「ストレス対処力SOCの専門家が教える ”おれない心”を作る3つの方法 」抜き書き

これは、普通に良い本だった。「ストレス対処力SOCの専門家が教える ”おれない心”を作る3つの方法 」

ストレス対処力SOCという考え方に基づいて、「わかる感」「できる感」「やるぞ感」の3つの感覚を養うことで、ストレスに強い考え方を身につけていくという内容。著者はユーゴスラビアなどで研究をしてきていて、戦時下でもストレスをコントロールして生きてきた人と、そうではない人を見て、SOCの重要性を認識したという。

 1 「わかる感」を高める質問

・質問1. 「わかる必要のある問題」と「わかる必要のない問題」を見極められていますか?

 どれだけ考えても現状や今後の状況が分かると思えない問題については、その問題から離れて「目の前にあるできること」「やらなければならないこと」に取り組むことが良い。

 

・質問2. イヤな感情や感情の変化を理解し、上手に表現できていますか?

 不安や怒りを押しこめるのではなくて、どうしてその感情が出てきたかを「私は」を主語にして表現する。

 

・質問3. 「なぜその問題が起きているのか」を考えてみましたか?

 「どうして自分がこんな目に!」と感じたときは、視点が偏っていたり、視野が狭まっている。客観的に考えるために「そもそも、どうしてこんな大変な思いをしているのだろう」と原点に戻るような質問を自分自身になげかけてみましょう。

 

・質問4. あなたは今、一貫性のある環境の中で生活していますか?

 「自分がどう動いたらいいのか」「まわりに期待してもいいことは何か」がわからないのは、規律やルール、そのルールについての責任の所在、価値観などがはっきりしていないからではないでしょうか。どうしたら一貫性のある環境で生活することができるのか、考えてみましょう。多くの人がかかわっている職場環境を変えることは難しくても、プライベートの環境だけでも、一貫性のあるものへと改善していみましょう。

 

2 「できる感」を高める質問

・質問5. あなたを助けてくれる存在に気付けていますか?

 あなたを助けてくれる"元気力のモト"に気づけると、それだけで、「なんとかなるだろう」と思いやすくなります。「悩みを解決するのに役立ちそうな情報はないか」「実際、手助けしてくれそうな人はいないか」「心の傷を癒してくれる存在はいないか」「助け合いの精神のある人たちに囲まれているか」など、"元気力のモト"がまわりにいないか見渡してみましょう。

 

・質問6. 他人から上手に助けてもらえていますか?

 あなたは困ったとき、他人から助けてもらえていますか。もし助けてもらえていないのであれば、4つのステップ(まず、相手を受け入れる。)を踏みながら相談するイメージで頼ってみましょう。

 

・質問7. 心を開いていい相手を見極め、頼ることができていますか?

 自分の心の傷を小出しにして、相手の反応を見極める。

 

・質問8. 自分のもっている可能性に気付けていますか?

 あなたはものごとの良い面に気づいていますか。ものごとには良い面もあれば、悪い面もある。

 

・質問9. 健康な身体をつくっていますか?

 バランスのとれた食事。歩いたり運動をする。

 

・質問10. バランスのとれた、適度なストレスにさらされながら、生活していますか?

 退屈しすぎていないか? ストレスが大きすぎるようで、ストレスを小さくする"元気力のモト"がまったくないようであれば、環境を変えることも選択肢に入れる。

 

3  「やるぞ感」を高める質問

・質問11. 自分の価値に気づけていますか?

 「自分なんて必要ないんだ」と思っていませんか。そんなときは自分がいなくなった世界を想像してみましょう。

 たいして必要とされていないと感じるようであれば、人や自然のためになるやさしい行動をとってみましょう。きっと「必要とされている」と肌で感じられるでしょう。

 

・質問12. 「私の当然」ばかりを押しつけていませんか?

 「ありのままの自分を受け入れてくれる人がいない」と感じていませんか。そうした場合にはまず、あなたが相手のありのままを愛し、受け入れましょう。すると、相手もあなたのことを受け入れてくれるでしょう。

 自分にも、他人にもやさしい、思いやりの心をもって生活することで、同じようにやさしい人があなたのまわりに集まってくるはずです。

 

・質問13. 人をうらやむことをあなたが成長するための原動力にできていますか?

