自意識と創り出す思考

自意識と創り出す思考を読んだ。

これは、自己啓発の新しい形だなーと関心した!

と同時に、結構心に突き刺さったところがいっぱいある。特に自分の完全性を信じたいけど、自分が理想とはほど遠いから全然駄目だと思いがちなところとかがすごい刺さった。

私はずっと前から、知らないうちに頭の中で壮大なスートリーをこしらえていたのだ。誰にも話したことはなかったし、それどころか自分でさえも気づいていなかった。私は政治家として成功し、完璧な女性と結婚し、数百万ドルの資産を持ち、本や映画をいくつか世に出す必要があった。それらを全て実現できなければ、家族や友人から落伍者と見なされる、そういうストーリーだ。なんてひどい話だろう。こんな自作のストーリーを守るために、いったいどれだけの時間を費やしてきたことか。

p160 

客観的な批判と主観的な批判

同じ批判でも、客観的か主観的かで雲泥の差がある。

主観的な批判は、情緒的な葛藤をもたらす。葛藤によって行動を改めさせようとするのである。

客観的な批判は、ある状況に対して自分がどれだけうまくできたかを評価するためのものだ。客観的な批判が得られることで、何が機能し、何が機能しなかったかがわかる。次にもっと成功するためにはどう改善したらいいのかという学びにつながる。

自意識の問題が絡めば絡むほど、批判に対して客観的ではいられなくなる。もし、自意識が全く絡まなかったどうだろうか。物事を観察し、そこから学んで改善することができるだろう。どんな助けが必要か、どんなスキルが必要か、どんな知識や経験を得る必要があるかも知ることができる。客観的な評価は、人生を創り出すプロセスに欠かせない材料だ。客観的な評価が得られれば、経験は全て実験になる。「これをやったらどうなるか見てみよう。あれをやったらどうなるか見てみよう。」失敗と成功のいずれからも、効果的な成果の上げ方を等しく学べる。事の成否に感情的になることはない。

自意識が絡むと起こりやすい典型的な心の中のおしゃべりを見てみよう。

 

-さて、カウチを左に動かさなきゃ。

-最初からそっちに置いておけば良かったんだよ。そうすれば動かさなくて済んだのに。

-そりゃそうだけど・・・。

-まあいいか、動かすか。

-さあ、いくぞ。思ったより重いな。

-軟弱なやつだな。悪いものばっかり食べて運動もしないカウチポテト族がカウチを動かそうだなんて、笑わせる。

-誰かに手伝ってもらった方がいいかも。

-何だって?こんなちっちゃなカウチが自力で動かせないのか?具合でも悪いのか?

-あともう少し、もう少し・・・。

-あーあ、また変な場所に置いちゃって。駄目なやつ。どこまで役立たずなんだよ。

-確かに役立たずだね、思ってみれば。

-先週、腰を痛めたのを覚えてる?あの重いトランクを動かそうっていう時に誰かに手伝ってもらえばいいのに、そういう機転も利かないからあのざまだ。

-現実を直視しなきゃいけないんだね。ぼくはトランクも動かせない駄目人間だ。ましてカウチなんて動かせない。しかも、なんとか動かしたら置き場所を間違える。

-ああ、その通り。本当に駄目なやつだ。

 

ここで自意識が絡んでいなかったら心の中の会話は違うものになる。

 

-さて、カウチを左に動かさなきゃ。

-ということは、最初にここに置いたとき、間違えていたということだ。

-今わかっているのは左に動かすということかな。やってみよう。

-あれ、思ったより重たいな。誰かに手伝ってもらった方が良いかな。

-まあ、もう少し自分でやってみるか。それで無理だったらジョーを呼ぼう。

-よしよし少しずつ。よし、ここだろう。じゃあ後ろに下がって、これでいいか見てみよう。そうだなあ、よくはなったけど、まだ違うな。何が違うのかな。どう変えたらいいのかな。もうちょっと左にしてみよう。動かす前に心の中でイメージしてみよう。ああ、いい感じだ。じゃあちょっとずつ動かすぞ。よし、ここだ。さあ、後ろに下がって、これでいいか見てみよう。

 

注目して欲しいのは、内なる会話で何について話しているかである。後者において、会話の中身は「カウチの置き場所について」だ。「自分自身について」ではない。

 

