お互いに自分勝手に生きる社会をつくるために、この自分勝手は禁止というルールが一つだけある

この世の中でいちばん良いなと思うのは、みんなが自分勝手に生きていても特に問題ない、という考え方だ。

反対にいちばん良くないなと思うのは、誰かが勝手なことをしているからダメなんだとか、余計な回り道をせずに成果を出していきたい!それ以外の人は従いなさい、みたいなことはとても嫌だ。

みんなが自分勝手に生きるということは、「好きなこと」をやることとはちがう。それは、「好きなこと」は「才能があること」と結び付けられて理解されているからだ。才能がなくても何も関係ないし、嫌いなことを自分勝手にやっても良いのだ。好きなことをやりましょう、はとても心の狭い押しつけがましい社会をつくる悪い言葉だと思う。

例えば、ドイツでは、自分の近所にまずいパン屋があっても必ず買いに行くらしい、なぜならまずかったとしても自分の近所にパン屋があった方が便利だし、ずっと買い続ければいつかは美味しくなるかもしれないから、という話があるらしい。

これは、素晴らしく勝手な理由で、自分の近くにパン屋がある方が良いからそうしているだけというのは、相手の努力を慮っているわけではないので、とても良い。

でも大体はその反対で、「好きなこと」を深堀りしていくと、「才能が開花して、誰かの役に立つ」から、良いのだという理屈になっていて、この時点で完全にダメだと思う。

先ほどのパン屋の例で言えば、好きなこと深堀り理論の人がそのまずいパン屋に行ったら上から目線のダメだしをすると思う。「お前は自分の好きなパンの味をまず勉強した方が良い、そうすれば、もっと上達してお客さんも増えるだろう。」みたいなことを言って、良いこと言った感に浸るだろう。これがダメだ。本当にダメな説教だ。

役に立つかどうかは、他人が、自分勝手に決めないといけない。近くにあって便利だからみたいなそういう視点で評価しないといけない。この視点が抜けていて、あらかじめパン屋をはじめる前に「私が誰かの役に立つかどうかを知りたい」と思っていろいろ考えるから間違う。そんなことどうでも良い。ただ誰かの家の近くで便利ならそれで良いのだ。いや、私は「近さ」みたいな卑近な理由では自分の崇高な存在を肯定できないみたいなことはあるかもしれないけど、そういう自分勝手はこの世界では許されていない。

自分勝手に生きる社会は、「私がお役に立てる世界であってほしい」という自分の勝手な思いだけは確実に封印される社会だ。これが唯一絶対的に、この自分勝手だけが禁止されている。(と、たぶんヘーゲルも言っている。)

これが禁止されていると誰も言わないからおかしなことになる。だけど、これを間違っているよ、というのが難しすぎる。その人は大体において、誰かの役に立ちたいと心の底から善意で願っているので、これを否定できない。だけど、本当にこれだけはできないのだから、どこかでそれを学ぶ機会があった方が良いのではないか。

この世の中では、お互いの自分勝手をお互いに容認しているのだから、自分の仕事や才能は純粋に他人がその人の都合にかかわらず勝手に決めていく。

そうでないと、みんなはお互いに、「あの人はあれが好きで、頑張っているんだから評価してあげないと」という自分勝手ではない理由で、評価しはじめてしまう。そうすると、評価されている側は、永遠に本当の評価が得られない。ただの頑張っているから誉めてもらえている人になってしまう。本当の評価というのは、「ただ近いから」ということだけで良い。それが本当のほんものの評価だ。才能とかそんな安っぽいものではない。「近い」ということはすごいことだと思う。

だから、「私が役に立てるかどうか」は知り得ない、どうにもならない、という断念だけは絶対に最初に必要だ。そうしたら、自分もだれかのことを自分勝手に評価するし、自分のことも勝手に評価してもらえば良い。お互いに近くにいるだけで、ほんとにありがたいですね、と思って自分勝手に生きれば良い。