「熱狂、恐慌、崩壊」バブルは果てしなく繰り返される

 1618年にまで遡り、バブル現象が繰り返される歴史を見渡す本。

 どの現象にも共通する現象は、信用が拡大する、信用の拡大が小さなきっかけで行き詰る、信用が縮小するの3ステップ。
 信用の拡大を食い止める方法はない。どの時代でも、必ず法律の規制を越えて、信用は拡大する。
 
 チューリップバブルの背景にあったものは、通常のバブル現象であった。東インド会社の株価の急騰、運河や灌漑計画への投資、西インド会社への投資が急増した。チューリップバブルが崩壊した後に景気は低迷、再び好景気が訪れたときには、高級住宅、ビル、絵画などへの投資が拡大した。

 デフレが強烈な状態で訪れると、貨幣経済が停まる危険すらある。  
 p.168 「恐慌が頂点に達すると、現金が手に入らなくなるといわれる。この点についての記述は誇張されている場合が多いが、一八二五年についてはいささかの誇張もない。 

 ロンバード街の銀行家たちは、(一二月一二日に地方銀行の恐慌がポール=ソーントン会社にまで及んだ後の)日曜日に、(イングランド銀行の)総裁を訪ね、四七もの地方銀行宛に手形を振り出している会社の営業停止のままにしておくならば、ロンドンのすべての銀行で取り付けが発生するだろうと警告した。
 営業し停止されたままであった。恐慌が人々を襲い、かつてないほど広がった。誰もが現金通貨を求めた。しかし、それが手に入れるのは、いかなる条件を出してもむずかしかった。「担保の性格というものが考慮されたわけではない。ただ、通貨を創出することが不可能であることがはっきりした」と、タイムズ紙は論じている。

 ハスキッソンによれば、この時イギリスでは七三もの銀行が破綻し、二四時間以内に物々交換をやらざるをえない状況にまで追い込まれた。「ウェリントン公がウォータルーについて述べたように、『まったく際どかった─諸君がこれまでに経験したこともないような危機一髪のことだった』」のである。フランス銀行との間で銀を金に交換したのと、イングランド銀行が五ポンド紙幣と一〇ポンド紙幣(当時はこれしか発行しなかった)を発行し尽くしたとき、一七九七年以来、地下室に取り残されていた大量の一ポンド紙幣を発見するという幸運が重なって、物々交換は回避されたのである。政府の承認のもとに、この一ポンド紙幣が一二月一七日に発行され、「奇跡を起こした」のであった。 」

 信用拡大期には、自社の株式を自己資本で買い入れて株価を維持するポンジ金融的(ネズミ講的)な企業が出現しはじめる。
 
 中央銀行や政府の対処は、いつも同じジレンマへの「高度に曖昧な対応」として繰り返されている。

 p.348-p.349「通貨供給の最終的な責任がどこにあるかについては、多少曖昧であるほうが有用であろう。というのは、不確実性が多すぎて市場が混乱するのでないかぎり、多少の不確実性があったほうが銀行の自立性が高まるからだ。」「集団が大きすぎると、責任の所在は不明になる。責任が単体にある場合は、対応を求める圧力に抗することができなくなる。最適なのは、少数の関係者が、寡頭体制で密接に意見をすり合わせて考え方を共有し、不心得者や便乗者を強く牽制してその動きを抑え、最終的な責任を負う覚悟をもつことであろう。」p.351「最後の貸し手があらわれるか否か、それは誰になるのかについて曖昧なのは、関係が密な社会において最適であろう。だが、ワシントンの理事会とニューヨーク連銀の経験と見通しの相違が、一九二九年の株価の大暴落に際して、有効な対策を打ち出すのを阻害した。」