自分を操作する

なぜ、自分を操作しようとするのか。それは、放っておくとろくなことをしないと思っているからだ。自意識の問題を抱えている人は、もともと自分はきちんと行動しないと思っている。だから、正しい行動をさせるために、一方では警告を発して脅し、他方では励ましの言葉をかけて勇気付けるのだ。そうでもしないと「正しいこと」をしないという前提に立ったアドバイスはこれでもかというほどある。

p.161-p.164

 他にも色々あるけど、一旦。自分を操作しなければという思いはすごいある。びっくりするぐらいある。

人間的自由の条件 読んだ

人間的自由の条件」読んだ。ポストモダンとかマルクス主義に対する批判としてはとてもよくできていて、関心した!フーコーのここがダメ、とかとてもよかった。

なのだけど、読後感としては不安が残る・・・。

そこで、調べていたらそこは問題点としては残るんだなーと。

もう1つの観点はこうです。社会がどれだけ「自由の相互承認」を充実させても、僕たち自身が自由を感じられないことがある。つまり自由のための「実存的条件」が整っていない、と。

 

 現代はそういう時代ですよね。僕たちは、政治的自由とか生き方の自由はまがりなりにもあるわけです。でも、今の若い人たちは、むしろ自由だからしんどいんですよ。

 つまり、何でも自由にしていいよっていわれると、どうやって生きていったらいいか、かえってわからなくなってしまうんですね。あるいは自由競争社会の中にバーンと投げ入れられて、「はい、自由だよ自由だよ」って言われて、序列をつけられて苦しい思いをすることもある。だから、今の僕たちの世代以下ぐらいは、自由であるということが苦しいんですね。それで、自由への疑念がすごく生まれているわけです。

 

 でも、それでもなお、みんな自由に生きたいと思ってるんだったら、それを可能にする社会を作る必要があるっていうのが僕の考えです。そして、どういう「実存的条件」を整えれば、僕らは自由になれるのかを考える必要がある。

http://timesphilosophy.blogspot.com/2014/08/blog-post_52.html

自由の実存的条件のために、自身の欲望を変えることもできるようになっていくという話がこの後にあるけど、一方で欲望が見えないということもある。

ただもう1点、近代人ルソーには、たぶんあんまり見えてなかったことがある。

 それは、僕たち現代人は、欲望と能力のギャップだけじゃなく、そもそも自分の欲望がわからないっていう不幸を抱えてるということです。

 若者は特に、何をしたらいいのかわからないということが多い。欲望がわからないという不自由を、僕らは多かれ少なかれ抱えてしまいますよね。じゃあこれはどうしたらいいか。

 

 竹田先生はよく、世界は欲望の網の目だって言うんですね。すごくおもしろいですよね。世界っていうのは、ありのままに、無色透明に存在してるんじゃなくて、僕たちの欲望に応じて、なにがしかの意味を持って存在するんですよ。

 

 たとえば、僕の話でいうと、早稲田大学の大学生だったときと、大学教員になってから見える高田馬場の町の景色は、全然違うんですよ。大学生のときは、500円の定食屋しか見えない。ところが教員になったら、800円の定食屋が見えるんですよ。

 

会場: (笑)

 

苫野: 世界は欲望の網の目なんですね。で、何をやりたいかわからないってときは、この欲望の網の目が極めて荒いんです。だから何も引っかかってこないんですよ。世界に意味が引っかかってこない。

 ってことは、この欲望の網の目を、しっかり編んでいって、いろんな引っかかりを作っていけばいい。

 

 それはどうしたらできるか。本にはいくつか書いたんですが、1つだけいうと、僕はよく、何をしたらいいかわからないっていう学生には、「キッチンの掃除をするといいよ」っていうんですよね。

 

 これ、意外に本質的だと思うんです。つまり、目に見えて成果がすぐに現れることを繰り返しやっていると、世界に自分が関わっている感じが出てくるんですよ。俺の人生意味がある、みたいな。特にウツの時とかいいんですよね。三角コーナーの掃除とか。そうすると、「大丈夫、俺、ちゃんと世界に意味を与えてる」みたいなふうになっていって。徐々に徐々に、世界にいろんな意味が結ばれてくるっていうことがあったりする。「やりたいこと」が分からなくて、ウツで、っていう方がいれば、だまされたと思って試してみてください(笑)

 

 これが自由になるための実存的条件。もう1回いうと、欲望の中心点を結ぶということ。そしてそれがつら過ぎたら、それを変えるということ。これは自由の大きな条件かなというふうに思います。

http://timesphilosophy.blogspot.com/2014/08/blog-post_27.html

 ということで、こうなってきてしまうと、自由の苦痛の中でどう生き抜くか、ということになってしまって、やっぱり人は自由から逃げ出してしまうのではないか、とも思ってしまう・・・。もっと画一的で強権的なものに憧れてしまうのでは・・・。

