「オープンダイアローグとは何か 」抜き書き

オープンダイアローグとは何か 」(斎藤環 著・訳)はいい。これは読んだ方がいいと思いました。

オープンダイアローグでは、医療者やカウンセラーは専門家ではあるものの診断したり、観察したりする存在ではなく、その場に巻き込まれた当事者として存在していて、つねに「健康寄り」の解釈と、クライアントに対する確実な応答を提供します。ミーティングは、必要であれば毎日、何日でも行われ、最後まで同じチームが担当します。

それによって、クライアントは混乱した状態から、確実に応答してもらえる心理的安全を得られ、チームによるリフレクティング(本人を前にした本人の噂話のような)から、次第に場によっており上げられた言葉で自身の状況を語れるようになっていきます。

これまでの精神医療のように家族をシステム的に理解し、システムに介入して病がある部分を除去したり修正するという考え方ではなく、専門家たちが当事者になることに大きな違いがあります。しかし、専門家としての役割を完全に放棄するのではなくて、「リフレクティング」や適切な「健康よりの解釈を含んだ質問」をする者として存在することが、高い治療効果をもたらしています。

依頼があると、電話を受けた人がリーダーとなり対応チームが組まれます。依頼から24時間以内に、本人と家族を交えた初回ミーティングが開かれます。なるべく薬は使わずに、本人抜きでは何も決めず、危機が解消するまでミーティングは続けられます。対象となるのは統合失調症をはじめとするあらゆる精神障害です。

そんな「オープンダイアログ」の流れは以下のようなものです。

実践のための12項目

1  ミーティングには2人以上のセラピストが参加する

2  家族とネットワークメンバー(クライアントに関わりのある人、知人や恋人)が参加する

3  開かれた質問をする(このミーティングに期待することはなんですか。などのこたえやすい質問。)

4  クライアントの発言に応える

5  今この瞬間を大切にする

6  複数の視点を引き出す

7  対話において関係性に注目する

8  問題発言や問題行動に淡々と対応しつつ、その意味には注意を払う

9  症状ではなく、クライアントの独自の言葉や物語を強調する

10  ミーティングにおいて専門家どうしの会話(リフレクティング)を用いる

11  透明性を保つ

12  不確実性への耐性

p47-48

対話では、言葉だけでなく非言語的なしぐさや表情や会話のリズムも受け止める。そのため、遠隔でのミーティングは想定されておらず基本的には対面で進めることが想定されています。

6は、オープンダイアローグの最重要要素のひとつ、「ポリフォニー」にかかわることです。ポリフォニーには二つの次元があります。外的ポリフォニーと内的ポリフォニーです。

外的ポリフォニーは、メンバーの多様な意見を多様なままで受け止めることです。多様な意見をまとめて合意に持ち込むのではなく、多様なままでポリフォニックな状態を維持すること。すべての発言に機会を与えること。

・・・一方、内的なポリフォニーは、個人の内面におけるポリフォニーです。内的なポリフォニーを喚起するために、セラピストはしばしば仮説的質問をします。これは、今その場にいない人の名をあげて「もしあの人がここにいたら、なんて言ったと思う?」などと質問をすることです。

7の関係性への注目については、簡単にいえば問題があってもすぐ個人の病理に結びつけずに、関係性のなかで考えるようにせよということです。ですから質問をする場合にも、家族関係やネットワーク内の関係性がはっきりするような質問を工夫することが望ましいのです。

8については、「正常化の言葉 normalizing discourse」がキーワードになります。クライアントの問題行動を、善悪や病理性という視点から考えるのではなく、そこにどんな意味があるのか、どういうコンテクストなら意味を与えられるのか、そうした点から考えるのです。

精神病理学でいうところの「発生的了解」に近い態度ですね。これに対し、症状を共感的に了解できない場合、病気と関連付けてそれを理解することを「説明」と言います。ならばオープンダイアローグでは、できるだけ症状を「説明」するのではなく「発生的了解」をしていこうという姿勢が基本にあるといえます。