 こうした問題が国際的に伝播するのは、為替の変動相場制を通じている可能性が高い。
 為替の変動幅を小さいする政策は経済厚生を高める可能性が高いと考えられる。(変動制相場が導入されたとき、為替の変動幅は小さい範囲にとどまることが期待されたが、実際には、そうはならなかった。)

 p.361「ショックに対する調整形態としての通貨価値の変動は、必要以上にコストが高くなる可能性がある。ある通貨が「オーバーシュート」して、長期的な均衡水準よりも上昇すると、輸出より輸入が増加し、その国の貿易財にほぼつねにデフレ圧力をもたらす。逆に、長期均衡水準に通貨が下落する「アンダーシュート」は、インフレの亢進と国内金利の上昇のきっかけとなりうる。さらに、通貨急落をきっかけに、企業倒産や銀行破たんが広がった例も少なくない。」

 一九三一年の恐慌の際には、外国為替市場が崩壊するのではないか、という懸念が広がった。イングランド銀行の信頼が低下し、イングランド銀行(中央銀行)に対して国際的な最後の貸し手が信頼を提供する必要性が論じられるようになった。

 p.383「一般論として、苦境にある中央銀行に対して信用が供与されるべきであるとするならば、必要な金額が満額供与されるべきである。限度を設けるべきではない。供与額が不十分だと、そして為替相場が下落するようだと、供与された額はまったく無駄になる…。もし無制限の信用が供与されていたならば、資金の回収は生じなかったであろう、という理由で、無制限な信用供与に賛成の議論を行うことができる…。要するに、イングランド銀行に対して信用を供与しないのか、無制限に供与するかのいずれかである。しかし、多少のリスクはある。無制限の信用の供与は、その国を金本位制にとどまらせ、事態を先延ばしするが、すぐに耐えられなくなる…。ここから引き出せる教訓は、以下のとおりである。過度な負担なしに本位制を維持できる国には、無制限に信用を供与していいが、平価の維持に課題な負担がかかるのであれば、信用を供与せず、通貨の下落を容認するべきである。」

 こうした問題に対して、「国際的な最後の貸し手」として「国際決済銀行(BIS)」や「国際通貨基金(IMF)」が、ケインズらの時代に設立された。ただし、IMF通貨発行権を持たないため、無制限に貸し出しを行うことができない。

 p.432-433
 「一九八〇年代初頭以降、特筆すべきは、ほぼすべての銀行危機に通貨危機が絡んでいる点である。主たる例外は九〇年代前半の日本の金融危機で、円の通貨危機は絡んでいない。(通貨危機を通じてバブルが伝播し、繰り返されるリズムがある、メキシコのバブル崩壊の後に日本の危機があり、日本の円高が資金を東南アジアに移動させて、東南アジアがバブルになり・・・。)…
 一九七〇年代初頭に始まった国際的な資金移動の波は、持続不可能なほど大規模なものだった。一国の対外債務がGDPを大幅に上回るペースで増加していたのである。資金流入が鈍化すると、受入国の通貨は下落した。海外投資家がそれまで投資してきた資金を引き揚げようとしたため、往々にして通貨の下落幅は大きくなった。」

 p.437-438
 「一九七〇年代初頭以降、通貨の変動幅は過去のどの時期に比べても大きくなっている。しかも、この変動幅は、変動相場制を支持する人々の予想を大きく上回るものだった。…
 国際的な資金移動の変化は、それに相当する財の移動と貿易収支の変化を伴う。資金が流入した国では、家計資産の増加と自国通貨の上昇を背景に個人消費が増加し、貿易赤字が拡大するはずである。
 ある国へ流入する資金の増加は、当該国で利用可能な貯蓄の増加と同じように、相当する個人消費、設備投資の増加、財政赤字の拡大によって調整される。ほとんどの国では、個人消費GDPの60%〜70%を占めるため、国内に流入する資金が増えた場合、その調整には、個人消費の増加--同じことだが、家計貯蓄の減少を伴う。海外部門の貯蓄が利用しやすくなると、資産価格が上昇し、個人消費が増加し、国内の貯蓄率が低下する。
 国際的な資金移動がの方向が変わると、結果として為替相場が大きく変動する。資金流入が加速した国では、通貨が実質で20〜30%上昇し、オーバーシュートする。そこに異変が起きて、資金が流出に転じると、40〜50%も下落する場合がある。こうして、当初の流入した資金が必然的に逆転するとき、通貨バブルが崩壊する。
 資金流入の加速は、金融規制の緩和など制度改革の後に起きる場合が多い。国境を超えてリスクをとる意欲のある投資家にとって、通貨の上昇で予想利回りが高まるため、資金流入は加速されやすい。だが、こうした投資家は全体としてみれば、最後に勝つことはできない。借り手の債務が過大なペースで積みあがるため、いずれは通貨は下落する。」

