マスクはやっぱ有用なんじゃねとナシーム・タレブが引用

これは私がウイルスに関してみた中で最も統計的関連があるなー、的なコメント。

そうか、マスクは有用説もあるのか、と単純に驚く。マスク有用じゃないよって言われてたからそうなのかと思っていた。わからん。

 

 

見通しはよくわからない

見通しは全くわからないけれど、シラー先生のこの記事は面白い。

われわれは、1つではなく2つのパンデミックが巻き起こす不安に襲われている。第一は新型コロナウイルス感染症パンデミックだ。われわれ自身、もしくはわれわれが愛する人々が、世界のどこであっても、近いうちに深刻な病に倒れて命を落とす危険性すらあることが、不安の原因となっている。そして第二は、第一のパンデミックが経済にもたらす影響に関する不安のパンデミックだ。

スペイン風邪のとき、株価は低下しなかった。

一つ目の理由は、1918年の7月から8月にかけて、ランスの戦いが最後の大きな戦闘となり第一次世界大戦終結が見え始め、特に同年11月に休戦協定が結ばれたことで、インフルエンザの流行の話題がかき消されていたこと。

二つ目の理由は、この時代では、いまほど株を持っている人がいなかったので、株価の低下がこれほど恐れられていなかったからかもしれない。

いまは、疫病が呼び起こす暴落の連想そのものが、暴落の原因になる時代だ、という話が書いてある。

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経済不安が株式市場にもたらす影響は、オレゴン大学の心理学者Paul Slovicと共同研究者らが「感情ヒューリスティクス」と呼ぶ現象によって媒介されている可能性がある。人々は悲劇的な事象が原因で感情面で不安定になると、恐れる理由がない状況であっても恐怖の反応を示してしまうのだ。

われわれは、ウイリアム・ゲッツマン、キム・ダソルとの共同論文で、1929年または1987年級の株式市場の暴落が発生する可能性についての人々の判断には、近隣での地震発生が影響を与えてしまうことを示した。過去30日以内に30マイル(約48キロメートル)以内を震源として大規模な地震があった場合、住民は暴落の可能性を有意に高く見積もっていた。これこそ感情ヒューリスティクスの作用なのである。

人々は最近地震があっただけで株式市場の下落を予想してしまうのだ。感染症の爆発的拡大が起きている今、株式市場の下落を予想するのはさらに想定が容易である。とはいえども、今回見られたような暴落はおそらく想定外だろう。仮に、治療によって新型コロナウイルス感染症パンデミックの影響が深刻な時期を数カ月で抑えられる、もしくはパンデミックは1年か2年で終わるだろうと人々が幅広く信じているのであれば、株式市場のリスクは長期的な投資家にとってはそこまで深刻ではないといえるだろう。バイ・アンド・ホールドして、流行が過ぎるのを待てばいい、ということが言えるだろう。

しかし、経済不安の伝播は、感染症の感染拡大とは違う仕組みで広がっていく。経済不安の伝播は、株価の下落を見たり、それを見た周囲の投資家が感情的に反応するのを見て、周囲の投資家が自信を失っていることに人々が気づくことが、1つの起点となっている。株式市場においては、株価下落に人々が気づき、どうして下落しているのかを突き止めようとする中で、下落を説明づけるストーリーが増幅されてしまうことによって、負のバブルが発生する。すると、それに続く数日でさらに株価は下落し、同じことが何度も何度も繰り返されていく。

 今後の株価を予測しようとするときにたぶん裏付けとなるのは感染の速度がどれほど抑え込めているのか、と、治療が確立されるかの二点だ。前者は、対応が可能で実際に対応が進んでいる。これが進んでいるかどうかは、実際の感染速度から観測できる。この感染の速度は先行指数になっているように見える、報告された数値に応じて株価が反応しているように見えるからだ。

 予測不可能なのは治療が確立されるかどうかだが、社会的な活動が効果的に抑え込めれば、いつかは治療が可能になるだろう。

 そうすると、治療が確立されるまでの間は確かに経済は悪くなる。これの「関連する度合い」が測りにくいので、全体として株式が売り込まれることになる。実際にすべての企業と経済が緊密に結びついてるのであれば、悲観的な予測は正しい。

 一方で、ある程度独立して供給され、消費されるタイプのサービスや商品というものもあり、それが何なのかを特定することは有益かもしれない。

 さらに、興味深いのは過去の激しく跳ね上がったボラティリティに対する評価がどのように是正されるのか、だろう。具体的にはオプションのインプライドボラティリティは毎日、かなりの速度で低下している。