 他人と比較して、うらやんで落ち込んだりしていませんか。

 そうした場合には、現実を受け入れたうえで「比較した相手のようになるためには、どうしたらいいのだろう」と考えてみましょう。すると「うらやましいと思う気持ち」をあなたが成長するための原動力にできるはずです。

 

・質問14. 不本意な仕事や失敗にも意味を見いだせていますか?

 不本意な仕事ばかり頼まれたり、失敗してしまったときも「やってられない」「もうどうでもいい」と投げやりになっていませんか。そんなときは、「この仕事は、誰かの役に立っていないか」「この失敗から学べることはないか」などと自分に問いかけ、自分がそれに取り組む意味を考えてみましょう。意味を見出すことができれば「よし!がんばろう」と思えるでしょう。

 

・質問15. あなたを認めてくれる環境の中で生活していますか?

 あなたのまわりにいる人はきちんと認めてくれていますか。もし「きちんと認められていない」「軽んじられている」と感じられたなら、「『きみが必要だ』と思われるにはどうしたらいいのか」をしっかり考え、自分にできそうなものからトライしてみましょう。

それでもなお「認められていない」と感じる状況がずっと続き、日々、「私なんて価値がない」と苦しさが増すようであれば、思い切って、あなたの価値を認めてくれるような環境にうつることも考えてみましょう。

 

p.186-193

 

自己への配慮についてのメモを見つける

2011年9月のエバーノートのメモを見つけたけど、これが何かから引用しているのかまとめなのかが分からず。フーコーの自己への配慮の何かであることはわかるけど、何なのかはよくわからない。何かのサイトからコピペしているのかな。

ただ、自己の配慮が技術の問題だとギリシャ的に断言しているのは、「愛するということ」と繋がっている話ではある。それで現代では配慮が技術というよりは、どこか「終点」というか「コア」を掘り出すための技術になっていて、技術そのものの習練の果てに得られる体得される何かではない、というこの違いは重要な感じがする。

 

ギリシャ
・自己への配慮は魂の問題であり、宗教的な要素を持つ。真理への到達は、その人自身の変容を必要とする。
・自己への配慮は技法であり、身体の統治、自己自身の欲望の統治、コントロールを含む。
・自己は訓練され、浄化され、鍛えられる必要のある何ものかである。

 

キリスト教
・魂は、自己の放棄により救済される。真理への到達は、その人自身の変容を必要とするが、その形式は自己の統治ではない。神の全面的な受容によってである。
・真理への到達は、手続きと自己に対する技法ではなく、信仰という態度と身振りによってなされる。
・自己は慈愛によって救済されるべき何ものかである。

 

現代(ここは書きかけ)
・魂は、ある種の自己への配慮によって生み出される。真理への到達は、その人自身の変容によってもたらされる場合でも、そもそも内在していたものとの出会いであると想定される。
・真理への到達は、パフォーマンスの最大化、生産性の向上によって測られる。
・つまり、語るべき人、語るべき立場であると承認されている人は、最適化された「能力」を発揮している人のことだ。自己は、本人に内在している可能性の最大化を行う装置として認定される。アウトプットの質と量が偉大さの重みを測る。
・自己は、発見されるべきものである。そして、自己は、表現され社会的価値として実現されるべきものである。

 

まとめ
・つまり、現代の言葉では「自分らしく、気楽に生きる」ことは、必ず「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。ということになる。
だから、それは実は非常に一面的な指示であって、そのことに気付くたびに私は本当に腹が立つ

なんか、よくまとまっているな。特にギリシャキリスト教を経ての今、というのが良くわかる。表現されるべきもの発見されるべきものがない、という状態というのはとても良い。活かされるものではなくて、鍛えていくもの、獲得されるものである方が良いような気はする。体感的に正しい感じもするし。