 p.439
 「いずれのバブルの波にも共通する特徴として、広い意味でのグループ--時に政府であり、たいていは住宅保有者を含めた不動産の投資家の債務が、年率20-30%増加する状態が三、四年、あるいはそれ以上続いていた。借り手の新規の借り入れで既存債務の利払いができた。数年なら経済成長率を上回るペースで借り入れを増やすことができても、いずれ貸し手が新規融資に慎重になり、借り手が利払いのために現金確保に追われる事態に陥る。こうしたバブルのほとんどは、国際的な資金移動を伴い、資金流入が減少した国の通貨は下落した。」

 p.440
 「…金融の崩壊局面では、通貨の下落を受けてほぼ一律に金利が急騰し、それをきっかけに不動産価と株価が大幅に下落した。これらの危機のほとんどは、「予測可能」だった。というのは、既存の外貨建て債務の利払いを、外国からの新規融資に依存するのは、そもそも無理があるからだ。…いつ、どういう形になるかは予想できないにしても、貸し手が融資拡大に慎重になるのは当然だった。」

 p.441-p.442 金融混乱の原因
 「第二次世界大戦以降の最初の大きなショックは、一九六〇年代後半にアメリカのインフレ率が5〜6%のレンジに上昇したことだった。その前の二〇年は、インフレ率はほぼつねに3%を下回っており、たいていはドイツをはじめとする西ヨーロッパ諸国よりも低かった。アメリカの経常赤字は六〇年代末に急増し、欧州の通貨や日本円が対ドルで切り上げられる可能性が高まったかに思われた。投資家や企業は、予想される平価の変更による損失を回避し、利益を得ようと、資金をアメリカから移した。アメリカは金のドル建て価格の引き上げには消極的で、ドイツ、フランス、日本は自国通貨の切り上げを嫌ったことから、経常収支の不均衡は拡大し、ドイツや日本など経常黒字国では外貨準備が急速に積み上がった。そうしたなか、七一年にアメリカの景気が鈍化し、インフレ率が低下すると、FRB金利を引き下げて景気を刺激した。ドル建て証券の利回り低下を受けて、巨額の資金がニューヨーク市場から海外の金融センターに移った。
 一九七〇年代初頭の世界的なインフレ亢進は、平時としては異例のことだった。この背景には、アメリカの通貨供給量が金融緩和後に速いペースで増加したこと、ドイツおよび日本でも経常黒字の増大に伴い通貨供給量が増加したことがある。アメリカのインフレ率が諸外国を上回っていたことで、為替レートの見直しが必須になった。アメリカのインフレ率は、ドイツのそれを二%以上も上回っており、ブレトンウッズ体制に定められた調整可能な平価制度の維持は困難になり、ドイツ・マルク、日本円などの主要先進国の固定相場制からの離脱が避けられなくなった。
 アメリカのインフレ率が上昇するに従い、ドル建て証券の金利も上昇した。だが、ドルの要求払い預金の金利は、銀行間の競争を抑制するためFRBが導入していた上限規制によって頭打ちとなった。この上限金利は、ロンドンなど海外の金融センターのドル建て預金に適用されなかったため、アメリカから海外の金融センターへの資金移動が促された。一九七〇年代初頭、アメリカをはじめとする主要国の高い通貨供給量の伸びを背景に、国際商品の需要が急増し、原油や小麦などの商品の価格を押し上げた。一次産品の生産国では経済成長率が高まった。七三年一〇月、第四次中東戦争が勃発し、サウジアラビアがアメリカやオランダ向けの原油輸出を禁止したことで、原油需要が急増するとともに価格が急騰した。七九年のイラン革命の混乱による原油供給の落ち込みは、原油価格と世界の物価水準にさらに大きな影響を与えた。投資家は、インフレをヘッジする手段として、金などの貴金属や骨董品、不動産などの「実物資産」を買い漁った。