・・・一般に精神科医は病理性や異常性には敏感で、正常寄り、健康寄りに理解することには消極的です・・・しかし私はむしろ、異常が認識されることで異常性が増幅される可能性のほうを危惧しています。職場などで「アスペ」のレッテルを貼られた人が、実際にコミュニケーションに支障をきたしたり挙動不審になってしまうことがよくありますが、これも同様の現象です。これは心理学でよく知られている「ラベリング効果」です。

ならば症状を「健康寄り」に見る態度が、同じラベリング効果によって、治療に寄与する可能性も十分に考えられます。病理性にのみ注目する立場が、実際に医原性の病理を作り出してしまうとしたら不幸なことです。私は多くの精神科医が、病理以上に患者の健康な部分に注目し、問題行動についても正常寄りにとらえる、つまりその意味をまず考えるという習慣を身につけるべきではないかと考えています。

p.49

オープンダイアローグの思想的な背景には、「言葉が現実をつくっている」というポストモダン以降の考え方があります。

「人間的表現から切り離された外側に、真理や現実は存在しません。治療に必要な条件は、新たな言葉や物語が日常の言説に導入されるように、社会ネットワーク上の対話の効果からもたらされるのです。この目標を達成するうえで、治療ミーティングにおける言語的実践にはふたつの目的があります。すなわち、メンバーを十分な期間参加させること(不確実性への耐性)と、ネットワークにおける重要な他者の導き(ポリフォニー)で、表現しえないことに声をもたらすこと(対話主義)です」

オープンダイアローグの背景には、「言葉」に対する強固な信頼があります。それい言い換えるなら「言葉こそが現実を構成している」という社会構成主義的な信念でもあります。だからこそ、「言葉の回復」こそが「現実の治癒」をもたらしうるのです。

p.51

また、オープンダイアローグを、別の側面から考えることもできます。「オートポイエーシス」のような考え方から眺めてみると、オープンダイアローグが目指しているものが分かりやすくなるかもしれません。この視点から見ると、人間は独立した存在ではないし、家族も独立したシステムではありえません。そこには独立した存在なくて、ただ対話を通じて対話を産出し続けるシステムの全体があるだけなのだ・・・と、理解することができます。

オートポイエーシスとは

(1)自律性・・・システムは自分に起こるどのような変化に対しても自分自身で対処します。

(2)個体性・・・システム自身が、みずからの構成要素を産出することによって自己同一性を維持します。

(3)境界の自己決定性・・・システムの作動そのものが、システムの内部と外部の境界を自分自身でダイナミックに決定し続けます。

(4)入力も出力もない・・・説明が難しいのですが、とりうえずここでは「オートポイエーシス・システムは閉鎖系である」と理解してください。

 

まだわかりにくいと思いますので、「結晶」を例にとって考えてみましょう。かつてのシステム論では、結晶をシステム、溶液をシステムの環境として、結晶を自己組織化するシステムととらえます。そのシステムは外部から観察できます。

オートポイエーシス理論では、結晶生成のプロセス(結晶と溶液の界面で生ずるような)をシステムの構成要素として、生成プロセスの集合をシステムであると考えます。この場合、結晶は生成プロセスから除去される廃棄物であるということになります。廃棄物とは、システムからの出力ではなく、作動がつづいていくかたわらに勝手に積みあがっていくイメージですね。

なかかな異様な理論ですが、これが現在の社会学や家族療法などに多大な影響を与えていることを考えるなら、ある程度理解しておいても損はないと思います。

対話が目的、治療は"廃棄物"

社会学者のニコラス・ルーマンは・・・社会システムを、その要素としてのコミュニケーションを再生産しつづけるシステムととらえます。簡単にいえば社会とは「人間」を環境として、コミュニケーションがコミュニケーションを自律的に再生産し続けるシステムということになります。先程の言い方でいえば、社会的なさまざまな事件や出来事は、「社会システムの廃棄物」ということになるでしょう。

ルーマンは人間の心的システムと社会システムとは「構造的にカップリング」していると述べました。これは、互いに互いを環境とし合うような関係で、決して融合することはないが、にもかかわらず一方が欠けると一方が消えてしまうような関係性を指しています。

この考え方を、オープンダイアローグに応用してみましょう。オープンダイアローグにとって、治療チームやネットワークのメンバーはシステムの要素ではありません。もちろん観察者でもありません。メンバーはオープンダイアローグ・システムの「環境」です。この環境のもとで、オープンダイアローグ・システムはダイアローグを再生産します。コミュニケーション一般ではなく、ダイアローグを、です。ダイアローグがダイアローグを再生産しつづけるような環境をつくることがメンバー全員に課せられた仕事です。