うーん、だから、このロジックが腹立たしくも現代ではうまくいってしまうのがいやだ。

「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。 

 わかっているけど、ここから別の価値を導き出せないかというのがぼくの小さな抵抗なんだと思う。ここから真実の贈り物が生み出せるんじゃないかという。入口はこのストーリーでも良いから、別の何か、人に何かを贈る体験の連続としての人生に変化していくんじゃないかという。本当の到達は生産性ではない。生産性へのあこがれから始まっても良いのだけど、それではないものになっていった方が良い。

何かきわめて大切なことと向き合うということは、昨日他人が受けた称賛をまねてただ繰り返そうとすること、とは全然違うものになるはずだ。比較もできないし、圧倒的に今でしかない何かのことなので。その今は過去から来世という未来に繋がるもので、今が代わると未来も変わり得る。

身近な人に対して何ができるのか、ということをきちんとやりきること以上にはないのでは・・・、と個人的には思うけど。何か大いなるものになろうとしたり、大いなるものと交信しようと試みること、それ自体は、心の働きとしてはあると思うけど、それが社会としての要請になるというのは、何かおかしいような気もする。

価値の交換は可能か というテーマで話を聞いた

これ最高だったな。

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・価値の交換ってそもそも可能なのか。

交換をしているときって、本当は贈りたいという気持ちがベースにあるのではないか。原初の交換は、交換じゃなくて単なる贈与の積み重なりだったんでは。みたいなことを聞いた。

あるかもしれないし、個人的には自分が何かを「買いたい」とほぼ思わないので、何となくそれは謎が解けた感じがある。本を欲しいとか読みたいとかは、「知りたい」というだけで、それは究極は知ったことを誰かにあげたい、からなのかもしれない。

何かを完成させて人に伝えたい。

仕事も結局は、「あげたい」という気持ちの発露でしかないので、それで、自分が何を受け取るかは本質的には全く問題ではない。それで、騙されたとか働かされたということは、仕事の本質においてはない。「あげる」ということが日々できている限り、仕事は幸福でしかない。仕事の本質が誰かに何かをあげることであれば、仕事が失敗するということも本質的にはない。

と、いうように考えていくと、価値の交換はしていない、ということでもある。

すべての人がお互いに贈り合う環境をつくっているだけで、その中で価値は交換されてない。それぞれが自分の行為に満足しているだけなので、価値は、どこかからどこかに移動しているのではない。

人が純粋に善意で、「より良いものを」あげたいと思うので、プロセスが複雑化したり環境を破壊するような高エネルギー消費で、ものをつくるようになるけど、本質的には、ただあげたいだけなので、それで環境が劇的に悪くなっても人にとって問題はないはずだ。なぜなら、人があげたいだけなのであれば、そのときどき、その瞬間で最善なものは常にその人の心の中にあるから、それをあげていれば、その人は最高に幸福なのだから、べつに生活水準がみたいなことはあんまり関係がない。

ただ、いろんなものが生産がされなくなることで、身体的に不快だったり、健康状態が悪くなったりはするかもしれないけど。

それで、より「本質的な交換」とかいった仮想通貨を語るときのコンセプトは、ぼくは個人的には成立が全然できないと思った。もしかしたら、それはぼくの狭量さなのかもしれないけど、「贈る」行為の媒介物は何でも良いから、別のそこに新しい技術が投下されようがされまいが、何も変わらない。

貨幣に対する幻想を作り上げて、何が大切かの優先順位をいじることで何か自分が有利になろうとする人がいる、というのはあるかもしれない。だけど、それで、その人たちが幸せなのか・・・と考えたら、別にそうでもないだろうし、人が「贈る」ことにこころを込められるかどうかと、豊かさはそれほど関係がないかもしれない。

だから、貨幣の機能は大事ではない。

もう1つ考えるべきことは、それでも人は、「贈る」ことを何かのシステムとの対立で理解するべきなのかどうかということは思った。簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換みたいな仕組みの生み出す評価ということ自体を、何かを壊すもの、疎外するものと考える必要はあるのだろうか。