 p.443-p.444 信用バブルの第一波
 「一九七〇年代、一次産品の生産国における経済成長率の高まりを受けて、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどの途上国の政府や国営企業向けの銀行融資が拡大し、約一〇年で30%増加した。これらの国の対外債務は年率20%で増加した。融資の担い手は、カナダや欧州各国、日本の銀行で、ロンドンやチューリヒルクセンブルクなどのオフショア市場で調達したドルを原資に貸し付け、かつてのアメリカの銀行の牙城を「侵食」した。アメリカの銀行も、母国での融資や資産の拡大を阻む規制から逃れようとしていた。メキシコやブラジル、アルゼンチンなどの途上国は、資金流入の加速で拡大する貿易赤字を穴埋めすることができた。
 次なる大きなショックは、一九七九年一〇月にFRB議長のポール・ボルカー議長が導入した新金融調節方式(いわゆるボルカーショック)だった。それまでFRB短期金利を安定させ、市場の需給で信用の伸びが決まっていたのに対し、新たな金融調節方式では、逆にFRBが新うの伸びを抑えることにより市場で金利が決まることになったが、その金利が急騰したのだ。この方式が導入されて一〇週間後、金のドル価格がピークをつけた。インフレ率が上昇を続けるとの予想が打ち砕かれたからである。投資が落ち込み、景気が後退した。原油をはじめとする商品価格は急落した。
 ドル建て証券の金利の大幅な上昇と、アメリカの予想インフレ率の急低下を背景に、ドル建て証券への投資需要が増加し、ドイツ・マルク、日本円などの主要通貨は下落した。メキシコなどの途上国では外貨建て債務の金利上昇と、輸出数量および価格の下落との挟み撃ちにあった。テキサスの銀行も同様に、金利の上昇と原油価格の下落の直撃を受けた。アメリカのS&Lでは、貸出原資の短期預金の金利が大幅に上昇し、多くの場合、長期の住宅ローン金利を上回り始めた。
 