では「治療」は? そう、もうおわかりの通り、治療はオープンダイアローグというシステムの"廃棄物"として生成するのです。

オープンダイアローグをオートポイエーシスとしてとらえるメリットはいくつかあります。まず第一に「治療」そのものではなく「対話」をつないでいくことが目標である意味がはっきりします。メンバーは単に環境にすぎないと考えることで、システムそのものを「診断」したり「介入」したりするわけではないことの意義もはっきりします。「入力も出力もない」以上、そもそも作動に介入することは不可能なのですから。

p.56

実際の事例として、金物屋に勤めていた人が賃金を払われなくてボスとクリスマスのプレゼントを待っている家族との間で、進退きわまってしまい、偶然おきた停電もあいまって、「すべては自分に対する陰謀である」と認識するに至ってしまった経緯が対話によってときほぐされるプロセスが取り上げられます。

この事例では、たった一回のミーティングで症状は消えて、再発もしていないと言います。専門家チームは、妄想が始まったきっかけをゆっくりと聞きだし、そのときの本人の感情を尋ねます。そしてリフレクティングを通じて、彼自身の人となりや、ボスに対しても忖度してしまうような性格であるのではといったような解釈を本人の前ではなし、そして最後に、感想を本人に尋ねます。

つらい体験こそ宝である

経験的には、ミーティングにおいてともに切り抜けた体験が深刻なものであるほど、より望ましい結果が得られるようです。

・・・確実に言えることは、つらい感情を危険物扱いするのではなく、その場の自由な感情の流れのなかに解放したときにこそ、こわばって縮こまっていたモノローグがダイアローグへと変化を遂げる、ということです。

p.166-167 

 不確実性への耐性。

オープンダイアローグを支える理論には、「詩学 poetics」と「ミクロポリティクス micropolitics」がある。詩学には3つの原則があり、「不確実性への耐性」「対話主義」「社会ネットワークとポリフォニー」がある。

訳注・・・「あなたはまだ本当にお若い。すべての物事のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです、あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを。そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。今すぐ答えを渡さないで下さい。あなたはまだそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです。すべてを生きるということこそ、しかし大切なことなのです。今あなたは"問いを生きて"下さい。そうすればおそらくあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中へ生きて行かれることになりましょう。」ライナー・マリア・リルケ著、高安国世訳『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』新潮文庫、30-31頁

p.95

 

統合失調症が減るということとインターネットとオープンダイアローグとうつが増えること

統合失調症がどうも減っていて、逆にうつが増えているらしいという話を前に斎藤環さんがtwitterでしていたという話を書いた。その時はどうも減っているらしいね、という感覚確認ぐらいだったけど、その背景として統合失調症の人にはオープンな対話が効果を発揮するということがあるのかもしれない。それは「オープンダイアローグ」という方法で、薬なしで対話をするだけで統合失調症がやわらいだり治ったりする、という技法があるらしい。

oror.hatenadiary.jp

ポリフォニーというのは、多声音楽のこと。多数の旋律が同時的な絡み合いが音楽となる多声音楽を意味する。
そのように、異質な声、異質な発言があること、それらが接続されることが原則であり、“対話の目的は、合意に至ることではない”。
診断もしないし、家族システムがおかしいと糾弾もしない。
対話ができるだけ続くように配慮する。
“やりとりが新たな現実を作り出すようなシステムを目指して対話が続けられる”。