と、考えるとなんだかつらい・・・。

ROAが高すぎる会社から除外対象を外していくルール

ROAが25%以上で一律に抽出をすると、業績不振からの復活途上か、一時的に高収益になったものの営業利益やキャッシュフローが今後は年々下がっていきそうな企業、あるいは高い成長率を追いかけすぎて社内の体制が追い付かなそうな企業などがリストされてしまうことが多い。

特に、高い成長率を追いかけすぎている企業には要注意で身の丈にあった成長でも積み重ねれば驚異的な成長になる、という原則を大人になって身に着けていない段階では、どんな一時的な成長を遂げていても避けた方が良い。

もし、当たったとしてもまぐれ当たり感がある・・・。

ということをいまさら学んでも遅いかもしれないけど、忘れないようにメモしておきたい。

仕事をとりすぎると個人も会社も国も経済全体もダメになるかもしれない

この記事を読んでガーンとなった。

この話は会社の話だが、個人でも一国の経済でも世界の経済でも、ある限界を超えて仕事をとってしまうと、処理のための行列が終わらなくなるのではないか。と思いガーンとなった。

とれるだけ仕事をとってはいけない : タイム・コンサルタントの日誌から

個人の場合だと、脳の処理の行列が限界を超えると著しく処理能力が下がる気がする。

そして、企業単位だと特に収益の上がり下がりが極端な会社で良くこの事態に陥っている気がする。抑制された収益目標を持っている会社は、どこが処理能力の限界なのかを理解している。逆に言うと、それが理解されていない組織はヤバい。

だから、具体的に言うと、高すぎるROAROEを示している会社は長期的には良くないかもしれないということだ。適切なROAROEのレベル感があって、それを守っていれば長い目で見ると収益性も高いということになる。

そういう観点で考えたことがなかったので衝撃を受けたし、日々働いていて思うこととも一致している感があるので、多分これだろう。

適切な成長率を設定すること、そして、それ以上の受注を受けないようにすること。

これが、長期的に大きく収益を伸ばすコツのひとつなのかも。あと、好不況の波もある程度はこれに影響を受けたりするのかも。どうも好況なのに企業収益が下がるみたいな時に、負債が過剰だということとは別に処理がそもそもできなくなる、という経済全体のキャパシティがあるのかも、インフレ型の経済の場合はこれがありそう。

安倍政権のポイント還元政策は、貨幣を取り替えることを狙っているのかも

政府が消費税増税の対策として導入をするポイント還元制度が減税に使われるというのは結構すごいアイデアだなと思った。

www.asahi.com

と、言うのは、何かの小説で意図的に貨幣の価値を貶める犯罪をしてキャッシュレスな新通貨の導入を図るみたいな話を読んだことがあるけど、そんな感じで、このまま消費税を増税しながら政府発行のポイントで還元し続けると、日本円が政府に吸収されて、代わりに支給される利用期間が限定されたりとかの機能もつけられる仮想通貨っぽいポイントが日本人の生活を支配する通貨に次第に成り代わっていく。

そうすると、この「政府発行ポイント」をどのように発行するか、どのように消費を促進させるかが、全て政府の意のままになるし、債務不安で信用を毀損するかもしれない日本円は全て日本政府が回収して日本銀行に返ししまうこともできる。

で、政府は自分でポイントを発行して、自分でポイントによって支払う、例えば景気対策で巨大ダムを建ててもその支払いは日本円でするのだけど、税率が高いので結果国民は支払われた給与の大半をすぐに日本政府に支払うような感じになる。

代わりに国民はどんどん政府発行ポイントをもらうのだけど、色々な機能制約をすれば、政府は破綻を避けつつも望ましい状態に国民を誘導できる。通貨が多すぎてデフレになりそうな時は適当に消費可能期間を短くすれば消費されていい感じに価格が上がるし、インフレになりそうな時はポイント発行を絞りつつ消費可能期間を伸ばしていって、貯金ニーズに応えていく。期間の制約だけではなく、消費して欲しいものにポイントをつけたり、ふるさと納税みたいに特定の地域を優遇したりも自在にできるようになる。なんなら、ガチャ的な要素を作ることすらできる。