あるいは、問いを変えると、そういった簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換というコンセプトの何を変えると、もっともインパクトがあるだろうか。

ぼくの直感では、それは貨幣ではなくて「評価」だと思う。

「評価」とは、何を数え上げるのか、つまり、簿記なのだけど。カウントする「もの」をどう指定して、どこに記録するのか、の方だと思う。

貨幣は、ゲームの中の「アイテム」や「カード」なので、ゲームを変えるのはそういったコマではない。モノポリーのコマやカードをいくら変えても、どんなに機能を追加しても、カウントしたものの多さや少なさで競うというルールそのものを変えなければ、本質的なゲームは一切変わらない。

カウントすることや、保存しようとすること、何かを同じ軸におこうとすること、そのものは否定できないと思う。だから、カウントの仕方を柔軟にするとか、相対化することでしか対応できないのではないかというのがぼくの感じ方だ。

そして、その達成の評価軸を「贈る」というユーザー体験におくのはわかる気がした。まじですごい。

 それで贈るを主にした場合に「買う」とは何か、がなぞなのだけど。

「買う」というのは、「贈る」ためなのか、それともお金を「贈りたい」のだろうか。ごはんを食べるときに、人は贈られているから、おかえしをしたいのだけど、手近におかえしできるものがないから、自分の仕事を贈ったことにするための何かがほしいのか。だからお金というのは本当は、その人の仕事そのものであるということか。

仕事そのものである、ということは、「買いたい」という気持ちというのは本来的には結構理解できない。例えば映画を観たいというのは何か。それはその体験を通じて自分が何かを知ったり、解放されたりする体験だけど、それって、例えば昔で言うと物知りな長老に何か面白いためになる話をしてもらう、みたいなことなのか。

長老にとってはとても大切な贈る行為なのかもしれない。

 そして、ひとが仕事を大切にするように、仕事を誰かに贈るように、物語を大切にするのは、その長老という人格を通じて、その人を慕うようにすることによって、何かを表現しようとしているということでもある。

 それは、たぶん、この全体、すべての行為のつながっている様子そのものに対して、何かの気持ちをささげようとしているということでもある。

朝日新聞GLOBE 100歳の心とは? 老年的超越

これよかったな。すごい話だ・・・。「できないことが増えて、不幸感が高まると思いきや、自分自身をとらえ直し、不幸感が弱くなり感謝の気持ちが高まっていく」というのがすごい。できることが多い、イコール幸せみたいな価値観を粉砕する。エーリッヒ・フロムもびっくりの愛の方程式だ。すばらしい。

100歳近い人の心の内には、70代ごろまでの人の心とは異なる「幸福感」が存在する。東京都健康長寿医療センターと大阪大学などの研究(SONIC)から、こんな分析結果が浮かび上がってきた。「老年的超越」と呼ばれる精神世界はどんなものなのか。

「老年的超越」はスウェーデン社会学者、ラルス・トルンスタムが1989年に提唱した概念。85歳を超える超高齢者になると、それまでの価値観が「宇宙的、超越的なもの」に変わっていくという。1、思考に時間や空間の壁がなくなり、過去と未来を行き来する。2、自己中心性が低下し、あるがままを受け入れるようになる。3、自分をよく見せようとする態度が減り、本質が分かるようになる、といった特徴がある。

日本でも2010年から7年にわたる高齢者3000人へのインタビューや分析の結果「老年的超越」が裏付けられた。仕事を引退し、体力が衰え始める60~70代では、できないことが増えることに不安が募り、鬱々とした気持ちが高まるが、85歳以上になると超越する傾向が高まるという。大病を経験すると強まる傾向もあった。

センター研究員の増井幸恵(53)は「できないことが増えて、不幸感が高まると思いきや、自分自身をとらえ直し、不幸感が弱くなり感謝の気持ちが高まっていく」と分析。「60~70代の人は、超高齢になった親の様子の変化に戸惑ったり、いらだったりすることが多い。老年的超越の存在を知ることで、家族も介護職員の接し方も変わってくるのではないか」と話す。

朝日新聞GLOBE 2018年No.201 05面 

 

