時間のことがわからない 時間的厚みとは

問いとして持っていて分からないこと。

時間がわかるようでわからない。

 

20年前のことを昨日のことのように感じる、とか。

未来をいまのように感じることはできるだろうか、とか。できるだろう。想像すればできる。

あり得ないような時間の混ざり方はできるだろうか、とか。できるだろう。想像すればできる。

たとえば、子どもがいる今と同じままに小学校の時に私が戻ることはあるだろうか。

 

たとえば、自分が小学生で同じクラスにいる背筋を伸ばして座っている娘を見ているということはあり得るだろうか。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

あるいは、老年を迎えた娘が静かに座ってる前に15歳のぼくが低木をかき分けて現れる。小賢しい少年の膨れ上がるプライドがまなざしからあふれ出るようにわかる。言ったところで誰にもわからない問答を得意になって始めたりする。そういうことはあり得るだろうか。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

終わりの日にすべての死者が復活するという。でも、死者はすでに復活しているのではないか。わたしのとなりに父は座っていて、わたしの書くことを覗き見てうなずいてるのではないだろうか。おそらく、そうだろう。いま、わたしのすぐそばに父はいる。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

昨日と今日の境目がない世界があるとしたら、それはどんな世界なのか。

あるいは、生と死の境目がない世界があるとしたら、それはどんな世界なのか。

これから生まれてくる未来の人たちとリアルタイムで話すことはできるだろうか。

 

これらができないのだとしたら、それはなぜできないのだろうか。

 

時間的厚みは人間の意識をつくるうえでたまたま与えられたもので、これが唯一の認識ではない。

 

人がしている認識とは違う時間はあり得る。

 

木の時間はきっと人間とは全然違う。おそらく木は退屈しない。

ずっと木が退屈するのではないか、というのが心配で苦しかった。

でも、木は退屈しない。木なりの時間を認識するだけで。

 

時間には厚みがあるが、方向はそれほどない。

少なくとも人にとって、方向は絶対ではない。

過去の記憶に入っていくときに、そこに現在の要素や未来の要素を入れることはできる。そのように加工することも、人にとってはできる。

だから、時間の逆行、タイムトラベルみたいなことが想像できる。

 

これは、厚みがあるからできるだけで、本当に時間がそのように行き来できるわけではない。おそらく真の時間とは関係なく、厚みを持って様々な刺激を統合して一つの意識の中に入れられるから、そう感じている。

 

バスが窓の右端から左端に走っていくと思った時、右端のスタートの時から始まって左端の消えていくまでを一つの絵として、「時間の厚み」を持って再生して見ていることができる。これはぶつ切りの現象という点がつながっているのではなくて、最初から最後まで時間がそこに溜まっていって、最初のことを覚えているからできる。

この「厚み」のせいで、逆に人は「流れ」を感じ取っているが、本当に流れがあるのかはよくわからない。

 

時間的な厚みがない世界ということを考えてみる。

 

バスが移動しているかどうかを点でしかとらえられない世界。

そこでは、運動している何かではなくて、「感じ」だけがあるのだろうか。

何かがある「感じ」がある。

これは、意識できていないものと近いかもしれない。

私たちは何かの「感じがする」という言い方をする。

 

時間的な厚みが届かなくて認識されないもののことを「感じ」と呼ぶしかない。

では、時間そのもののことを認識することはできるだろうか。

多分、できない。

 

時間は、思い出すことによってしか把握されない。

かつてと今に違いがあると思い出すことでしか把握され得ない。

それは、時間の把握ではなくて、バスの移動の認識と同じもので、ある地点と別の地点では何か様子が違う。違っていることに対して「時間」を当てはめる心の働きがある、ということだ。

 

それが、時間の働きかけによって起きているかどうか、本当に知ることはできるだろうか。

 

その推測は、時間的な厚みがないとして感じるであろう「感じ」と比較して、強い確信として良いだろうか。

 

それは時間のせいで起きていることなのだろうか。

時間がなくても、その変化は起きたのではないだろうか。

時間は何かを変える力を本当に持っているだろうか。

あるとして、時間の本当の姿はどのようなものだろうか。