「オープンダイアローグ」が興味深いのは、統合失調症の治療に限定されるものではなく、われわれの日常的な対話のヒントにもなりえるということだ。

www.excite.co.jp

そこでおこなわれるのは、まさに「開かれた対話」。輪になって座り、あらゆる発言が許容され、傾聴され、応答されることで会話をつなげていく。

すべての参加者は平等で、専門家が指示して患者が従う、といった上下関係はつくらない。

「対話こそが、迷宮から脱するための『アリアドネの糸』なのです」

「オープンダイアローグが目指すのは、精神病的な発話、幻聴や幻覚にとどまっている特異な体験に、共有可能な言語表現をもたらすことなのです」

「治療者は、問題についていかなる予断も持たずに、対話そのものが新たなアイディアや物語をもたらすことだけを願って対話に参加するのです」

オープンダイアローグの理論とその実践は、病気の治療法としてだけではなく、「言葉の力」に関心を持つすべての人に、何らかの刺激や示唆を与えてくれるはず。

斎藤氏が強調するのは、
「オープンダイアローグの理論は、ひとりのカリスマ的な理論家のナルシシズムに奉仕するためのものではない、ということです」。

つまり、関わってきた専門家たちが一緒に発展させてきたもので、セイックラ教授もあくまで自分はスポークスマンのひとりだという謙虚な立場を貫いていて、共著は出しても単著を出すことに対しては禁欲的なのだそう。

加えて、ケロプダス病院は、「スタッフがやめない職場」だそうです。医師も看護師も、全員が同じトレーニングを受けてセラピストになるので、妙な上下関係がなく、職種の壁もなく、スタッフひとりひとりの自立性が尊重されて、やりがいを感じられる職場なので、誰もやめたがらないんだとか。

こういうところにも、オープンダイアローグが成果を挙げている秘密がありそうです。

www.excite.co.jp

と、いうことらしい。たぶんだけど、斎藤環さん的には「オープンダイアローグ」的な効果はインターネットでも得られるんじゃないかという仮説を持っているのではと思いました。

だけど、一方ではうつが増えるということは、精神病的な発話、幻聴や幻覚にとどまっている特異な体験を持っていない人、どちらかというとすでに他者の意見や、他者への配慮を感性として豊かに持っている人は、大量の文字情報が流れ込んでくる環境は、うつを悪化させることにもなるのかもしれない。

暴力の人類史」を読んでいたら、人類の共感性を小説が高めていったという一節があって、とてもとても興味深かった。それまで他の人の人生なんて想像もできなかったのに、小説が出版技術の進化で誰でも手に入れられるものになった途端に、思考に革命が起きたという・・・。これまで誰も同情しなかった貧しい人とか、冤罪で刑務所に入れられた人とか、そういう境遇に激しく共感して泣いたりすることができるようになったらしい。

それで思い出したのが、暴力性が低い国は大体においてうつの人が多いという話。殺人発生率が高い国とうつ発症が多い国をプロットすると逆相関している、というのを前に何かの記事を引用して書いていた気がする・・・。

 

共感性とうつは多分だけど関係があって、前にも書いたけど、他人のことを過剰に想像しすぎるというところから、感情の暴走が始まってうつになるんじゃないかという仮説的なことを思っています。

 「「ずるい人」が周りからいなくなる本 

他人がずるいという感覚があるということは、何か自分が被害者意識を持つことだから、それって何なのかを今一度考えなおしてみるのが、この本です。「どうして自分がこんな目に!」と感じたときは、視点が偏っていたり、視野が狭まっている可能性があります。

なので、周りの人はうまくやっているのに、自分はできていないという感覚があったり、自分はしっかりやっているのにみんながルールを守れてないと思ったりすることが良くある、という場合は読んでみたら良いかもしれないです。ちょっと癖のある本なんで、あんまり真に受け過ぎない方が良いかも。悪循環を一回止めるための、風邪薬みたいな本です

ストレスを感じたときのおすすめの本 - ororの日記

ここら辺りは、思いつきでしかない。

それぞれがどう繋がっているのかは良くわからない。もうちょっと考えないと。

Jトラスト:株価低迷への対応、千葉専務に聞く(2017年12月9日)

ちょっと前の動画だけど、このタイミングで読み返してみるとどうでしょうというアップ。どうでしょうか。

kabu-ir.com

 GLの資産は、8000億円の200億円は、2.5%相当の貸付アセットであると考えられる。日常業務の一つが今回の貸付と考えている。そこにフォーカスされて株価に影響が出ていると考えている。毎日、たくさんの株主から問い合わせをいただいている。