ただ、ここまで考えて思ったけど、そんなに制約されたり誘導されたりするポイントならそんなに求められないから、合理的な人は結局日本円じゃない外国通貨にどんどん変えていってしまうか、別の資産の購入に代えていってしまうな・・・。あるいは、消費税がそれほど負担にならない高所得者とか企業に有利になっていくような気もする。つまり格差は拡大するかも。ポイントが良いと思う人と、その価値制約が実は、非合理的だなと思う人とで対応が分かれそう。

そして、価値の変動を嫌う人たちによって、より激しく日本円が退蔵されてしまうかもしれない。使うと消費税で減るからずっと持っていようってなって。

で、この日本円退蔵の結果として、国内で取引に使われる日本円が極端に減っていってポイントだけはすごい速さで用いられるようになり、主要通貨はポイントです、みたいな世界になる。

そうすると、ポイントと他国通貨の変換レートとかも問題になってくる。直接の他国通貨との交換は禁止されるかもしれないけど。

でも、例えば換金制の高い金とか銀をポイントで購入して、それをドルで売れば交換はできる訳で、実質的には交換レートが出現するよね・・・。で、その時に、このポイントはどう評価されるのか・・・。自由度が下がっている通貨に対して世界はどう評価をするのだろうか。普通に低評価をするのか。

また、そもそも外国からの旅行者は国内でどう買い物をするのだろうか。ポイントに変換するのかな・・・。だとすると、外国通貨→ポイントの変換公式レートと、裏レートみたいのもできてしまいそう・・・。

色々考えると、なんだか不便な国になんとなくなりそうなので、これで実質的に貨幣の価値を切り下げていくことで、負債も削減して国内の労働対価も下げていってみたいなことができる、というのを狙っているのかな。

普遍経済学とは

普遍経済学というのがあるのではという話。

いま、哲学は面白い——近代哲学者の志に学び、新たな地平を切り拓け(竹田 青嗣) | 現代新書 | 講談社(1/3)

 これは完全にあると思いました。

どうやって普遍経済学に至れるか、を考えた。

  1. 経済学の指標が単年度のPL的な計測値しかもっていないこと
  2. 国富を基準にしてBSを見てみると、国家間のBS(財務諸表)の間で負債や通貨が果たしている役割が見えてくるだろう。過大に借り入れをしている個人が、市中にある通貨の価値を自ら変えることができたら・・・という比喩で考えられる
  3. 基準になるのは、ニューディール政策の判断基準だ。「仕事は、人々の自尊心を守るために必要だ」だから公共政策として「すぐに仕事として提供できるもの」を重視する。これは、現在の公共投資的な思考法と全然違う。論点は「自尊心」であって、公平性や格差の縮小ではない。社会の仕組みそのものが社会をつくる人に苦痛を与えることをしてはならない、という原則を徹底することであって、望ましい幅に格差を収めていくことではない。
  4. 現在の世界にないものを想像してみる。通貨の統一は答えではなかった。暴力を一部、国連に譲り渡すことはできている。つまり答えは徴税権の一部譲渡と、その大義を設定する必要があるということだ。構想されるのは、予算の一部を「全世界の人々の自尊心」のための基金にできるかどうか、ということだ。そして、負債と通貨交換と発行の機能の一部が徴税権だけでなく、譲渡される必要がある。なぜなら、恐慌時に負債以外の手段で仕事を提供することはできず、負債だけを負うのであれば、その「全世界の人々の自尊心を仕事で守る」世界的な政府機能はいつか破綻してしまうからだ。この機能は、負債で賄われると同時に、通貨発行を伴って負債を裏付けなければならない。
  5. この巨大な借り入れは、巨大であればあるほど、良い。なぜなら、デフレ傾向になりそうなマイルドインフレ的世界であれば巨額債務があればマイルドなインフレにより債務の実質額を削減していくことができるからだ。そのため、恐慌に陥るたびにこの世界的な政府機構に似た組織が発行する債券に裏付けられた(?)通貨は、大量に発行され、大量に市中の既存国家通貨を吸収し、次第に世界通貨のシェアを高めていくことができる。
  6. 新しい通貨の利点は、それが世界の統一通貨を目指す意図をもたないが、背後に裏付けとなる徴税権をほぼ持たないことだ。これによって、経済成長やその国家の信頼性とこの通貨の交換レートは相関しないことが保証される。それによってこの通貨は、ある意味でベンチマークとしての価値を持つことになる。国家から譲渡された徴税権は一部あるかもしれないが、ハレーションが大きすぎてそれはほぼ意味をなさないだろう。それよりも、この通貨が国家間で承認された大義である「自尊心を保つための仕事をつくる」機能をもっていること、そして、そのために負債を発行し、それを通貨で賄う権限を与えられていることが重要だ。
  7. この通貨が市中に出回ること自体もあまり意味をなさないかもしれない。支払いの際には自国通貨への両替が速やかに行われるのであれば、新通貨は市中でみかけることはないものになるのかもしれない。
  8. 重要なのは、失業に伴う「自尊心の喪失」に対する世界的な責任の所在を明らかにし、それを国民国家のイデオローグに利用させないシステムを構築することだ。通貨や負債の仕組みは副次的なものでしかない。

