脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのかを読んだら、学習モデルのことが書いてあってすごく納得した。人間の行動は三種類しかなくて、

  1. フィードバック 昆虫・反射・単純行動・即物的
  2. フィードバック誤差学習による逆モデルの獲得 試行錯誤的・がむしゃら
  3. 順モデルを使ったイメージトレーニングによる逆モデルの獲得 イメージトレーニング・運動イメージ・思考、思惟的

 の3つだけ、というのが衝撃を受けた。

 逆モデルの獲得は「転びながら学習する」というもので、一回一回スキーとか自転車で転びながら、どうすると転ぶのかの予測モデルを自分の中に作っていく。

 順モデルを使うのは、実際にやらなくてもビデオとかを見ながらプロの動きを脳内に作って、スキーに行かないで会社の階段で練習をし続けたら、本番二日でいきなりうまくなるみたいなこと。「こうしたらこうなる」を思考でシミュレーションして学ぶこと。

 当たり前といえば当たり前だけど、よくある学習プログラムはどちらかしかやっていないから、両方やれば良くなるよ、ということを言っているのだなということがわかった。あと、結局入り方は別だとしても逆モデルをつくることでしかないからすごいシンプルだ。これができているかできていないかで学習効果も推定できる!

 この本の趣旨は、「心の地動説」と呼ばれているもので、これも非常に良い。

 私が、意識を用いてすべての自分の決定をコントロールしている、というように「天動説」で考えるとつじつまが合わないが、無数の無意識的な「こびと」の意思決定をすでに決定された時点で意識が受け取っているだけで、なにも決定できてはいないと考えるとつじつまが合うという内容。

 なぜ、そういう仕組みになっているか。エピソード記憶を保持するために、意識が必要だったからではないか、というのが仮説。もしエピソード記憶がないと、すでに餌をとりに行った場所にまた行ってしまったり、「夕食はもう食べた、 とか、昨日の獲物は穴においてあるとか、一週間前に自分の子どもが生まれたとか、去年の夏に家を建てた」といったエピソードがないと、「腹が減ったら食事をし、残した食べ物のことは忘れる場当たり的な行動しかできない。極度な痴呆状態だと考えれば良い。実際、下等な哺乳類は、なんらかの「意味記憶」は持つが「エピソード記憶」を持たないためにこのような生活をしているように見える。」ということらしい。

 そして、このエピソードも全部記憶してしまうと、役に立たないので、重要そうなものだけ抜き出して記憶しておくようにできている。この抜き出すということも無意識に行われていて、こうして整理・圧縮されているものをつながりとして認識しているのが「意識」だということになる。

 だから、意識は、常に前処理が全部終わった状態で物事を川下で眺めている状態にある。

 ということをふまえて、前野さんといえば幸福学だなと思い、Web記事を改めて読んだら、とても面白い。あ、そういう前提があるからこうなるのか!となって、結論だけ読んでも当たり前のことのような気がしていたことがそうでもない。

ただ、日本の画一化社会というか、偏差値社会、戦後の教育では、成績が良ければ偉い、いい大学行っていれば偉い、というように、人の強みを一つの軸で測りすぎていたと思うんです。だからありのままに自分らしく、あるいは自分の強みを見つけるという時に、成績のような一つの評価に偏りすぎていたと思います。

アメリカに行ってみるとわかるんですけど、どんな仕事をしている人も生き生き働いているんですよね。別に医者が偉いとか、経営者が偉いじゃなくて、ガソリンスタンドで働いている人も、「これは大事な仕事だぜ!」って自信を持っているわけですね。

 そういう風に、やっぱりもっと多様なものを認め合って、画一的な評価軸じゃなくて、ホスピタリティがすごいとか、誠実さがすごいとか、あるいはガソリンの入れ方がかっこいいとか、いろんな強みがあっていいと思います。それをもっと認め合って、ありのままになる社会になっていくと、その4つの因子を皆が満たすということができていくのだと思います。

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 この話は、エリック・フォッファーの「波止場日記」を読んでいるとすごく感じる。全然気にしていないので、それがすごく心地よいし安心する。このままではダメだという追い込みがすごく自分にかかっていた。

 そして、「心」がなぜ作られているのかともつながってくる。そもそも意識は、主体的に何かを決められないから、そこに力を入れて、「これをやらなければ!」となりすぎると、無理が生じて生産性が下がるのだろう。

1つ目は自己実現ですよね。発明したら、ものすごい自己実現じゃないですか。それから今イノベーションは協力して皆で、多様な人が集まると良いアイディアが出ると言われているので、2つ目の繋がりが多様であるのはいいですよね。3つ目のなんとかなる、もまさにイノベーション。リスクを取ってやることですからね。みんなが、ダメかもしれない、やめとけよ、ダメだよ、と言うのに、そこで一歩出てやるわけですから。4つめは、ありのままに、自分らしく、ですから、これが今、日本人に欠けているところですよね。全く新しいことをやること。

以上のことに、ある時気づいたんです、あれ、幸せの研究とイノベーションの研究、別にやっていたつもりだったのに、実はいっしょじゃないか、と。しかも、アメリカの研究で、幸せな社員は不幸せな社員よりも創造性が3倍高いという、強烈な研究結果があるわけですよ。ということは幸せになっておくと、創造性が3倍、アイディアが3倍出てきて、まさにイノベーションを起こせるということじゃないですか。ですから実は幸せとイノベーションは物凄く関係している。イノベーティブな経営をしようと思うなら、まさに幸福学をやらなきゃいけないということですよ。

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 というところまできて、ようやく、 「ありのままに、自分らしく」を追求できる環境をどんどん提供することに可能性がありそうな感じがしてきた。これを追求し続ければ相当良いのではないか。

 ただ、この「ありのままに、自分らしく」というのが難しく、順モデル的なものが自分の中にあって、そこから「自分らしく」を学習するということが構造的にできない、のを正しく理解する必要がありそう。ここをマニュアル化しきることができるかが次のポイントで、徹底的にマニュアル化できれば、生産性が爆上がりするポイントを発見できるかもしれない。

 そこで、「自分らしい」から離れてしまうとは何かを考えると「自己意識」の成り立ちが大事そうな感じがする。

まず、受動的な「私」(意識)の中の「自己意識」の成り立ちについて考えてみよう。「私」は、エピソード記憶をするための必然性から、心の中に生まれた機能なのだった。ということは、当然、「私」の一部である「自己意識」も、エピソード記憶ができるようになってからできあがったものだと考えるべきだ。

・・・「私」がやったこととして感じる「意識」という機能を持つようになった動物には、おまけがついてくる。すなわち、そうしていること自体、つまり、『「私」がやったこととしていま感じているこの状態』についての意味記憶を持つようになれるのだ。あらゆる機能に意味があるので、機能が生じた以上、当然、それについての意味記憶ができるようになると考えるのが自然だ。これが、「自己意識」という概念についての意味記憶だ。意味記憶は内部モデルのうような形で脳の中に記憶されているのだから、「自己意識」とは何か、を考えるときには、「自己意識」の意味記憶が「知」に読みだされて小人たちによって思考され、その結果が「意識」に届けられるわけだ。

p.116

  ここの部分がいわゆる「自己肯定感」みたいなことにつながっている感じがする。知の判断をしている部分で、「これはダメ」という判定をし続けると、ガックリきてしまうということなのではないか。

p.30にある図

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