ゴリオ爺さん 良かった一節

ゴリオ爺さんの良かった一節。

ウージェーヌ・ド・ラスティニャックは、パリにもどってきたとき、人並みはずれた青年か、あるいは逆境のせいで一時的に俊敏な能力を得た人間なら、だれでも経験するような気持ちになっていた。

上巻・p.61

この「逆境のせいで一時的に俊敏な能力を得た人間」という描写が、あるなー、と思ったので、思わずここに書きたくなった。

スーパー追い込まれると人は信じられない力が出てくる。リーダーシップとか、自分の中の知らない人格が出てきて状況を変え始める。寝る前には脳内のシナプスが新しく結合されていく様が見えるような感じがする、それくらい脳がバチバチいう、そういう瞬間がある。もう一度来ないかなあ、という麻薬的な思いがあるんだけど、生涯でも一度しかきていない。自分で途方もない逆境を作ればいいのかもしれないけど、なかなかそういう境遇に落ち込むものでもないものだなあと思う。予想してしまうと、ダメで、思いもかけないときにその状況に取り囲まれるということなのかもしれない。予想すると、リスクを計算しはじめるので、ヘッジされてしまう。予想していなくても時間的な余裕があればリスクは何かの代替手段で低減されていくので、時間的な期限が極端に小さくてリスクが激増していく瞬間が良いのかもしれない。

ああ、事故ったときは瞬間的には冷静になって判断していたかもしれないな。すごい一瞬すぎて特に変わったなーとは思わなかったけど、あるといえばあるのか。

心理学的経営 抜き書き

心理学的経営で気になったことを書いておきます。あんまり本編の部分じゃないけど。

河合隼雄教授との対談での言葉を引用しておこう。

自己実現という意味での個性化の問題は、ユングは人生後半の課題であると言っていますね。前半はとにかく世の中で成功しなきゃいかん。あるいは社会での自分の地位を自分なりにきちんと見つけなきゃいかん。そして人生後半になって眠っていたもう一人の自分、もう一つの才能に気がつく。ところが今の若い人には人生の前半から、この人生後半の問題が押しかけてくる。困ったことに人生後半の問題に若者が取りつかれると何をするのも面白くなくなるんです。就職したって、金儲けしたって、何だ、というわけで無気力になる。これから人生後半の問題に前半にして取りつかれた若者の問題がますます大きくな問題になるでしょうね。」

p.214 

 性格類型検査TI(MBTI)を用いたマネジメント研修について

TI(という性格のタイプをそれぞれに調べたうえで)をフィードバックし、タイプごとにあるいはシャドウ(自分とは真逆にいるタイプ、内向的な人に対して外向的とか、感覚的に対して直感的とか。) のタイプ同士を組み合わせ、このグループを編成して、グループワークを行う。この形式の研修は、トップマネジメント層をはじめとするあらゆる階層別研修としてすすめることが可能であり、そらに職場ぐるみ、組織ぐるみの研修としてもチームビルディングの上でもTIならではの効果が期待できる。

そして、職場の人間関係のなかでも各メンバーがTIを通して「自己開示」をはじめて経験し、それぞれの「個性化」の問題を共有できることが新たな人間関係へと発展する契機ともなるのである。

p.215

 面白いのは、この性格検査が別に自分の認識を確かめるためのものでしかなくて判定のためのものではないというところ。自分が適応のために使い続けている「心のくせ」みたいなものを見つけて、そこを伸ばすのは基本的にありだけど、それによって無理してないかとか、自分でも感じ方や考え方を変えることで何か違う角度から考えが深まらないか、みたいな感じも含んで捉えられている。

 外向型の人は、内向的な面を持っていないわけではない。感覚型の人は直感的な知覚的機能をもっていないということでもない。しかし自分にとって使いやすい得意な機能をもっぱら使うので、発達が促進されタイプを形成するのである。

p.211

 つまり、性格があらかじめ決まっているわけではなくて、あくまでも利き手のようなものでしかない、という考え方だ。何か興味深い。何か今とは違うセンスを感じる。1993年の本だけど。

