写真家としてアーティストになるためには、という講座を特にアーティストになる予定はないけど聞いてきて、とても面白かったのだけど、この面白さの説明が難しいなあと思った話。
長年疑問だった「自分の好きなことをやるのが良い」という考え方が私は、とても嫌いという感じがなぜなのかも少しわかってきました。
日本で写真をやっている人(それ以外のアートっぽい活動の全体がそうかもしれないが)の多くは、「自分のやりたいことを追求する」のがアートだと思っているがそうではない、ということを講師の方が話してました。それは仲間内の自己満足で、アートはコミュニケーションになっていないとだめだと。
これは結構大きな話で、ここを紐解くのが難しい。
なぜかというと、アーティストは「問いかけ」を持つ必要があるのだけど、その「問いかけ」は自分の「心の動き」「感動」から生まれてくるものだ、と言われていたので。
- 「自分のやりたいこと」ではない
- 「問いかけ」になっていて、他者とコミュニケーションがとれる必要がある
- 自分が何かに感動し、心が動かされたこと、その人だけが気づけたことが「問いかけ」になる
どうですか。これ難しくないですか。フィーリングと感動同じではないのか。
違いがあるというのは、その通りだろうなとは思うのですが、これをかみ砕かないと自分でも納得しにくい。この難しさは、
- 「心が動いている」と感じるのは、あくまでも自分である
- 「心が動いた」ことを「問いかけ」に転換するのも自分である
- 他者がそれを受け取ったと主張したとしても、主張していなくても、それが「問いかけ」として成立しているのか「自分のやりたいこと」に同調してもらっているだけなのかの区別はどこでするのか
もちろん、アートマーケットという客観的な指標はあるし、問いかけの質も、これまでの作品群との比較で、どれくらいの規模感の気づきなのかはある程度は判定できそう、なのだけど、「自分のやりたいこと」を独善的に追究しているかどうかをどう見分けるのか。ここが難しい。
お話の中で、フィーリングで撮られた写真は評価が難しいという話がありました。フィーリングは誰も否定ができない。序列のつけようがない。ここで、たぶんありそうなのは、「反論できる可能性」なのかも。事例としてよくあることとしてお聞きしたのは、作品を課題として与えられて作ってしまった後に「地球環境」とか巨大すぎるテーマを持ち出してくる場合があるそうです。巨大なテーマだと誰も反論できない。
- この「感動」は重要で、なぜならば今まで気づかれていなかった〇〇を、「問いかけ」として明るみに出したから
- その重要性について、過去との比較や、完成度、反響から反論できるかどうか。そうではない、という論拠をいくつも出していくことがそもそも可能かどうか。
- 重要性について、そうではないという論拠を示すことができない、そもそも何を反論すれば良いのかわからない場合は、「自分のやりたいこと」をやっている可能性が高い
とすれば良いのだろうか。
ルックアライクではなくてフィールアライクを大切にした方が良いというお話もありました。
フィーリングではだめなんじゃなかったけとなるんだけど、このフィール、というのが深堀できそうな感じがする。
Look a like は、何かと似ているという意味があるので、「前に見たことのある何かの写真と同じものを撮影したい」という気持ち、「誰か自分ではないだれかと似たものに自分もなりたい」という気持ちがある。
でも感動は、自分のそんな思惑とは全く関係なく「ただひたすらに世界が厳然と私に感じさせてくるもの」のことを指している。
ここをもう少し明確にすれば、「自分の好きなことをやれば良い」とは違う言い方ができるようになるはず。
アーティストは生き方だ、という言い方を講師の方がされていて、プロセスを求めて結果はどちらでも良いという言い方をされていたけど、これは、自分の思惑や他者の思惑も、世界が示してくるものに比べればそれほど重要ではない、ということを意味しているのかも。
つまり、まとめると「自分が好きなことをやる」は、何か似たものを繰り返して世界が自分に対して感じさせるものを無視する行為だけど、感動を吟味しようとする姿勢は、自分の「こうなりたい」といった思惑とはかかわりなく、ただ世界が自分に対して示してくる何かを見る行為。
それは自分が壊れるかもしれない怖いことでもあるのかも。
前々から、ともかく「自分の好きなことをするのが良い」という言葉が嫌いすぎて、ずっと25年間ぐらいこの嫌さと向き合ってきたが、ようやく少しだけ解明されてきたような気がする。そもそも自分がやっていることが、好きなことかどうかとかも考えたくない。