人工知能に対する狂熱の起源も説明するかも 「偶然を飼いならす」イアン・ハッキング

 イアン・ハッキングの「偶然を飼いならす」は名著すぎる本。

 統計に興味があるけどその概念が良く考えてみると良く分からないと感じている方、その漠然とした疑問は正解です! あるいは人工知能の限界って何なのっていう疑問にも答えてしまうかもしれません! 人工知能はすごい簡単に言い切ると相関を測るだけなので、因果は何も明らかになっていない。それでもそれが、「決定論的」に見えてくるというのは、かつて統計によって人間の運命が決まっているとやや恐慌状態に駆られた19世紀の知識人たちが思考を巡らせたのと同じ流れの再来なのではないかと感じさせたのが「偶然を飼いならす」。以下のラプラスの言葉が現代にリフレインしているのだと思う・・・。

自然を動かしているすべての力とこの自然を構成している諸存在の各々の状況を理解できるような知性が存在し、さらにこれらのデータの分析ができる能力を持っているとしたら、この知性は、宇宙で最も大きな物体の運動も最も小さな原子の運動も同一の方程式で把握することになろう。この知性にとって不確かなものは何もなく、未来は過去と同じようにその目の前に存在するだろう  ラプラス「確率の哲学的試論」

 今、まったく同じ文章を「諸存在の各々の状況を理解できるような知性」を「人工知能」と読み替えても違和感は全くない。だけど、はたして「人工知能」が全能であることは私たちにとって大切なことだろうか。

 たとえば、サンプルから母集団が推定できるという今や当たり前の考え方って、本当でしょうか? 本当に今までのサンプルは母集団なるものを反映していると信じられるのでしょうか? 本当に背景に母集団があると信じられるでしょうか? 日本人女性の平均寿命が延びたと聞くと、何となく日本人全体のことが分かったような気がするのはなぜでしょうか。平均所得という言葉で自分と社会の位置関係が理解できたように思うのなぜでしょうか。その数値と私に関係がある、と感じるのはどうしてなのでしょうか。確率的に計られる社会全体の病気の発生数と、自分自身の個別的な健康とは、全く違うものなのではないでしょうか。

 色々なものが正規分布したりべき分布したりすると言われるけど、だから何なのでしょうか? それって本当に何かを説明していることになっているでしょうか。分布は繰り返される? 何を根拠に?

 たとえば以下のような文章にいかに確率的な思考が我々の骨の髄まで食い込んでいるかが示されている。すべてが相関で語れると信じる狂熱。その「相関関係」と「因果関係」とは何であるかを考えているとは思えない・・・。

とはいえ、実際我々の人生は常に相関関係で生じているといえるだろう。偶然ある場所にいたことである人に出会う確率が高まる。どのタイミングで誰と出会うか、それらは結婚ですら相関関係で決まっている。すなわち、結婚するにしても「この人でならなければなかった」理由は本来的には存在しない。しかし、人は相関関係を因果関係で捉えようとする。試験に落ちれば過去の勉強量不足を原因とした因果で捉え、成功すれば過去の努力を因果でとらえる。だが「〜をしたから〜になった」といった因果関係が、実際にはすべてを捉えることは不可能であるばかりか、世界のほとんどは相関関係でできている。それでも人は、因果で捉えなければ自身を納得させられない。

 人工知能が発達し、相関関係で捉えられた未来に我々は納得できるのだろうか。いや、しかし、こうした想定もまた因果関係で物事を捉えているからにほかならないのではないか。30年後の未来では、相関関係で物事を捉えることに人間がマインドチェンジしているかもしれない。 

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 私たちは、偶然が支配する世界、確率的な世界という概念に気付かないうちに溺れるほど浸かっているけれども、それって本当に心から信じていいものなんでしょうか。相関関係にしろ因果関係にしろ、たった一つの概念で物事を捉えることが本当にいいことなのか。

という厄介な疑問を抱えることになる困った名著です。導入編として「現代思想2000年1月号 確率化する社会」を読んでみると入りやすいかも。いまさらでごめんなさい、ハッキング! すごかったです。

 【概要】

  決定論は19世紀中に衰退し、偶然chanceという自律的な法則のために空間が開かれた。また、人間本性human natureという概念はばらつきdisper-sionの法則に従う正常人normal peopleというモデルに取って代わられた。これら二つの変化は並行して起こり、相互に影響を与えあっていた。偶然は世界からの気まぐれを減らし、言わば混沌から秩序を生み出したために、その正当性を認められたのである。世界と人々について我々が行う概念化において非決定論の要素が強くなるにつれ、逆説的であるが、期待できる統制の水準が高まってきたのである。

 これらの出来事はナポレオン時代の終わりの<印刷された数字の洪水>から始まった。さまざまな人間行動、特に犯罪や自殺などの悪い行いが計測されるようになると、それらは毎年驚くべき規則正しさで起こることが分かった。社会の統計法則が、逸脱についての公的な統計表から出現してきたのである。平均やばらつきのデータが正常人という概念を生み、さらに新しい社会工学、つまり望ましくない階級を改良するための新しい方法を生み出した。

 19世紀初めには、統計法則は根底にある決定論的な出来事に還元できると考えられていた。しかしやがて、統計法則の方が優越することが明らかとなり、紆余曲折を経ながらも、ゆっくりと決定論を侵食していった。やがて統計法則は決定論に依存せず独立した法則とみなされるようになり、その影響は自然現象にまで拡張された。こうして、新たな種類の「客観的知識」が存在するようになった。それは、自然や社会過程についての情報を獲得するための新しいテクノロジーの産物であった。このようにして正当化されるようになった統計法則は、出来事の過程を記述するためだけでなく、説明し理解するためにも使用されるようになった。こうして自然と社会の基盤を形づくる素材になったという意味で、偶然は飼いならされたのである。