 そして、セルフリポートにもとづいて採点された結果ではあるが、テストの結果をフィードバックして、自分にとって最も納得のいく「自分」を確認するために、チェックリストを用いてベストフィットタイプを探し出してもらうという実習を行う。(つまりテストの結果を見ながら、タイプを変更していく。)TIの結果のタイプがベストフィットタイプの実習によって変る人はごく少数だが、この過程がタイプ論を誤解なく受け入れるために大切である。TIを複数回受けた経験のある人も少なくないが、なかには結果が変わる人もいる。こは測定の信頼性という問題よりも、「自己概念」の安定性という問題としての意味が大きい。何回受けてもタイプが変わらない人は、自分のタイプを自己受容している人が多い。そういう人は、自分のタイプを肯定的に受け止め、内面は葛藤があるにせよ、比較的安定した自己概念をつくりあげているといえるかもしない。また結果が比較的よく変わる人もいるが、そういう人は、自分のなかに両面性を自覚しているところがあって、一つのタイプに自分を固定することを必ずしもよしとしない人たちである。しかもそのときどきのテストの結果は、当人にとって納得できるものでなければ意味がない。ベストフィットタイプを探す意味はいずれにしても重要である。

 なんで、自分のタイプを探すと良いかというと、その中で自分と反対のタイプというのが出てきて、それを想像したり、真逆のタイプ認識のある他者と出会うことで気づきがでかくなるからだ。ということらしい。

あと、「問題解決のジクザグモデル」もよかった。それぞれに得意な性格的な機能があるけど、実はどれが欠けても問題解決はできないので結局全部必要だよね、という結構身も蓋もない感じの話。では、タイプとは・・・。

感覚(S)→→→→→→→直感(N)

           /

        /

     /

   /

思考(T)→→→→→→→感覚(F)

という感じで進んでいく。/がうまく矢印で書けてないけど斜め左下に進んでいます。

どの機能が欠けても最適な解決は期待できないのである。Sが欠けては状況が事実に基づいて見えてこない。Nが欠けると新しい手段や方策への洞察が働かない。Tが欠けると合理的な結論に至るという決定ができない。そしてFが欠けるとその結果が周囲にどんな影響を与え、人々がどう受け止めるかという感情への配慮が欠けてしまう。

どのタイプの人も、自分のもっとも得意とするところを存分に発揮した方がよい。たとえば、目の前の問題をどんどん解決していく実務的な実行力を求められるところでは、感覚(S)機能を支配的機能とするESTPタイプやESFPタイプなどの外向・感覚タイプが強みを発揮する。しかし、複雑なことがらについて合理的な計画を立案するような事態では、思考(T)機能を支配的機能とするESTJタイプやENTJタイプなどの外向・思考タイプがより有利ということになるだろう。また、一つのことに集中して原理的な課題に取り組むには内向・思考(IT)タイプ力を発揮するに違いない。

しかしどのタイプにとっても、障害はそのタイプの最も未発達な劣等機能に関する領域で起こりがちであることに留意しなければならない点である。自分の性格タイプを知ると同時に、職場のメンバーがお互いのタイプ情報を共有することの意味はお互いの問題解決スタイルを確認することによって強みを活かし、弱点を補うというチームビルディングに役立てることにある。

p.195-p.196

リーダーシップの四要因

第一因子は「要望性」と名づけた。これは部下に指示を与え、能力の最大限の発揮を求め、生産性を高めることを指向した行動である。

・・・

第二因子は「共感性」である。部下の気持ちを受容し、部下の行動に思いやりと支持を与える機能である。良好な人間関係や自由な雰囲気を醸成することに結びつく行動である。

・・・

第三因子は「通意性」である。仕事を進めていくうえで必要な意味のある情報を十分に提供すること・・・「寄らしむべし、知らしむべからず」ではダメで、大事な情報を上司と部下とがしっかりと共有することの必要を、この第三因子は教えている。