 p.444 p.445 信用バブルの第二波
 「一九八五年春*1から始まった円高は、政府・日銀による円売り・ドル買い介入を招いた。日銀が保有するドル証券が大幅に増加し、それが通貨供給量の急増につながった。*2日本では、企業に超低利資金を供給することを目的に、金融システムに規制が張り巡らされた。さらに、政府が戦略的に重要だと考える産業に融資が実施されるよう、銀行に行政指導が行われた。日本の金融自由化の背景には、産業界の銀行融資に対する需要が減退し、優先順位に基づいて信用を配分する必要がなくなったことがある。また、アメリカの金融機関が東京の銀行市場や資本市場において、ニューヨーク市場での邦銀と同様の活動ができるよう、アメリカの政策当局から迫られたことも一因であった。
 規制緩和を受け、東京や大阪を本拠にする銀行は、不動産融資を急速に拡大した。建築規制があり、大規模用地の買収には時間がかかるため、住居やオフィスの供給はすぐには増えず、地価は先行して大幅に上昇した。東京証券取引所に上場する企業の多くは不動産に投資しており、不動産価格の上昇は、それら企業の資産価値と自社株の上昇につながった。
 円高の進行を受けて、邦銀や一般企業の海外投資が活発化した。邦銀は、ロンドンやニューヨーク、チューリヒなどの海外の主要金融センターに支店や子会社を相次いで設立し、日本の貯蓄がアメリカや欧州各国に向かう流れが加速した。ニューヨークでも東京でも、「日本が米国債の購入をやめたら、アメリカ財務省財政赤字の穴埋め資金をどこから調達するのか」というセリフが決まって聞かれるようになった。海外に次々と設立された邦銀支店は、オフショア市場で調達した資金を原資に、現地市場でシェアを伸ばそうと競争相手より低い金利で融資を拡大した。日本の投資家は、アメリカをはじめ先進各国で、オフィス・ビルやアパート、ゴルフ場、スキー場などの不動産を購入し始めた。そのほとんどは、ロンドンやチューリヒなど海外の金融センターの邦銀支店から融資を受けていた。
 フィンランドノルウェースウェーデンでも、金融自由化で銀行がオフショア市場で資金を調達し、国内で貸し付けるようになった。これらの国では、海外からの資金流入に伴い、株価や不動産価格が大幅に上昇した。日本では一九九〇年に不動産融資の伸びを抑える総量規制が導入された結果、資産価格バブルが弾けた。債務比率の高い借り手は、新たな借り入れで利払いを賄うことができなくなった。株価は九〇年に約40%、九二年には約30%下落している。景気は大きく落ち込んだ。輸出の伸びが輸入の伸びを上回ったため、円高が進んだ。日本企業は、円高による収益圧迫を受けて。生産拠点を中国やタイなどの東南アジア諸国に移し、日本やアメリカなどの先進国向けの供給基地にした。邦銀は、日本企業の進出国での融資を急速に増やした。

p.446 447 信用バブルの第三の波
 「一九八九年から九〇年にかけてブレイディ債*3が開発されたことで、メキシコなどの途上国は、デフォルトしていた銀行借り入れを長期債に転換できた。その一部にはアメリカ政府の保証がつけられ、世界の資本市場から締め出されていた「失われた10年」は事実上、終わった。メキシコは北米貿易協定(NAFTA)への加盟準備にとりかかった。インフレ率を引き下げるためにメキシコ銀行が金融を引き締め、多数の国営企業を民営化し、貿易や企業活動に関する規制を緩和した。アメリカ、欧州、日本の企業が製造業の拠点を相次いでメキシコに設立し、メキシコへの直接投資が急増した。アメリカのMMFは、利回りが高く、割安なペソ建て証券を購入し始めた。アメリカの年金基金投資信託も、新たな資産クラスとして「新興国の株式」の組み入れ比率を高めた。メキシコの経常赤字のGDP比は六%に上昇した。
 同様に、ブラジル、アルゼンチン、タイ、マレーシア、など、(長年、途上国と呼ばれ)新興国に改称された各国にも流入する資金が急増した。これらの国の通貨は実質で上昇し、貿易赤字と経常赤字が拡大した。
 そうしたなかで、一九九四年に入って、いくつかの政治的事件が起きた。インドでは、最南端の州で民衆が蜂起した。メキシコでは、大統領の最有力の与党候補が暗殺された。これをきっかけにメキシコへ流入する資金は減少した。メキシコ銀行は、巨額の貿易、経常赤字を海外から流入する資金で穴埋めすることが出来なくなり、ペソは急落した。タイでは、九六年末に資金流入が大幅に鈍化した。規制を迂回するために銀行が設立した消費者金融会社が多額の不良債権を抱え、銀行本体が不良債権を抱えたのと同じだとみなされた結果だった。九七年七月初めにはタイ銀行の外貨準備が底をつき、バーツを支えきれなくなった。バーツ急落の影響は、アジア全域のみならず、ブラジル、アルゼンチン、ロシアに伝播した。これらの国の輸入の合計は、輸出に比べて1500億ドルも減少した。こうしたショックのいくつかは、文字通り予想外だった。九四年初頭のメキシコの政治的事件は予想できなかった。だが、メキシコの経常赤字は持続不可能なほど巨額であり、いずれ何らかのきっかけで資金流入が減少すると予想できたはずである。タイヤマレーシアでも、資金流入が減少すれば、不動産と株式のバブルが弾けるのは避けられなかった。」

