愛着障害

愛着障害について読んでみた。幼児期の親の反応から、三つのタイプの価値観を作り出すのではないかという理論なのかなと思った。

B タイプの養育体験は‘私は受容されるだろう’といった肯定的な意味づけをもつ DR へと統合され,A タイプでは‘私は拒絶されるだろう’,Cタイプでは‘私はいつ見捨てられるかわからない’など否定的な意味づけとなる。脅威に対する即時的な反応では言語化や意識化される前に情報処理が起こるため,過去の養育体験で形成された DRがまず活性化する。

・山下 洋「思春期問題の背景にある愛着障害について」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjghp/24/3/24_230/_pdf

何か問題が起きた時に、「やっぱり私はだれからも必要とされていないのだな」と思うか、「このままだと見捨てられてしまう!私のことを見てほしい!」と思うか、それとも「まあ、今回はうまくいかなかったけど、次また頑張ろう」と思うか、ということなのでは。

個人的には、常にAタイプで「私は拒絶されるだろう」という謎の確信に満ちているので、困ったなと思った。いつも、最終的には自分は必要のない人なのだということを確証する手がかりを探してしまう…。

 B タイプでは認知・情動的側面の均衡がとれ歪曲の少ない情報処理に基づき,明確な意図と感情を共有する協働的な関係性が築かれる。一方 Aタイプでは,自己の否定的感情を抑圧するなど,自己の欲求や情動的側面は軽視・否認され,養育者が期待する結果など認知的側面のみに注目するため,自己否定と他者の理想化,過度の服従や強迫的な世話役行動に発展しやすい。C タイプでは,認知的側面よりも情動に訴える戦略をとるため,養育者との相互作用は挑発・攻撃的な態度への強制的対応がエスカレートすると一転して助けを求めて無力な懐柔的な態度を示すなど両極端な行動パターンが生じやすい。それぞれの側面が攻撃的,懲罰(報復)的,搾取的か無力,被害者的,誘惑的な対人関係に発展することがある。

明確な意図と感情を共有するのも怖いので、なるべく目的・目標は他人が決めたもので進めていきたいという強い意志がある。常に強い失敗の確信があって、その恐怖に戦慄しながら生きているということに今、気づいた。

なので、人から褒められても全く真意だと思っていないし、むしろ、否定された経験だけをしっかりと記憶していて、それが自分の真の評価だと信じている感覚があるな。何度も何度も自分を否定することを繰り返しているので、その思い込みを解除することは難しい。仕事とかキャリアにおいてうまくいっているイメージが長期的に全くない。短期的に目前のことを何とかする、ということしかない。短期的なことが終わったら、自分の居場所は結局なくなるのだと確信している。

かといって、極端に服従的だったり強迫的だったりはしないので、問題はないのだけど、自分が受け入れられるということはない、という確信は結構困る。現実と自分の予測が乖離しがちで、求められていた仕事が、自分の評価では異様に低いということを繰り返しているような気がする。それで、自分ではすぐに諦めてしまうのだけど、実はそれほど悲観的な状況でもないということがあるのかもしれない。自分では客観視できないのだけど。

子どものころから、友人たちの中で自分がいない方が良いのではないか、という思い込みが強くあって親からそんなことはないと言われたけど、その理由が見いだせなかった。今も、ずっと、どこに行ってもこの人間関係の中で、自分の居場所は本当にはない、という思い込みがある。いつか消えるものなのだという謎の確信。

自分の家庭ができてからは、その居場所はなくならそうだな、と思うのだけど、仕事とか友人関係に対しては、消えてしまうもので、きっとなくなるし、働きかけるのも迷惑なんじゃないかと思ってしまう。自分がいない方がうまく回るのだから、という感じ。

自分が姿を隠せば万事うまくいくという感じはよくわからない。論理的な感じもしない。ともかく、いることが居心地が決定的に悪い…。

何か、自分が進めているという感じも持たず、自分の亡霊が自分の代わりにさまよって仕事をしたり話したりしてくれている、コピーロボット願望みたいなものがあるのかもしれない。本当はその場にいないんだと思うことで、その場をしのいでいる感じ。

それほど深刻なものではないのだけど、時々これで良いのか…という疑問が少しだけある、何より自分の身の回りの人に対して、向き合うことができにくい。これが一番困っていることなのだと思う。ちょっと苦手な感じのする人と話すのがすごく難しいとか、が時々あって、これが、結構自分がいない方がこの場は安全なのに、なぜ私がいるのかという感覚につながっている。否定的な言葉とかに異様に傷ついて、「やっぱり自分はここにいてはいけないのだな」となってしまう…。困るなあ…。

 

 ・うまくいかない > 自分はいてはいけない

 

というのはつながっていないのだけど、自分の中で強くつながっている。

もう少しつながりを検証すると

 

 ・お祭りでもらった金魚を「自分だけ」落としてしまう > 友達に迷惑をかける、他の人と同じ行動がとれない > 同じ行動がとれる人だけでいた方が良い >  私は不要である

 

というような感じだったと思う。いつも、何か協調行動がとれないことに対する恐怖感があって、協調行動を結果的にとれてないことを強く記憶している感じがある。その場の和が乱されている場合、原因は私にあり、私がいないようにもっていった方が良いという。

この根源は何にあるのかな。

 

苦手なものがあってはいけないし、できないことがあってはいけないし、万が一それが露呈した場合には仲間としては認められない。仲間になることはできない。それはつらいから、何かあったらその関係からは外れないといけない。

みたいな感情があるな。これはつらい。そんな風に思っていたのか。

 

失敗しても構わない。失敗したら、そういうことが起きないように修正していけば良い。失敗や欠点があっても、別に存在そのものは変わらない、ということはあんまり思っていなかった。そういうことを口にすることはあっても、自分に対しては、絶対に許すつもりはなかったということか…。

何か、自分が優秀であるという感じがどこかで心のために必要だったのかも。その優れている感じがあれば、ようやく何かを乗り越えられるというような。それがなんだったのかわからないけど。