・・・・

第四因子が「信頼性」の機能である。・・・部下からみて、上司を管理者として能力的に、あるいは人間的に信任に値するか否かを問うているからである。 

p.120

 小集団・集団規範

組織のなかの人間の行動を最も基本的に支配しているのは、フォーマルに定められた就業規則でもなければ、社是や社訓でもない。組織の指示、命令系統によって上司が部下を動かすということはもちろんあるが、「上司の命令」を実際に感情のレベルでどのように受け止めて、どのように行動しているは、職場という集団のメンバーとの間に共有された心理的な規範によっているのである。

・・・上司からの指示のようなフォーマルな影響力によってではなくて、自分が心理的に所属している集団のなかで形成されている規範に人々の行動はしばられ、支配されるのだが、ある個人が、その規範に同調し、準拠している集団のことを、その個人のリファレンス・グループといっている。

p.64 

 自律性と自己決定

その点、職場における小集団活動の場合は、もともと、自律的な小集団の育成を通して、個々人の個性の発露や創造的活動、さらには組織への積極的参加を促すことを狙いにしているだけに、自律性も高く、公式的な組織における業務遂行のなかでは、ほとんど期待できない自由な発想や現状否定、そして集団思考によってもたらされるイノベイティブな風土の醸成にもつながってくる。 

p.69

 

愛するということ 抜き書き

ところどころ気になるところを抜き書きします。「愛するということ」エーリッヒ・フロム。

愛は技術だろうか。技術だとしたら知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。

・・・まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛する という問題、愛する能力の問題としてでなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許される限りの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。また、自分を魅力的にするために、男も女も共通して用いる手法は、好感をもたれるような態度を身につけ、気のきいた会話を心がけ、他人の役に立ち、それでいて謙虚で、押しつけがましくないようにする、ということである。愛される人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人びとに影響をおよぼす」ようになるための方法と同じである。実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものだ。

・・・愛することほど易しいものはない、というこの考え方は、それに反する証拠が山とあるにもかかわらず、いまもなお愛についての一般的な考え方となっている。

・・・人びとはこんなふうに考えている-金や名誉を得る方法だけが習得するに値する。愛は心にしか利益を与えてくれず、現代的な意味での利益をもたらしてくれない。われわれはこんな贅沢品にエネルギーを注ぐことはできない、と。

はたしてそうだろうか。

p12-p19

 第二章

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつは極めて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている。

・・・生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。・・・与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られることではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

・・・自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

・・・このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命観を高めることによって、他人の生命観を高める。・・・ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与えるものにするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛にかぎっていえばこういうことになる-愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

・・・しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。

  第二章 自己愛

さまざまな対象に対する愛がありうるという考え方には反論の声があがらないが、その一方で、他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。すなわち、人は自分を愛するほどには他人を愛さないとか、自己愛は利己主義と同じことだとみなされている。こうした考え方は西洋思想に古くからある。カルヴァンは自己愛を「ペスト」と呼んだ。

・・・利己主義と自己愛の心理学的な側面を論じる前に、他人にたいする愛と自分にたいする愛とはたがいに排他的であるという考え方が論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。すくなくとも悪ではないだろう。なぜなら自分だった一人の人間なのだから。そのなかに自分自身を含まないような人間の概念はない。自分自身を排除するような学生は本質的に矛盾している。聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。

・・・以上のようなことから、私自身も他人とおなじく私の愛の対象となりうる、ということになる。自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

・・・利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。

 第4章

 愛の習練は

  1. 規律 習練における規律だけでなく、生活の規律も含まれる。余暇における無規律が現代人の当たり前になってしまっているが、まとまりを得るためには規律が必要だ。
  2.  集中 現代人は、絵だろうと、酒だろうと、知識だろうと何でも大口をあけて必死に呑み込もうとするが、それでは集中を欠くことになる。
  3. 忍耐 速さを優先する社会において忍耐は得難いもののひとつである。スピードを重視してかせいだ時間で何をするかというと、何をしたら良いのかわからずにつぶすことしかできない。
  4. 技術の習得に最高の関心を抱くこと 生活のあらゆる場面において、規律と集中力と忍耐の習練ょ積まなければならない。

