おうちでいることには慣れまくっているのですが、世の中がある程度落ち着いてくると逆に非常につらいものがある。
得体のしれない自罰感情すらある。
これは何か。
もう日常に戻りたくない、ずっとこのまま自宅にいたいという気持ちと、このまま家にいるとダメなやつになってしまうのではないかという恐怖で引き裂かれます。どうしたら良いでしょうか。
なんだったら、このまま自宅に待機し続けて結果的にとても貧乏な人になってしまったとしても特に問題はないのではないかとすら思います。でも、結局同調圧力に弱くて人が怖いので迎合的に出社したりしてしまうであろうという、自分の決定的な敗北を予見して今から自分で自分に絶望するという自罰感情です。
そんな自分が嫌なので、今こそ自分を変えていきたい!的なことを思いますが、今まで逃げ場になっていた「もしかしたら独立してお店を持ってみたら・・・」「英語ができるようになって海外に・・・」みたいな何も準備してないお花畑妄想すらも、コロナで無理だろみたいに自分で封殺されるので、まじで心の逃げ場がありません。
将来のことも、勝手に「お金たまったらアパートでも買ってひきこもるぞー」みたいな夢が、こうして家族がいるとはいえ半ば実現してしまうと夢ではなく現実になってしまうと楽しいだけではないことがわかってしまい、ほんとに妄想できる未来がなくなりました。つまり自身の妄想力の決定的な欠如。これがあらわれてしまった。そんなおうち時間です。
強烈な妄想力を復活させることが、この対策なので、まず今後の世界がどうなるのか、ほぼ壊れない経済が戻ってくるのに何かが壊れているという微妙な世界が来るという感じをクリアに予測する。
その後に、その世界で何をすると良いのかをもっと明晰に妄想。
>>追記 05/25
妄想力を高めるために、まずは写真のレタッチについて調べ始めた。Photshopの月額アカウントも有効にして、AIで自動生成される画像についても調べている。これでだいぶ元気になってきた。
自分でスマホで撮影した画像とAIが生成する画像を見比べると、圧倒的に自分で撮影したものの方が特異さがありすぎる。
人は、画像をみて過去の記憶と照合するので、記憶の中で特徴量が抜き出されている。美は、特徴量の記憶、自分が見たものを自分で計算して抜き出している。それとの適合具合で判断をしているから、ハイパスフィルタとかは特徴量、エッジの計算を人工知能と人とで組み合わせすると最適な特異さに近づいていく。という仮説がたった。
美と特徴量というテーマ。
エッジにある現象は、美しい。要素がバラバラになる限界で、それぞれの要素が別のスケールの宇宙ともつながっている状態であれば、美しいと思える。こんなことが美しいと思うのか!という驚きと共に、この完全性は、結局のところ同じことの繰り返しでしかないという感じもある。拡張性は退屈さと隣り合わせになっている。
対象があるかどうかには依存しないことはすでに、デジタルなものに価値がめちゃくちゃあることで証明されているからできそう。
お題「#おうち時間」