ユンガー・ニヒリズム・煩悶青年・プロテスタンティズムの倫理・欺きの神話(第六天魔王)

エルンスト・ユンガーの「ガラスの蜂」をアーレントを読んでいる繋がりで読み始めたが、なんとも言えない戸惑いがある。

アーレントが触れたユンガーは、当時のエリートがとらわれていた虚無的な気分の代表格みたいな扱いになっているので、そういう感じを想像して読むとそうでもない。もちろん戦後に書かれている小説だから違うというのはあるのかもしれない。

wikiの、ニヒリズム - Wikipedia にも、エルンスト・ユンガーのコーナーがあって、

ニーチェの最も過激な門人」と評されるエルンスト・ユンガーは、現代世界は、ニヒリズムの境界を通過したと言い、ハイデッガーニヒリズム論を交換している。

とあるけれど、読んでいるとあまり虚無を感じ取れない。むしろ、現代が本当にニヒリズムの境界を通過しすぎていて、ユンガーに全員がなりすぎているのかもしれない。ユンガーの郷愁があり得ないファンタジーとして遠すぎて、もう同期ができないのかもしれない。

関連しそうな話題に明治・大正期の日本の若者の流行として知られる「煩悶青年」という言葉がある。

明治期の「煩悶青年」たち という論文を読むと、煩悶青年が西洋の文学に触発されて生まれてきていると想定されている。

ユンガーと煩悶青年の共通点として感じられるのは、「世の中」vs「私」という図式を成立させるためには、「世の中」が失墜している必要がある、という自分本位の理屈があるかもとは思う。

まず「私」を相対的に浮き上がらせる必要があって(その動機も文学に触発されて生まれているのだが)、そのために「世の中vs私」の構図に苦しむ文学・哲学が手段として選ばれているというマッチポンプ構図がありそう。

これはたぶん、プロテスタンティズムの倫理の裏返しになっていて、仕事をして成果を出していることが神による救済の証となる、みたいな構図を否定したいのだけど、「否定している仕草」が「私」を保証するみたいな構図として固定されてしまい、結局永久に否定されるべきものとしての「世の中」を補給してもらう必要がある私の心の闇を見て、という地獄のループになる気がする。

この構図を、発生の歴史で解くとフロイトになってエディプス・コンプレックスになる。抗うべき父がいて、その父を乗り越える仕草がないと「私」を確立することができない、みたいに整理している。

「私」は不安定であり罪深い「世の中」を飲み込むことで成熟すると認識されている。「ガラスの蜂」のラストも、そういう幕切れとしてはいまだに鮮烈だった。

何かを欺いて成立しているという強い認識。

これは、第六天魔王を欺いて日本を作り出したアマテラスの神話とも関係がある。

私たちの世界は、何か深いレベルで欺かれているという感覚。

異端として排斥され続けても、この神話体系は強烈な力で蘇ってくる。この世界を支配している暗愚な神という形象が、私たち自身に鏡像として継承される。私たちが個人としてその責任のもとに、私たち自身の幸福を破壊することを仕事として、ますます豊かになるという倒錯を欲求として持つ。

これは何か。