 毎日、多くの企業に貸し出しを行っている。各国で優良な貸出資産が積みあがっている。アセットベースで着実に成長していて、IFRS基準で見て、過去三年間を見てみると三期連続で黒字になっている。どの会計基準で見ても、三年間の営業利益は増加している。金融事業全般として、五年前までのハンティング型ビジネスモデルからの転換をして、現状伸びてきている。

 GL社の見通しについては、難しい。タイの法律に則って処理される。日本から韓国に出るときも韓国の制度を勉強しながらやっていて、それぞれの国で勉強しながらやっているが、どの国でも債権の回収は長くて数年というスパンでやってきている。常にどの現場でも最悪どうなるかということは考えている。今回のケースでも最悪のシナリオは、200億円の貸付がゼロになるというケース。そういうことはないと思うが、もし最悪なったとしたら、Jトラストの連結純資産1600億円が1400億円になる、とはいえる。さらにメインの金融事業の運用、貸出については順調に推移している状況で、PBR0.5で推移しているということについては責任を感じている。700億円程度の時価総額の会社で良いのかということについては、これで良いのかということについては、重く受け止めていて、でも市場が決めることではあるものの、着実に対処して早く適正な株価に戻していきたい。

 GLのありなしと東南アジア重視の戦略の変更は関係ないけれども、GLのありなしでスピード感は少し変わるかもしれないが、韓国でも新規で銀行業を始めている。すでに始めている事業を買収するのが早いのは理解しているけれど、最悪われわれがいってオペレーションを作っていくということだと思っている。方針の変更はなんらない。現在も、もし自社でつくるとしたらどう進めるかということを考えながら東南アジアについても進めているところ。

 一部指定に向けてチャレンジ中ではあるが、事実今回の事案が障害になっていることは否めない。証券取引所の規定に則って粛々と障害になるものを取り除いて進んでいくということになる。

 自社株買いをやらないのかという声は多い。すでに二度ほど実施しているが、常に頭には入っている。事業の特性上M&Aが多いため出来る時と出来ない時がある。

 株主還元については常に考えている。

ストレスを感じたときのおすすめの本

ストレスあるわーと思ったときに読んだらいいんじゃないかと思う本がいくつかあるので、紹介します。

  1. 困ったときに応急措置的に読む本
  2. 心を落ち着けて自分を振り返りながら回復する本
  3. 元気になってきて、何かあっても落ち込みすぎないようストレス対処力をあげる本

の3つをご紹介していきます。

1.困った時に読む本

まずは、ストレスを感じているときか、ストレスは感じていないと思っているけど、どうも周りに足を引っ張られている、もっとできるはずなのに・・・何か変だなという時に読む本です。

 「「ずるい人」が周りからいなくなる本 

他人がずるいという感覚があるということは、何か自分が被害者意識を持つことだから、それって何なのかを今一度考えなおしてみるのが、この本です。「どうして自分がこんな目に!」と感じたときは、視点が偏っていたり、視野が狭まっている可能性があります。

なので、周りの人はうまくやっているのに、自分はできていないという感覚があったり、自分はしっかりやっているのにみんながルールを守れてないと思ったりすることが良くある、という場合は読んでみたら良いかもしれないです。ちょっと癖のある本なんで、あんまり真に受け過ぎない方が良いかも。悪循環を一回止めるための、風邪薬みたいな本です。

2. 心を落ち着けて自分を振り返りながら回復する本

 「愛するということ

 これは、別の記事でも長々と感心したことを延々と引用したけど、結局この本さえ読めば良いのかもしれない。という本。

どんなに色々な対症療法的な本を読んでも、根本の考え方に届かないとダメなのかもしれない。この本が良いのは、愛というのは与えられるものではなくて「与える」ものだということに徹していること。普通の悩み解決本だと周りからうまく「もらう」というニュアンスがあって良くない。そういう誤解は自分を苦しくしてしまうので、そうではなくて「贈ること」でしか楽にはならないということを納得させてくれる本。ただ、会得はぜんぜんできない感じもあるので、長く時間のかかる漢方薬的なものかもしれません。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