 この二つの種類のギャップが面白いアイデアになりそうなのだけど、まだ良く分かっていない。全体としてのボラティリティの予測値の低下と、実際にはボラが跳ね上がる要因とそのタイミングのズレみたいなものが効果的に現出してくるところがあるような気がしている。

 仮説としては、感染速度が急速に低下していく局面で、IVも急速に低下しているけど、株価が停滞しているあるいは低下しているのであれば、これは上方に株価が修正される速度が織り込まれていない(横這いだと市場が予測している)。感染の速度という観点で見た情報が共有されていないので、増加数に跳ねるまでタイムラグがあると考えると説明ができるかもしれない。

  1. 実数で見るとよくわからない
  2. 増加速度で見れば少し先の見通しがわかるかもしれない(生物学的なモデルと、社会心理的なモデルの分布が違うのかも。前者はある程度きれいにランダムになるけど、後者はそうではないので。)
  3. だけど、2ヵ月~3ヵ月先はわからない
  4. 18ヵ月先であれば確度は高いかもしれない(バイ&ホールドするなら)

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ダウ平均と感染速度

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日経平均と感染速度

 

ミニシアターはZoom配信とかにしたらどうか

権利の問題はあると思うけど、営業を停止できない小さい映画館は、Zoomで配信して課金はピーテックスとか別の仕組みでやるとかにして、急場をしのぐとかできないのかなと今思った。

あえてミュートにしないで、笑い声とか身じろぎしている音とかも共有しあう。

権利がどうにもならないかもしれないけど、まあ新作じゃなければ良いよって、権利元が言ってくれるものだけやったら良いんじゃないだろうか。という思いつき。

 

JトラストとGLの裁判が多い

裁判が多すぎてよくわからないのだけど、いまある裁判は以下であっているのかな。絡み合っていてよくわからないな

そもそもが、不法行為があるかないかの立証ではなくて、債権を回収するまで資金をブロックすることだけが目的なのであれば、まあこれで良いのかも知れないが、よくわからない

 

Jトラストからの申立

  1. 不法行為に基づく損害賠償請求 シンガポール高等裁判所、2020年2月12日に判決 不法行為はあるかはわからないけど、妥当な訴えではあるよね、だけど却下だよね  控訴中
  2. 転換社債に係る投資契約の解消を原因とした補償請求 タイ民事裁判所に提訴中
  3. 会社更生法の申し立て 控訴裁判所が破産裁判所の判決を破棄して差戻、再度破産裁判所が却下して、控訴裁判所へ控訴中

GLからの申立

  1. 2018年1/11から3/19の会社更生申し立てにより行われた68日間の自動停止による損害賠償請求 タイ裁判所  23億円の賠償を認める
此下氏からの申立
  1. カンボジアプノンペン始審裁判所附属検察庁への告発 却下

追記

https://www.wedge-hd.com/cms_v2/assets/files/NEWS/2020/p20200325.pdf

これが出たことの意味はなんだろう。他の債権者に影響を与えずに支払いを止めるために必要だったということなのだろうか。これ出さないといけない理由がなんかあるからなんだろうけど。

仕事のテーマとは、を考えてレオナルド・ダ・ヴィンチが元祖セドラーだったことがわかった話

自分の仕事のテーマを探そうと思って色々考えて、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記を読んでいたらとりあえずダ・ヴィンチが元祖セドラーだったんだなということがわかった。

というのは脇道の話で、自分の将来のことを考えて、将来のことに予測不可能性が入るのがすごく嫌いなんだなというのがわかった。将来のことだから当たり前に予測不可能なのだけど。将来のことを妄想するとどうしても「夢」を実現しようみたいな要素が入ってきて、これが、今の自分とつながらないから予測ができなくて余計だ。こういう夢の妄想とかいらないんだよなーと思いながら「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上」を読んでいたら、

人間は、大そうな議論をするが、その大部分が空虚なまやかしである。動物はわずかしかそういうことをしないがそれは有益で真実だ。偉大な嘘よりささやかな正確さの方がましである。

という言葉があって、まさにその通りだなと思った。夢とかまやかしだわ。それよりささやかでも正確であることが良い。

将来のことは、ものすごく小さな正確性の上に堅固な土台のうえにつくった方が良い。あと、選ぶべき題材も見捨てられたものであるべきだなと思う。

なにしろ、あのレオナルド・ダ・ヴィンチですら

私より先に生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、また面白い題材を選ぶことができないのを知っている。それで私は、ちょうど貧乏のため一番あとから市場に到着したが、他に品物をととのえることもできないので、すでに他人のひやかしずみだがあまり値打ちがないために取り上げられず断られた品物すべてを買いとる男のようにふるまうであろう。

私はさげすまれ断られたこの商品、あまたの買い手の残り物、を自分のはかない荷物のうえにのせよう。そしてそれを大都会ではなく、貧しい村々に配り、かつ自分の提供するもの相応のおこぼれをもらいながらあるこう。

という認識だったのだ!