 p.447 p.448 信用バブルの第四の波
 「二〇〇二年から二〇〇七年にかけて特筆すべき現象は、アメリカ、イギリス、スペイン、アイルランドアイスランド南アフリカニュージーランドにおける住宅価格と商業用不動産価格の大幅な上昇である。住宅用不動産価格が二倍以上に跳ね上がった国もある。アメリカの住宅用不動産価格の上昇率は、諸外国を下回っていたが、価格上昇が目立った南部及び東西沿岸部の三分の一の州は、価格が二倍以上に上昇した地域もあった。
 どの国でも、海外からの資金流入が加速し、単一通貨ユーロを使うスペインとアイルランドを除いて通過が上昇した。ここでも債務の伸びが速すぎて持続不可能だった。アメリカとイギリスでは、流入する資金が減少すると、不動産向け信用供給が減り、不動産価格が低迷した。住宅ローン関連証券の価格が下落し、多くの金融機関が経営危機に陥った。大規模な建設ブームが起きたアイルランドでは、バブルが破裂すると銀行が破綻した。アイスランドでは、多額の資金が流入していた時期にめざましく上昇していた株価が、資金流入が止まる同時に急落し、通貨価値は半分近く失われた。
 アメリカの不動産価格は、二〇〇七年初めに下落に転じた。大手投資銀行の一角ベアー・スターンズが大手商業銀行JPモルガンに買収されたが、不良債権額に応じて三百億ドル近い持参金がつけられた。二〇〇八年九月中旬、アメリカの住宅ローンの五〇%を占める政府系の住宅金融機関、ファニーメイフレディマックの二社が、財務省の管理下に置かれた。両者の普通株優先株の株主は、全資金を失った。社債保有者は、数千億ドルの損失を抱えるはずが、財務省によって「救済」された。その数日後、全米第五位の投資銀行リーマン・ブラザーズの売却交渉が不首尾に終わり、同社は破綻した。信用市場はパニックに陥り、恐慌が発生した。米国債に対する上乗せ金利が急騰した。数ヵ月後、ギリシャポルトガル国債が売り浴びせられた。ギリシャ財政赤字GDP比率は十二%にのぼり、債務残高はGDPの一二五%以上に達していた。大手の国際金融機関が積極的に買い進んだことで、これらの国は持続不可能なほどの巨額の財政赤字ファイナンスすることができていた。ギリシャの債務残高が急増したのは、歴代の政権が債務残高に関する情報を隠蔽していたことも一因である。それでも債務が大幅に増加したのは、「そこにマネーがあった」からだ。銀行が積極的に国債を買い入れたことで、巨額の財政赤字ファイナンスできた。ところが、貸し手の銀行が突然、慎重な姿勢になったことで危機に陥り、政府は利払いや給与支払いのための現金を確保できなくなった。」

 p.450 データのなかのパターン
 「それぞれの信用の波における貸し手と借り手のキャッシュフローのパターンは、ポンジ・スキームのそれであった。つまり、借り手の債務が金利を何倍も上回るペースで伸びていた。三、四年程度であれば、新規の借り入れで資金を調達できるため、既存債務の利払いは難なくできる。だが、このキャッシュフローのパターンは持続不可能だった。…政府の場合は、歳出よりも税収を増やして利払いに充てるか、デフォルトすることになる。」

 


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 現在の、日本銀行の行動は、歴史的に正しいものであるといえる。
 ただし、必ずどこかの時点で、低下した信用の補填をしなければいけなくなる。国際的な最後の貸し手が登場する局面が現われる可能性が高い。または、激しい資本流出により円が劇的に下がることによって、政府債務の価値を生産力に比べて強引に下げていくことになるだろう。それに伴い円資産はインフレによる毀損することになる。
 