どうしたら規律を身につけられるのか。

毎朝決まった時間に起き瞑想するとか、読書するとか、音楽を聴くとか、散歩するといった活動に一定の時間を割き、推理小説を読むとか映画を観るといった逃避的な行動には最低限しかふけらず、暴飲暴食はしない-といった誰にでもわかる基本的なルールだ。

・・・現代では集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。・・・集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聞かず、たばこも吸わず、酒も飲まず、一人でじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人になりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

・・・一人でいるとそわそわと落ち着かなくなり、かなりの不安をおぼえたりさえする。こんなことをしても何の価値もない、ばかばかしい、時間をとられすぎる、などという理屈をこねては、この習練を続けたくないという自分の気持ちを正当化しようとする。

・・・いくつかのごく簡単な練習をしてみるといいだろう。たとえば、(だらしなく座るのでもなく体をこわばらせるのでもなく)リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを見るようにして、じゃましてくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。呼吸について考えるのでもなく、むりに呼吸を整えるのでもなく、ただ自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸を感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じ取れるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じ取るのだ。すくなくとも、こうした練習を朝夕二十分ずつ(できればもっと長く)そして毎晩寝る前に続けるとよい。

そうした練習をするだけでなく、何をするにつけても精神を集中させるよう心がけなければならない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色を眺めるときも、である。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければならない。精神を集中していれば自分が何をしているかはあまり問題ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるために、これまでとはまったくちがって見えてくる。

・・・他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。・・・そういう人にかぎって、集中して耳をかたむけたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってはくる。精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで、一日の終わりにベットに入ってもなかなか眠れない。

・・・集中力を身につけるための習練は最初のうちはひじょうにむずかしい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、いうまでもないことだが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時があるということを知らず、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身に付かない。

・・・自分に対して敏感にならなければ、集中力は身に付かない。これはどういう意味か。・・・たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気付いたら、自問するのだ。

以上の例に共通して重要なのは、変化に気づくこと、手近にある理屈にとびついてそれを安易に合理化しないことである。そりに加えて、内なる声に耳をかたむけることだ。内なる声は、なぜ私たちが不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、その理由を、たいていはすぐに教えてくれるものだ。

・・・私たちは、両親や親類の心の動き。あるいは自分が生まれた社会集団の心の動きを、正常とみなし、自分の精神状態がそれらとちがわないかぎり、自分は正常なのだと感じ、それ以上深く考えたりしない。たとえば、人を愛することのできる人間や、個性的な人間や、勇気や集中力をもった人間には一度も会ったことがない、という人も多い。

・・・愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味を持たず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。

ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をあのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

どんな種類の精神病者も、客観的にものを見る能力が極端に欠如している。狂気に陥った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分のなかにある、欲望と恐怖がつくりあげた現実である。精神病者は外界を内的世界の象徴とみなす。あるいは自分が創造したものとみなす、誰だった夢のなかでは同じように考える。夢では、私たちが出来ごとをつくりあげ、ドラマを上演する。それは自分の欲望と恐怖の表現である。(洞察と判断の表現であることもある)私たちは、眠っているあいだは、夢の生産物は覚醒時に知覚する現実と同じくらい現実的だ、と確信している。

狂気に陥った人はや眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし、私たちはみんな、多かれ少なかれ狂っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、世界を客観的に見ることができない。

・・・どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

 そして、最後の要素は、「信じる」こと。

自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

・・・自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。

・・・信念をもつには勇気がいる。 勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望を受け入れる覚悟である。

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして、愛するには、勇気が必要だ。ある価値をこれがいちばん大事なものだと判断して、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

・・・みんなに受け入れられなくても、自分の確信に固執するには、やはり信念と勇気がいる。また、困難に直面したり、壁にぶちあたったり、悲しい目にあったりしても、それを、自分には起こるはずのない不公平な罰だとみなしたりせずに、自分に課せられた試練として受け止め、それを克服すればもっと強くなれる、というふうに考えるには、やはり信念と勇気が必要である。

・・・第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくこどに自分が弱くなっていき、弱くなったために信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。