凡人は、いったいどうしたら良いのか…。

で、これを見て仕事のテーマは、「ただ同然で打ち捨てられているもの」を買いとってきて、高く売れる場所で売ることだろうなと思った。どんな仕事のテーマでも、これは変わらないのかもしれないけど、特に、私の場合はこの考え方に強く惹かれるものがある。

今も「退屈すぎて見向きもされない」仕事を引き受けて日々の糊口をしのいでいる。これは、それなりの価格で売れるのに、だれも引き受けない品物を仕入れている感じがする。しかも、この仕事は制度によってないといけないものとされているのだ・・・。

これからも、この仕事は続けていくとしても、(というのは、きっと誰もこの仕事を面白いと思いはじめる人はこれからもいないだろうから)、もっと高く売る方法とか、もっとたくさん売る方法は考えても良いかもしれない。

それと、もうひとつ面白いなと思うのは、国が違うと高く売れる品物を探したい。今までだと秋葉原仕入れたアニメグッズがアメリカでは高く売れるとか、日本の中古カメラが海外だと高く売れるとか、こういうセドリっぽいものはたくさんあったと思うけど、コンマリみたいなコンテンツで売っていけるものがまだある気がしている。

ダ・ヴィンチの姿は、まさにブックオフとか中古カメラ屋でスマホ片手に価格をしらべまくっているセドラーみたいなもので、見捨てられたテーマをいろんな田舎君主に売りつけたらまあまあ生き延びられた、という感じなのだろう。

買い手はまあまあ必要としているけど、売っている人が売れるとも思っていない、だれもが二束三文で手放してくれる分野が理想的だ。

そして、そういう領域は、売り手が見ているフレームが例えば国内の既存顧客だけが見えるとか、そのフレームの中では退屈なものに見えるとか、何かしらのその二束三文で手放したくなる「窓」がある。だけど、この「窓」のついている建物から外に出てみると、その窓からは影になって見えなかったところに買い手が大量にわらわらといて、窓から受け取った品物を、そこまで運んでいくとそれなりに売れていく。

みたいなことがあるのだと思う。こういう価格差で稼ぐみたいなことはインターネットのせいで難しくなったと言われているけど、一方ではフレーミングが全世界で統一されていくので、いったん出来上がった偏見の「窓」がなかなか修正されないというチャンスもあるような気もする。

さげすまれて断られている品物、あるいは、そもそもそこに品物があるとも思われてないこと、これを探す仕事は楽しいんじゃないか。

昔、とある国から来ていた若者が、日本の中古スクーターとかPCを買い付けて母国にコンテナで運んで売りさばく仕事をし始めていて、とても楽しそうだったのを今、思い出した。

 

なんで人は自分の欲に負けるのか

投資をしていると、まあまあ勝っている時の後に、必ず大負けする時がきて、それはなんでなのだろうか、と思うと、やはり自分の欲に負けている。

ここで、大きく賭けても大丈夫、必ず勝てるという謎の確信。

これがよくない。マネーコントロールの基礎ができていない。

そして、この欲に負けるとは何なのか。考えてみると、ここには焦りがある、自分がここで勝って、何か逃げ出したい、どうしても仕事や責任から逃げ出したいという強い焦りがある。

どうしてそこまでして、逃げ出したいのか。

それは、自分がやっていることに対する批判的な気持ちがものすごくあるからだろう。こんな仕事は何の役にも立たないという憎しみに近いものがある。それでも仕事を通じて感謝されたりするから驚く。だから、ここはズレている。本当は役に立っている部分があるのに、それを絶対に認めたくないという気持ちがある。やりたくないなら辞めれば良いのに、何となく勇気がないままに、引き受けてまた仕事を始めてしまう。これがよくない。つまりは、仕事に対する確信がないことが損失を引き出すループになっている、焦る→大きく賭ける→負ける→仕事にしがみつく→テーマが定まらない→焦る。

