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なぜこれほどまでに「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は素晴らしいのか。

 ここ最近の映画では、一番好きな映画が、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」だ。
 その次が、「イノセンス」かも知れない。
 その前だと、「天空の城ラピュタ」とか「風の谷のナウシカ(マンガ版)」ぐらいまで戻るかも。
 番外編的には「ミーン・ガールズ」は悪になっていく女の子の映画として最強かも。

 それらが好きなのはなぜか、というと、まず
 ・選ばれてしまった者同士の権力闘争の話であること
  特殊な力ゆえに、支配者となることを運命づけられてしまったり、世界の破壊を期せずして惹き起こしてしまう人の話がたまらなく好きだ。

 でも、それだけだといくらでもそんな話はあるわけで・・・。

 ・悪への共感度が高いこと 「スター・ウォーズ」と何が違うのか
  それで言うなら、「スター・ウォーズ」だって選ばれし者がその力を正しく使えるのか、という話なのに、これほど琴線に触れないのはなぜなんだろう。「スター・ウォーズ」で一番素晴らしいのは、皇帝のあの悪への魅入られ方のダイレクトさ、だと思う。そこに対峙するルーク・スカイウォーカーに欠けているのは、悪がなぜ悪であるのかの洞察なのだと思う。彼は決して父親や皇帝のことを分かってはいない。そこが残念なところだ。良い息子は必ずしも良き親の理解者ではない。

  悪は、私たち自身のことだ。
  私たち自身の醜さや、暴力性、自分勝手さ、全能感、それらを体現するのが「悪役」というキャラクターで。
  「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」ではマグニートは、悪であると共に善でもあるキャラクターとして秀逸だ。彼の行動は、基本的には復讐の原理で、私たちの暴力が恩讐の原理にからめ捕られていて永遠に回避不可能であることを真理として生きる者だ。
  暴力はなくならないし、人間の怒りも無くならない。対して「プロッフェッサーX」は存在し得ない理想を追求しているように見せかけながら、実際には自分自身も暴力を行使する矛盾した存在だ。しかも、自らは手を下さず「部下の暴走ゆえ」に問題解決に暴力を使ってしまった、というような無責任っぽい立ち位置であることが素晴らしい。善なるものの本質を体現するキャラクターとして秀逸だと思う。テレパスだから、身体的な暴力は行使しないけど、心理的には操作するというところも、資本主義の犬っぽくて良い。

  「イノセンス」でも、善なるものが戦うのは、「子どもたちを利用する国際的企業」だが、その実態はよく分からない。恐らく、この企業の所有する貨物船を抑えたところで、政府と企業は一体となって犯罪を創り出し続ける。公安9課の敵が消滅することはないだろう。公安9課が国家の脅威となれば、容赦なく解体され、善は消滅する。彼らの善はうつろうものであり、その中で意思を貫こうとすると、素子のようにネットと一体化した国家を超越した存在になる他ない。しかも、ネットと一体化した素子は、彼女がかつて戦った"人形遣い"のように人々の敵になり得るものでもあるのだ。「善」を追究すると、それはほぼ"悪"と見かけが変わらなくなる。「善」なる意思で降臨することは、果たして殺人や暴力を肯定するものだろうか。無条件の善や正義は成り立ちうるのだろうか。

  「風の谷のナウシカ」でも、ナウシカは土鬼の皇帝に罵られる。その道はかつて支配者たちがたどった道だ。救世主気どりで世界を背負って立つつもりか、出来るものならやってみろ、と。ナウシカは、テクノロジーを否定し、テクノロジーに支えられた権力機構を破壊する、だけど、それが本当に正義なのだろうか。

  「天空の城ラピュタ」も同じような構造だ。「ラピュタ」を破壊することは正義であり、テクノロジーを手放すことがユートピアに繋がる。技術にとり憑かれたムスカ大佐は、"悪"そのものだが、その"悪"はあまりにも素晴らしい悪だ。「人間がゴミのようだ」と喝破するその全能感は、私たち自身の悪を正確に反映する鏡だ。

  「X-MEN」は超能力というテクノロジーの力を「どう使うのが正しいのか」と悩む。
  「イノセンス」では、電脳と義体化いうテクノロジーの力を「どう使うのが正しいのか」と悩む。だけど主人公は悪と一体化している。
  「天空の城ラピュタ」では、ラピュタのテクノロジーを「破壊するべきだ」と結論づけるが、作品は悪に魅入られている。
  「風の谷のナウシカ」も、土鬼の地からもたらされるテクノロジーを「破壊するべきだ」と結論づけるが、作品は悪に魅入られている。


  悪は切り離しようがなく私たち自身であり、私たちが悪を生み出し続けることを止めることはない。
  私たちは、他人を傷つけるし、利用することを止めることがない。
  この事実認識と因果が強烈である作品こそが、ぼくを魅了して止まないのだと思いました。


 ・悪の因果をビジュアルに落とし込めていること 特にX-MENがすごいところ
  と、いうような、悪の因果応報的なループをビジュアルとしてメタファーとして美しく描いているのが、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」の冒頭部。
  幼少期のマグニートが、ナチスの残酷な仕打ちによって母親を殺されて、その能力を全開にするところでしょう。
  彼を目覚めさせた悪の博士が彼に握らせる鷲十字のコインが大写しになり、クルリと回転すると「X」の文字が刻みこまれたコインに変わるところが、この映画の最強のシーンです。

  他は、その余録なんじゃないかと思うぐらい。
  
  ナチスという暴力によって生み出されたユダヤ人というアイデンティティが、この映画を生み出し、この映画を通じて、その怒りや暴力性が結果として持続してしまうことに対する自己言及的な暗喩が素晴らしすぎます。
  もはや、この映画そのものが「プロパガンダ映画」として暴力の因果律を保存し、世界を不安定化させる暴力であるのではないかという可能性の言及になっているわけで。

  そして、この暴力の因果が生み出している国家間の戦争や、先進国と途上国の対立や、国内の富裕層貧困層の対立を象徴するコインでもある。つまりは、このコインの「裏/表」に私たちの生きる社会の「裏/表」すらも込めることができているということの見事さ・・・。

  悪は私たちが社会的関係の中で用いるコイン、商行為、労働そのものの中に今も明確に息づいてるわけで、この後にどんな映画が来ても、このコインの「裏/表」表現とビジュアルだけで、ぼくは絶対的にこの映画を支持し続けますね。

  また、全く映画ではないですが、「百姓から見た戦国大名」という凄まじい傑作歴史書があって、飢餓が惹き起こす永続的な内戦状態にあった戦国期日本のリアルを感じさせる本です。これもまた、人間の暴力が生存と共にあるという素晴らしい本なので、お薦めしたいですね。