ヘーゲルが提出した、人間は他者の欲望を欲望するようになる、だから社会に繋がるようになる、という命題は、「欲望」のところがとても難しいという地点に現代では差し掛かっているように思う。
「欲望」は、「購買」とはちょっと違う。「購買」は、潜在的に困っていることをどこまでもマーケティングで探り出して、そこを刺激していくような在り方なので、実は本人の欲望には答えてくれない。
「欲望」は、本人にもよく分からずましてや他人にはもっとわからない、非常にどこにあるのか分かりにくいものなので、自分の欲望がわかる、だけでも大進歩で森博嗣はそのことだけをずっと書いている。
エリック フォッファーは、その真ん中にいるような感じがする。
他者に見せるための欲望を厳しく否定しながら、そこで他者と繋がるための回路を探そうとしているところが、まだ煮詰まっていない感じで面白い。他人との比較で栄達するような働き方を否定しきっているのは素晴らしい。これは、そこまで割り切れなかったので、とても気持ちが楽になり、かつ、自分を厳しく否定していたポイントだったのだなと気づく。栄達を目指さないことは社会の否定なのではないか、と悩んでいたのだが、これをすっぱりと否定できれば、自分も他人も容認できる。なぜなら、小さな自分の欲望に気づき、それが良いと認めるだけでそれ以上ののぞみは社会にはないし、これが現時点における最高な状態だからだ。
ここから、先に、「自分の欲望の開放」欲望を認め合うに社会はフェーズとして移行するけど、それは、かつての60年代的な「開放」ドラッグだーフリーセックスだーみたいな感じではない。本人にもなぜなのか理解ができない、だからこそ、安らぐと言う性質の欲望であり、その承認なので、それは大掛かりな消費の仕組みすらもいらないものになっていく。
これは、その先でさらなる変化をもたらすだろうけれども、現時点で考え得る未来の進化の形としては妥当で、これをまずどう達成するかが次の目標になる。