何か、仕事についてもこの基本さえ押さえれば常にできる、少なくともやり続けられるという確信があれば、これほど逃げ出したいと思い続けることはないのでは。

絶対にズレない小さく限定された現象を突き詰める必要があるということがわかった。仕事にもテーマが必要で、テーマとして成立させるためには、タイミングや内容をとても小さく切り詰めていかないと詳細化できない。ばくっとしたものはダメだ。そうしないと結局また自分の欲に負けてしまう。

自分自身をクライアントとして考えた時に、これなら確実に成果を出してくれそうだなと思うことは何か、という観点で考えていくことにした。

お互いに自分勝手に生きる社会をつくるために、この自分勝手は禁止というルールが一つだけある

この世の中でいちばん良いなと思うのは、みんなが自分勝手に生きていても特に問題ない、という考え方だ。

反対にいちばん良くないなと思うのは、誰かが勝手なことをしているからダメなんだとか、余計な回り道をせずに成果を出していきたい!それ以外の人は従いなさい、みたいなことはとても嫌だ。

みんなが自分勝手に生きるということは、「好きなこと」をやることとはちがう。それは、「好きなこと」は「才能があること」と結び付けられて理解されているからだ。才能がなくても何も関係ないし、嫌いなことを自分勝手にやっても良いのだ。好きなことをやりましょう、はとても心の狭い押しつけがましい社会をつくる悪い言葉だと思う。

例えば、ドイツでは、自分の近所にまずいパン屋があっても必ず買いに行くらしい、なぜならまずかったとしても自分の近所にパン屋があった方が便利だし、ずっと買い続ければいつかは美味しくなるかもしれないから、という話があるらしい。

これは、素晴らしく勝手な理由で、自分の近くにパン屋がある方が良いからそうしているだけというのは、相手の努力を慮っているわけではないので、とても良い。

でも大体はその反対で、「好きなこと」を深堀りしていくと、「才能が開花して、誰かの役に立つ」から、良いのだという理屈になっていて、この時点で完全にダメだと思う。

先ほどのパン屋の例で言えば、好きなこと深堀り理論の人がそのまずいパン屋に行ったら上から目線のダメだしをすると思う。「お前は自分の好きなパンの味をまず勉強した方が良い、そうすれば、もっと上達してお客さんも増えるだろう。」みたいなことを言って、良いこと言った感に浸るだろう。これがダメだ。本当にダメな説教だ。

役に立つかどうかは、他人が、自分勝手に決めないといけない。近くにあって便利だからみたいなそういう視点で評価しないといけない。この視点が抜けていて、あらかじめパン屋をはじめる前に「私が誰かの役に立つかどうかを知りたい」と思っていろいろ考えるから間違う。そんなことどうでも良い。ただ誰かの家の近くで便利ならそれで良いのだ。いや、私は「近さ」みたいな卑近な理由では自分の崇高な存在を肯定できないみたいなことはあるかもしれないけど、そういう自分勝手はこの世界では許されていない。

自分勝手に生きる社会は、「私がお役に立てる世界であってほしい」という自分の勝手な思いだけは確実に封印される社会だ。これが唯一絶対的に、この自分勝手だけが禁止されている。(と、たぶんヘーゲルも言っている。)

これが禁止されていると誰も言わないからおかしなことになる。だけど、これを間違っているよ、というのが難しすぎる。その人は大体において、誰かの役に立ちたいと心の底から善意で願っているので、これを否定できない。だけど、本当にこれだけはできないのだから、どこかでそれを学ぶ機会があった方が良いのではないか。

この世の中では、お互いの自分勝手をお互いに容認しているのだから、自分の仕事や才能は純粋に他人がその人の都合にかかわらず勝手に決めていく。

そうでないと、みんなはお互いに、「あの人はあれが好きで、頑張っているんだから評価してあげないと」という自分勝手ではない理由で、評価しはじめてしまう。そうすると、評価されている側は、永遠に本当の評価が得られない。ただの頑張っているから誉めてもらえている人になってしまう。本当の評価というのは、「ただ近いから」ということだけで良い。それが本当のほんものの評価だ。才能とかそんな安っぽいものではない。「近い」ということはすごいことだと思う。

だから、「私が役に立てるかどうか」は知り得ない、どうにもならない、という断念だけは絶対に最初に必要だ。そうしたら、自分もだれかのことを自分勝手に評価するし、自分のことも勝手に評価してもらえば良い。お互いに近くにいるだけで、ほんとにありがたいですね、と思って自分勝手に生きれば良い。