近代国家は、生産性という概念に基礎づけられて経済運営をしているけれど、生産性を導く経路が、「生産性以外の要因と考えられるものを除いた残余」だから、そこに財務的貨幣的な要因(インフレによる巨額債務の圧縮益)が乗っけられていても見分けはつかない。

だけど、「真実」が何であるかはどうでも良い。私たちが求めているのはワークする経済運営の原則だから、そこに生産性が収まりが良いかどうかだけが重要で、ぼくの考えでは生産性は収まりが良くない。なぜかというと生産性が高まれば、経済全体の優位性が高まり、他国に比べて生活水準が上がり経済の安定性が高まり、いざという時も財政出動により国民を救うことができるというロジックでいくと、必ず自国優先主義と保護貿易的な発想から逃げられくなるからだ。そして、保護主義でなくても、現在のように巨額の債務とマイルドなインフレによって債務利益を絞り出すタイプの経済運営がメインになっていく。そうすると、「生産性」が大事だという大義の根底が覆されているので、国家に対する信認が根本的なところで崩れる。そうして日本のように株式の国有化が進んでいくことに対して異論が出ないような形になっていく。

だから、その機能を国家から取り出した方が良い。国家とは関係なくどこにいても普遍的に「仕事を景気が悪くても安定して供給できる」だけのシステムを事前に作っておけるかどうか。世界のどの地域でもあまねく公共サービスとして提供できるかどうか、が大事だ。その機能は人権や司法と同じくどこでも同じ効力を持って働きかけるという前提をつくるべきだ。

人間的自由の条件 他者の欲望と普遍的承認ゲーム

人間的自由の条件を抜き書き。

 

p.126-130「3 近代の人間の本質─「他者の欲望」と「普遍的承認ゲーム」」

 ヘーゲルは『精神現象学』の全展開を支える土台として、人間存在の本質をその「欲望」の独自性において捉えるという出発点を置いた。人間の意識は「自己意識」だが、自己意識が存在するためには、欲望が「非自然的な対象」「所与の実在を超えた何物か」に向かう必要がある。そしてこの「実在するものを超える」何かとは、じつは「欲望」それ自身、つまり「他者の欲望」以外ではない。人間の欲望は自然対象から離れて「自己自身の自由」をめがけるが、この欲望を保証しうるものは「他者」だけである。人は「他者の承認」を介してしか「自己意識」の欲望を実現することはできないからだ。この事情は、また、人間の「欲望」の対象をも本質的に規定する。すなわち人間は自己自身のありようを「他者の欲するところのもの」へと向けようとする。このことが人間存在の根底的な基礎であるかぎり、人間社会は、「欲望として相互に欲し合う欲望の全体となって初めて人間的」なものとなる。社会とは、そのような欲望の多様性の場面であり、したがって単に欲望が存在するだけでは足りず、各自の欲望が相互に他に向かうという関係の場面を構築する。それが人間存在についてのヘーゲルの基本理論である、とコジェーヴは主張する。

(略)「人間の欲望は他者の欲望である」

(略)例えば、男女間の関係においても、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないなら、また相手の欲望を欲望として捉え、この欲望を「占有」し、「同化」したいと望むのではないならば、すなわち、相互に「欲せられ」、「愛される」こと、或いはまた自己の人間的な価値、個人としての実在において「承認」されることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない。

愛し、愛されるとは、相手の存在(エロス的対象であろうと、自分を保護し気遣う庇護者としてであろうと)を単に「わがもの」とする我有の欲望ではない。それはいわば、自己の内に理想化された「相手という幻想」を見出した上で、互いに他の欲望対象たろうとすることだからである。つまり、愛するとは、他者を我有することではなく、「自己を愛するものとしての他者」を確認することであり、愛されるとは、「他者の欲望の対象としての自己」を確認することだからである。したがって、「承認」の欲望とは、単に自己の「存在」の承認要求なのではなく、「自己価値」の承認要求を意味する。