という一節からしてもすごい本です。

3 元気になってきて、何かあっても落ち込みすぎないようストレス対処力をあげる本

 そして、心に向き合う心構えを日頃トレーニングする術としてもっと何かあるんじゃないかなーと元気になってきたときに心の筋トレ的に続けると良さそうなのがこの本。

ストレス対処力SOCの専門家が教える "折れない心"をつくる3つの方法

 こちらの記事に延々と引用したけれど、日頃何かちょっと辛いなというときに立ち返ることのできる15の質問があるので、それを読みながら、「わかる感」「できる感」「やるぞ感」をじっくりと広げていくことで、相当なストレス対処力を身につけられるのではないかというものです。ちなみに巻末に、自分のストレス対処力を計測できる質問もついてるので、それでどこが弱いかチェックすることもできます。

4 番外編

イライラしない、怒らない ADHDの人のためのアンガーマネジメント  」

これは、それほどおすすめというものではないのですが、何であの人は怒りっぽいんだろう、怖すぎるし話しかけたくないみたいなことがあったら、理解に役立つかもしれない本。すぐ怒るので、みんなが話しかけたがらないみたいな事が起きていたら、こういう感じかもしれません。怒ってしまう人も、それで困っていて怒った自分を否定してしまい、傷ついているみたいなことがわかってきます。

わかるので興味深いけど、それで何かできることがあるわけでもないので、自分が怒りに困っているのでなければ参考程度かも。逆にそんな感じなんだな苦しそうだな、と思って自分が勝手に想像してしんどくなったりするので、そんなに読まなくも良いかも。

みたいな感じです。他にもなんかあったら追記します。

「ストレス対処力SOCの専門家が教える ”おれない心”を作る3つの方法 」抜き書き

これは、普通に良い本だった。「ストレス対処力SOCの専門家が教える ”おれない心”を作る3つの方法 」

ストレス対処力SOCという考え方に基づいて、「わかる感」「できる感」「やるぞ感」の3つの感覚を養うことで、ストレスに強い考え方を身につけていくという内容。著者はユーゴスラビアなどで研究をしてきていて、戦時下でもストレスをコントロールして生きてきた人と、そうではない人を見て、SOCの重要性を認識したという。

 1 「わかる感」を高める質問

・質問1. 「わかる必要のある問題」と「わかる必要のない問題」を見極められていますか?

 どれだけ考えても現状や今後の状況が分かると思えない問題については、その問題から離れて「目の前にあるできること」「やらなければならないこと」に取り組むことが良い。

 

・質問2. イヤな感情や感情の変化を理解し、上手に表現できていますか?

 不安や怒りを押しこめるのではなくて、どうしてその感情が出てきたかを「私は」を主語にして表現する。

 

・質問3. 「なぜその問題が起きているのか」を考えてみましたか?

 「どうして自分がこんな目に!」と感じたときは、視点が偏っていたり、視野が狭まっている。客観的に考えるために「そもそも、どうしてこんな大変な思いをしているのだろう」と原点に戻るような質問を自分自身になげかけてみましょう。

 

・質問4. あなたは今、一貫性のある環境の中で生活していますか?

 「自分がどう動いたらいいのか」「まわりに期待してもいいことは何か」がわからないのは、規律やルール、そのルールについての責任の所在、価値観などがはっきりしていないからではないでしょうか。どうしたら一貫性のある環境で生活することができるのか、考えてみましょう。多くの人がかかわっている職場環境を変えることは難しくても、プライベートの環境だけでも、一貫性のあるものへと改善していみましょう。

 

2 「できる感」を高める質問

・質問5. あなたを助けてくれる存在に気付けていますか?

 あなたを助けてくれる"元気力のモト"に気づけると、それだけで、「なんとかなるだろう」と思いやすくなります。「悩みを解決するのに役立ちそうな情報はないか」「実際、手助けしてくれそうな人はいないか」「心の傷を癒してくれる存在はいないか」「助け合いの精神のある人たちに囲まれているか」など、"元気力のモト"がまわりにいないか見渡してみましょう。

 

・質問6. 他人から上手に助けてもらえていますか?

 あなたは困ったとき、他人から助けてもらえていますか。もし助けてもらえていないのであれば、4つのステップ(まず、相手を受け入れる。)を踏みながら相談するイメージで頼ってみましょう。

 

・質問7. 心を開いていい相手を見極め、頼ることができていますか?

 自分の心の傷を小出しにして、相手の反応を見極める。

 

・質問8. 自分のもっている可能性に気付けていますか?

