波止場日記 組織はそもそも自然を模倣している

波止場日記(エリック・フォッファー)は、とても良い。

波止場で労働者として働きながら考え続けている。

絵画・音楽・舞踊の先行性、非実用的なもの、無駄なものの先行性をどう説明するか。おそらくここに、人間の独自性の根源がある。人間の発明の才は、人間の非実際性および途方もなさに求められるべきである。人間以外の生物はすべてきわめて実際的でありまじめである。人間の創造性の根源は、人間の遊戯性および不必要なものへの嗜好性にある。子供と芸術家にとっては、必要なものよりもぜいたくなものの方が重要なのはみのがせない。人間は必要なものを求めるよりも不必要なものを求めるときにより強く発明の才を発揮しようとするし、また現に発揮している。人間のつくりだした実用的な諸道具は大部分非実用的なものの追求のなかから得た洞察や技術を応用したものである。p.97

そのほかにも、文学の起源は、その文明の秩序が崩壊して文明を支えていた書記が失職した時に、耐えられない秩序への渇望から文学が生み出されるんだというようなことが書いてあって良い。

組織の起源は、もともと技術をもっていた社会集団に狩猟民が攻め込んできて支配し、支配者が組織をつくり、間で僧侶的な階級がもともとの文明との仲立ちをすることで、両者が結び付けられるというようなことも言っている。

これは、生命の進化とも似ていて、そもそも違う機能を持っていたもの同士か結合して、どちらが宿主ともつかない形になっていくのにも似ている。

組織とか支配の形態を人が考え出したときに、モチーフにしたのは自然だったのではないか、という感じが個人的にはしている。自然の観察から、組織という概念をひらめいたのではないだろうか。組織は、動物というよりは植物のような機能の限定された形、動かないものに近い感じがしている。

経営を自然に似せるのが良いのではなくて、そもそも組織とか経営という概念そのものが最初に自然から採用されている感じがする。組織に対する違和感は自然に帰ることで解消されるのではなくて、そもそもにおいて人間が自然的なものに対して違和感を感じているはず。

自然は、実際的に構成されているから、自然に帰ることこそが効率的な労働なので、人が労働を嫌いながらも受け入れるのは、安心感がそもそもにおいてあるからだと思われる。

ただ人間に遊戯性があるかどうか、という点で言うと多分、動物や植物にも長い目で見れば遊戯性があり、そもそもにおいてDNAが、遊戯性の根源だろうみたいな話はある。

だから自然における実際性というのは短期間の観察における機能の優位であって、ながーい目で見たらその機能ですら分化せず変化融合し続けているとみることもできる。

自然をどこから見るか、どう模倣するかで結果が違う。動物としての人間から見れば、組織はいかにも融通が効かないように見えるが、植物の世界から見たらこれ以外の方法では成長できない。2つは、出自が違うが、結局は人が観察し模倣し組み合わせているだけだ。