(略)人間の欲望の一切が、「自己価値」をぐる他者との承認関係を、その起源ともまた本質ともしているということ、これがコジェーヴヘーゲルの自己意識論からつかみ出している欲望本質論の核心点なのである。

(略)人間の欲望が「他者の欲望」であるという形で関係的な本質をもつというヘーゲルの原理は、むしろ、人間存在は「他者との関係なしにありえない」といった観念の無効性を告げるものである。

これは、すごい、つまり「価値観の多様性」というものそのものがない、ということでもある。すべてのありとあらゆる「他者の欲望を欲望したい」という拡張の欲望としての「多様性」はあるけれども、自然状態としての「多様性」があるわけではない。

それは、「多様化しうる」ものではあるけど、価値観としては単一で、他者の承認を得たいということに尽きる。

人間はまずさまざまな「物」を欲しその上で「他者」(の承認)をも欲する、というのではない。逆であって、人間の「物欲」一般が、そもそも他者との関係的欲望を起源として構成されている。動物は衝動によって自然物を欲するけれど、「物一般」を欲望することはない。さまざまな「物」への欲望は、すでに「自己承認」の欲望を経由した人間固有の欲望である。

(略)「主体」が「主体」でありうるのは、一般に言われるように「真なるもの」「絶対的なもの」(=絶対者)としての「実体」が「主体」を包括しているからではなく、むしろ「主体」が求めるものが「根源的否定性」であることによってである。われわれの「欲望の対象」が「何ものでもないこと」「否定性」それ自身であり、「無」であること、まさしくそのことが人間の「欲望」を人間的「欲望」たらしめている。

 人間の生成をもたらすものであるためには、欲望は、或る存在しないもの、つまりは他者の欲望、他者の渇望する空虚、他者の自我に向かわなければならない。なぜならば、欲望存在欠如だからである(略)。すなわち、存在の只中で無化する無であり、存在する存在ではないからである。(『ヘーゲル読解入門』)

人間はを服せしめるためではなく(物に向かう)他者の欲望を服せしめるべく行動しなければならない。(略)それは─結局は─他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これはそのような承認(Anerkennung)を求める欲望にほかならない。

 ここは、ソーシャルメディアにおける「マウンティング合戦」のことを指していますね。というか社会のすべてが「マウンティング合戦」で構成されていて、すべての行動は「マウンティング」に奉仕するために結果的に作られていくということを言っている。ただマウンティングは、「ただ自分を承認してほしい」という一方的な思いでしかないけれど、人はそこから次の世界に移動する。

他者がいる世界、他者と何かを合意する社会へ。

人間の「欲望」の本質が、特定の自然的対象をもつものではなく、ただ他者関係における「自己価値の承認」の欲望であること、このことを初発の原理として社会理論を展開すれば、つぎのような諸点が帰結することになる。

 

(1)人間は「主体」(無意識的な)としては、つねに「他者」による自己の承認を欲求していること。

(2)この欲求は、より自覚的には「自己価値」への欲望となり、それは直接的な「愛情欲求」ではなく、自己価値の「承認」をめぐる諸欲望を形成すること。

(3)人間の欲望は、したがって「他者」が一般的にその価値を認め、それを欲望するものに自己自身が一致することをめがける。この欲望の関係は相互的であり、したがって、人間の欲望は実在的なものではなく、「社会関係」が一般価値として承認しているもの、に定位される。

(4)こうして最後の帰結としては、人間の欲望の諸関係は、人間社会を一つの独自の構造として定位する。すなわちそれは、人間社会を「普遍的承認ゲーム」(相剋的ゲーム)という構造的本質として形成する。

(略)ルソーの「社会契約」の概念は、単に近代社会は自由な個々人による「契約」を基礎とする社会である、ということを意味するのではなく、むしろ太古以来、「社会」(つまり、その集合的権威、権力、支配)の本質がそのような「普遍的承認ゲーム」として存在してきたことについての近代的発見自覚を示唆するものなのである。

 

(1)人間社会を「普遍的な欲望承認のゲーム」として措定することによって、近代社会における人間存在の本質を、「自己を社会へと関係づける存在」として定義づけることができる。

(2)この定義によって、近代の人間の自己意識(=思想)の進展を、自己と社会との関係的本質についての自覚のプロセスとして描くことができること。またこのことによって近代とは、人間がさまざまな幻想的な「超越項」を取り払って、自らの存在本質それ自体を了解していくプロセスの展開として定義されること。