自己への配慮についてのメモを見つける

2011年9月のエバーノートのメモを見つけたけど、これが何かから引用しているのかまとめなのかが分からず。フーコーの自己への配慮の何かであることはわかるけど、何なのかはよくわからない。何かのサイトからコピペしているのかな。

ただ、自己の配慮が技術の問題だとギリシャ的に断言しているのは、「愛するということ」と繋がっている話ではある。それで現代では配慮が技術というよりは、どこか「終点」というか「コア」を掘り出すための技術になっていて、技術そのものの習練の果てに得られる体得される何かではない、というこの違いは重要な感じがする。

 

ギリシャ
・自己への配慮は魂の問題であり、宗教的な要素を持つ。真理への到達は、その人自身の変容を必要とする。
・自己への配慮は技法であり、身体の統治、自己自身の欲望の統治、コントロールを含む。
・自己は訓練され、浄化され、鍛えられる必要のある何ものかである。

 

キリスト教
・魂は、自己の放棄により救済される。真理への到達は、その人自身の変容を必要とするが、その形式は自己の統治ではない。神の全面的な受容によってである。
・真理への到達は、手続きと自己に対する技法ではなく、信仰という態度と身振りによってなされる。
・自己は慈愛によって救済されるべき何ものかである。

 

現代(ここは書きかけ)
・魂は、ある種の自己への配慮によって生み出される。真理への到達は、その人自身の変容によってもたらされる場合でも、そもそも内在していたものとの出会いであると想定される。
・真理への到達は、パフォーマンスの最大化、生産性の向上によって測られる。
・つまり、語るべき人、語るべき立場であると承認されている人は、最適化された「能力」を発揮している人のことだ。自己は、本人に内在している可能性の最大化を行う装置として認定される。アウトプットの質と量が偉大さの重みを測る。
・自己は、発見されるべきものである。そして、自己は、表現され社会的価値として実現されるべきものである。

 

まとめ
・つまり、現代の言葉では「自分らしく、気楽に生きる」ことは、必ず「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。ということになる。
だから、それは実は非常に一面的な指示であって、そのことに気付くたびに私は本当に腹が立つ

なんか、よくまとまっているな。特にギリシャキリスト教を経ての今、というのが良くわかる。表現されるべきもの発見されるべきものがない、という状態というのはとても良い。活かされるものではなくて、鍛えていくもの、獲得されるものである方が良いような気はする。体感的に正しい感じもするし。

うーん、だから、このロジックが腹立たしくも現代ではうまくいってしまうのがいやだ。

「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。 

 わかっているけど、ここから別の価値を導き出せないかというのがぼくの小さな抵抗なんだと思う。ここから真実の贈り物が生み出せるんじゃないかという。入口はこのストーリーでも良いから、別の何か、人に何かを贈る体験の連続としての人生に変化していくんじゃないかという。本当の到達は生産性ではない。生産性へのあこがれから始まっても良いのだけど、それではないものになっていった方が良い。

何かきわめて大切なことと向き合うということは、昨日他人が受けた称賛をまねてただ繰り返そうとすること、とは全然違うものになるはずだ。比較もできないし、圧倒的に今でしかない何かのことなので。その今は過去から来世という未来に繋がるもので、今が代わると未来も変わり得る。

身近な人に対して何ができるのか、ということをきちんとやりきること以上にはないのでは・・・、と個人的には思うけど。何か大いなるものになろうとしたり、大いなるものと交信しようと試みること、それ自体は、心の働きとしてはあると思うけど、それが社会としての要請になるというのは、何かおかしいような気もする。