過去は変えられる、の仮説・過去に向けた加速主義、忘却の効用

原因と結果を連鎖するものとして考えると、全ては原因のせいだ、ということになる。

だけど、実際には、過去は現在を規定できていないし、反対に現在が過去を規定しているし、現在を規定しているのは未来だということでもある。(これを最初の直感として採用してみるのが良いかもしれないと考え始めている。)

過去は常に強く漂白されているし、裁断された切片で、異なる鏡像として現在のために存在することを余儀なくされる。(脳構造マクロモデルも関係あるかも。)

原因から結果が生まれるというモデルの中にいると、この真実の姿が見えにくくなるけれど、本当は、そうした原因から結果というモデルが主張することは、たえざる忘却によって台無しになっているということがある気がする。

そして、台無しになっていることが良いことであると道徳的に捉え返せる気がしている。それを多くの人が善い立場だとして仮に採用することで、過去は無数の改変を被ることが当たり前のものになり、それを加速度的に進めることが過去を対象とした加速主義になる。未来を対象とした加速主義は意味がない気がしている。カタストロフを招聘することで、結果的に善い結果を得ようとするのは、依って立っているモデルが原因から結果を想定している時点で成立し得ない。常に、過去を変えていく脳のあり方に裏切られるような気がするので。

未来は運命によって確定されていて、起こった後のことだけが改変可能になっていく、分岐は未来に向かって開かれていくのではなくて過去に向かって開かれている。

歴史修正主義的な立場と、過去が変えられる、という主張は似ているようで、この過去に向かった分岐がないので違っている。

もう一つ想定できそうなのが、自由と責任が同時にある概念も、この時間を想定すると成立しなさそう。

未来から過去に向かって時間が流れていくと、自由は未来にはないので、責任は未来に対してはない。過去の分岐はこれから起きることではないので責任の概念で理解することは難しい。

全ては原因のせいであるという疎外の論理を避けようとする時に、「疎外の論理そのもの」を過去に遡って原因究明することはできなくて、それよりも、道徳の評価軸が未来ではなくて過去に向かって分岐しているという通常とは逆向きの流れを基準とすることがわかりやすい気がした。