 また、イギリス政府のかつての積みあがった債務の返済プロセスをさらに調査したい。

  経済成長+マイナス金利(インフレ率を下回る金利)+財政黒字
  が必要になる。

 と、いうことは、必ず政府は、財政黒字を実現するまで、財政支出の拡大とバブル誘導と円安を止められない。
 日本からの資本流出が続く限りは問題がない、ただ円安が加速するだけだ。
 もし、資本が流入し始め、円高になりはじめると、不動産投資が増加するだろう。
 不動産投資の収益性が高くなりすぎると、信用の拡大が止められなくなる。
 信用の拡大を止めるために、金利を上げると、円高が誘発され、短期的にはバブルを止められない。

 可能性としては中国経済の崩壊がどこかで、サイクルを止める可能性もある。
 
 どのシナリオでも、国債暴落の前に、バブル段階が必ず来る。
 そして、その段階で政府の税収は増加する。それによってGDP比率は下がり、債権の安全性が上昇する。
 一方で、急激な利上げは日銀の破綻をもたらすため、利上げの自由度はない。
 そこに、すべての投資家がつけこむ余地が生まれる。
 フリーランチのようにみえる収益機会にあらゆる投資家が流れ込みはじめるだろう。

 放置されたバブルの期間と規模により、国債の返済比率が決まるが、一方では将来の不良債権が高すぎる不動産価格分上乗せされることになる。この金額と、現在の債権価格の総額のどちらが大きいのか・・・。

 ・「GDP比250%の政府債務を2度も返した英国」
 http://www.news-digest.co.uk/news/news/uk-news-column/10172-2013-3-07.html

 ・「日銀の「ゆるやかな金融抑圧」がスタグフレーションを招く」
 http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2014/12/post-899.php

*1:1980年代前半、レーガン政権下のアメリカでは、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締めを実施していた。金利は2桁に達し、世界中のマネーがアメリカへ集中し、ドル相場は高めに推移して、輸出減少と輸入拡大(貿易不均衡)をもたらした。さらに、高金利により民間投資は抑制され、需給バランスが改善した。結果として、インフレからの脱出には成功した反面、莫大な貿易赤字が計上され、財政赤字も累積していった(『双子の赤字』参照)。
インフレが沈静した後は金融緩和が進行し、景気回復で貿易赤字増大に拍車がかかった。金利低下により『貿易赤字の国』の通貨であるドルの魅力が薄れ、ドル相場は次第に不安定になった。
こうした状況の下、1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国は、協調的なドル安を図ることで合意した。とりわけ、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、 実質的に円高ドル安に誘導する内容であった。これが『プラザ合意』である。
発表の翌日の1日(24時間)で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった[2]。
日本においては急速な円高によって『円高不況』が起きると懸念されたが日本銀行公定歩合を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「高目放置」に踏み切った[3][4]。その後、公定歩合の引き下げに動いたのは翌1986年になってからであった。このため、1985年には非常に金融引き締め的な経済環境になっていたと推測され[5]、その結果その後数年間のインフレ率は低迷した。このインフレ率の低迷と公定歩合の引き下げ長期化予想を反映して名目金利が低下したことが、貨幣錯覚を伴って不動産や株式に対する投機を促し、バブル景気をもたらしたと考えられる。
また円高により、「半額セール」とまでいわれた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業も増えた。とりわけ東南アジアに直接投資することが急増したため、「奇跡」ともいわれる東南アジアの経済発展をうながすことになった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E5%90%88%E6%84%8F

*2:日銀に限らず、日本国内に於いて”円売り/ドル買い”を行うと、お金は銀行でドルに交換されます。
此処まではお分かりと思いますが、この銀行に流れた円は、先に説明をした通り貨幣としての価値が在るので、銀行は貸し出しに使用したりする事が出来き、結果的に日本国内で流通するのです。

なお、貴方が言われて居る通り、一部は海外へ出て行くかもしれませんが、其の量は全体の1%にも満たないのです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1247003147

*3:http://www.h-ri.org/column/?cate=sakai&id=003