、何を気にしていなかったのか。

その先に、資本主義と民主主義と法の支配で構築されてきた社会が、別ものになっていく何かがある。

 

生産性を考えるときに、たとえば、「コメ」を中心とした統治のストーリーを律令国家がとっていたこと。フィクションとして生産力を一律の田の面積で測れるという原則をとることで統治可能性を担保することだった、ことが参考になるのかも。

「生産性」を労働分配率の逆数として定義して個別にはさまざまである人の生活をグリッドのなかに配置することと、「コメ」と「土地」の仮想空間の中で、人々の仕事や生活を配置することを可能とすることと似ている。

それらの指標が指し示す分配と、その背後にある「モノそのもの」とは直接の関係を持っているものではない。その区切り線が、多くの人にとって当たり前であると受け取られるから、もめごとが起きないという臣民にとって支配者をなだめる意味を持ち、統治者からすれば統治の実感が得られる妥協点として存在しているに過ぎない。これは、古来より伝わる「取り分の問題」であるかもしれない。

なぜ、概念の区切り線を入れなければいけないかと言うと、その妥協点が綻ぶと、人が殺し合いをする可能性があるからということがある。そうでないとしても、楽しく生きられない可能性があるなら、何か考えた方が良い。どう区切るのかは恣意的であり、おそらく論理的でもない。

 

「『ひとりで頑張る自分』を休ませる本」のなかに自分の「万能感」を許す、という言い方があって興味深い。これは、「虚栄心」が究極の形で満たされた状態を先取りする、ということでもある。

受動的意識仮説の延長にある自分でき決められない自分の意思の大本にあるもの。その「大いなる何か」である自分が、自分自身を最終的に許すということ。これは神による許しの感覚とも近いものなのかも。

 

 

ソフトドラッグ化する社会

という言葉が思い浮かびました。
サウナとかは、脳に温度差で快楽を送り込もうとしたり、コーヒーは昔からあるけど。
喫煙とか飲食は敬遠されるのに、カジノとか色んなサービスが、基本的には快楽をどう味わうかということが目的になっているのかも。
ドラッグ合法化するという話もありますが
どうしてなのだろうか。