愛するということ 抜き書き

ところどころ気になるところを抜き書きします。「愛するということ」エーリッヒ・フロム。

愛は技術だろうか。技術だとしたら知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。

・・・まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛する という問題、愛する能力の問題としてでなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許される限りの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。また、自分を魅力的にするために、男も女も共通して用いる手法は、好感をもたれるような態度を身につけ、気のきいた会話を心がけ、他人の役に立ち、それでいて謙虚で、押しつけがましくないようにする、ということである。愛される人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人びとに影響をおよぼす」ようになるための方法と同じである。実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものだ。

・・・愛することほど易しいものはない、というこの考え方は、それに反する証拠が山とあるにもかかわらず、いまもなお愛についての一般的な考え方となっている。

・・・人びとはこんなふうに考えている-金や名誉を得る方法だけが習得するに値する。愛は心にしか利益を与えてくれず、現代的な意味での利益をもたらしてくれない。われわれはこんな贅沢品にエネルギーを注ぐことはできない、と。

はたしてそうだろうか。

p12-p19

 第二章

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつは極めて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている。

・・・生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。・・・与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られることではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

・・・自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

・・・このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命観を高めることによって、他人の生命観を高める。・・・ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与えるものにするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛にかぎっていえばこういうことになる-愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

・・・しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。

  第二章 自己愛

さまざまな対象に対する愛がありうるという考え方には反論の声があがらないが、その一方で、他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。すなわち、人は自分を愛するほどには他人を愛さないとか、自己愛は利己主義と同じことだとみなされている。こうした考え方は西洋思想に古くからある。カルヴァンは自己愛を「ペスト」と呼んだ。

・・・利己主義と自己愛の心理学的な側面を論じる前に、他人にたいする愛と自分にたいする愛とはたがいに排他的であるという考え方が論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。すくなくとも悪ではないだろう。なぜなら自分だった一人の人間なのだから。そのなかに自分自身を含まないような人間の概念はない。自分自身を排除するような学生は本質的に矛盾している。聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。

・・・以上のようなことから、私自身も他人とおなじく私の愛の対象となりうる、ということになる。自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

・・・利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。

 第4章

 愛の習練は

  1. 規律 習練における規律だけでなく、生活の規律も含まれる。余暇における無規律が現代人の当たり前になってしまっているが、まとまりを得るためには規律が必要だ。
  2.  集中 現代人は、絵だろうと、酒だろうと、知識だろうと何でも大口をあけて必死に呑み込もうとするが、それでは集中を欠くことになる。
  3. 忍耐 速さを優先する社会において忍耐は得難いもののひとつである。スピードを重視してかせいだ時間で何をするかというと、何をしたら良いのかわからずにつぶすことしかできない。
  4. 技術の習得に最高の関心を抱くこと 生活のあらゆる場面において、規律と集中力と忍耐の習練ょ積まなければならない。

どうしたら規律を身につけられるのか。

毎朝決まった時間に起き瞑想するとか、読書するとか、音楽を聴くとか、散歩するといった活動に一定の時間を割き、推理小説を読むとか映画を観るといった逃避的な行動には最低限しかふけらず、暴飲暴食はしない-といった誰にでもわかる基本的なルールだ。

・・・現代では集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。・・・集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聞かず、たばこも吸わず、酒も飲まず、一人でじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人になりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

・・・一人でいるとそわそわと落ち着かなくなり、かなりの不安をおぼえたりさえする。こんなことをしても何の価値もない、ばかばかしい、時間をとられすぎる、などという理屈をこねては、この習練を続けたくないという自分の気持ちを正当化しようとする。

・・・いくつかのごく簡単な練習をしてみるといいだろう。たとえば、(だらしなく座るのでもなく体をこわばらせるのでもなく)リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを見るようにして、じゃましてくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。呼吸について考えるのでもなく、むりに呼吸を整えるのでもなく、ただ自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸を感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じ取れるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じ取るのだ。すくなくとも、こうした練習を朝夕二十分ずつ(できればもっと長く)そして毎晩寝る前に続けるとよい。

そうした練習をするだけでなく、何をするにつけても精神を集中させるよう心がけなければならない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色を眺めるときも、である。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければならない。精神を集中していれば自分が何をしているかはあまり問題ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるために、これまでとはまったくちがって見えてくる。

・・・他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。・・・そういう人にかぎって、集中して耳をかたむけたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってはくる。精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで、一日の終わりにベットに入ってもなかなか眠れない。

・・・集中力を身につけるための習練は最初のうちはひじょうにむずかしい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、いうまでもないことだが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時があるということを知らず、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身に付かない。

・・・自分に対して敏感にならなければ、集中力は身に付かない。これはどういう意味か。・・・たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気付いたら、自問するのだ。

以上の例に共通して重要なのは、変化に気づくこと、手近にある理屈にとびついてそれを安易に合理化しないことである。そりに加えて、内なる声に耳をかたむけることだ。内なる声は、なぜ私たちが不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、その理由を、たいていはすぐに教えてくれるものだ。

・・・私たちは、両親や親類の心の動き。あるいは自分が生まれた社会集団の心の動きを、正常とみなし、自分の精神状態がそれらとちがわないかぎり、自分は正常なのだと感じ、それ以上深く考えたりしない。たとえば、人を愛することのできる人間や、個性的な人間や、勇気や集中力をもった人間には一度も会ったことがない、という人も多い。

・・・愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味を持たず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。

ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をあのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

どんな種類の精神病者も、客観的にものを見る能力が極端に欠如している。狂気に陥った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分のなかにある、欲望と恐怖がつくりあげた現実である。精神病者は外界を内的世界の象徴とみなす。あるいは自分が創造したものとみなす、誰だった夢のなかでは同じように考える。夢では、私たちが出来ごとをつくりあげ、ドラマを上演する。それは自分の欲望と恐怖の表現である。(洞察と判断の表現であることもある)私たちは、眠っているあいだは、夢の生産物は覚醒時に知覚する現実と同じくらい現実的だ、と確信している。

狂気に陥った人はや眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし、私たちはみんな、多かれ少なかれ狂っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、世界を客観的に見ることができない。

・・・どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

 そして、最後の要素は、「信じる」こと。

自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

・・・自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。

・・・信念をもつには勇気がいる。 勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望を受け入れる覚悟である。

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして、愛するには、勇気が必要だ。ある価値をこれがいちばん大事なものだと判断して、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

・・・みんなに受け入れられなくても、自分の確信に固執するには、やはり信念と勇気がいる。また、困難に直面したり、壁にぶちあたったり、悲しい目にあったりしても、それを、自分には起こるはずのない不公平な罰だとみなしたりせずに、自分に課せられた試練として受け止め、それを克服すればもっと強くなれる、というふうに考えるには、やはり信念と勇気が必要である。

・・・第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくこどに自分が弱くなっていき、弱くなったために信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。