 あなたはものごとの良い面に気づいていますか。ものごとには良い面もあれば、悪い面もある。

 

・質問9. 健康な身体をつくっていますか?

 バランスのとれた食事。歩いたり運動をする。

 

・質問10. バランスのとれた、適度なストレスにさらされながら、生活していますか?

 退屈しすぎていないか? ストレスが大きすぎるようで、ストレスを小さくする"元気力のモト"がまったくないようであれば、環境を変えることも選択肢に入れる。

 

3  「やるぞ感」を高める質問

・質問11. 自分の価値に気づけていますか?

 「自分なんて必要ないんだ」と思っていませんか。そんなときは自分がいなくなった世界を想像してみましょう。

 たいして必要とされていないと感じるようであれば、人や自然のためになるやさしい行動をとってみましょう。きっと「必要とされている」と肌で感じられるでしょう。

 

・質問12. 「私の当然」ばかりを押しつけていませんか?

 「ありのままの自分を受け入れてくれる人がいない」と感じていませんか。そうした場合にはまず、あなたが相手のありのままを愛し、受け入れましょう。すると、相手もあなたのことを受け入れてくれるでしょう。

 自分にも、他人にもやさしい、思いやりの心をもって生活することで、同じようにやさしい人があなたのまわりに集まってくるはずです。

 

・質問13. 人をうらやむことをあなたが成長するための原動力にできていますか?

 他人と比較して、うらやんで落ち込んだりしていませんか。

 そうした場合には、現実を受け入れたうえで「比較した相手のようになるためには、どうしたらいいのだろう」と考えてみましょう。すると「うらやましいと思う気持ち」をあなたが成長するための原動力にできるはずです。

 

・質問14. 不本意な仕事や失敗にも意味を見いだせていますか?

 不本意な仕事ばかり頼まれたり、失敗してしまったときも「やってられない」「もうどうでもいい」と投げやりになっていませんか。そんなときは、「この仕事は、誰かの役に立っていないか」「この失敗から学べることはないか」などと自分に問いかけ、自分がそれに取り組む意味を考えてみましょう。意味を見出すことができれば「よし!がんばろう」と思えるでしょう。

 

・質問15. あなたを認めてくれる環境の中で生活していますか?

 あなたのまわりにいる人はきちんと認めてくれていますか。もし「きちんと認められていない」「軽んじられている」と感じられたなら、「『きみが必要だ』と思われるにはどうしたらいいのか」をしっかり考え、自分にできそうなものからトライしてみましょう。

それでもなお「認められていない」と感じる状況がずっと続き、日々、「私なんて価値がない」と苦しさが増すようであれば、思い切って、あなたの価値を認めてくれるような環境にうつることも考えてみましょう。

 

p.186-193

 

自己への配慮についてのメモを見つける

2011年9月のエバーノートのメモを見つけたけど、これが何かから引用しているのかまとめなのかが分からず。フーコーの自己への配慮の何かであることはわかるけど、何なのかはよくわからない。何かのサイトからコピペしているのかな。

ただ、自己の配慮が技術の問題だとギリシャ的に断言しているのは、「愛するということ」と繋がっている話ではある。それで現代では配慮が技術というよりは、どこか「終点」というか「コア」を掘り出すための技術になっていて、技術そのものの習練の果てに得られる体得される何かではない、というこの違いは重要な感じがする。

 

ギリシャ
・自己への配慮は魂の問題であり、宗教的な要素を持つ。真理への到達は、その人自身の変容を必要とする。
・自己への配慮は技法であり、身体の統治、自己自身の欲望の統治、コントロールを含む。
・自己は訓練され、浄化され、鍛えられる必要のある何ものかである。

 

キリスト教
・魂は、自己の放棄により救済される。真理への到達は、その人自身の変容を必要とするが、その形式は自己の統治ではない。神の全面的な受容によってである。
・真理への到達は、手続きと自己に対する技法ではなく、信仰という態度と身振りによってなされる。
・自己は慈愛によって救済されるべき何ものかである。

 

現代(ここは書きかけ)
・魂は、ある種の自己への配慮によって生み出される。真理への到達は、その人自身の変容によってもたらされる場合でも、そもそも内在していたものとの出会いであると想定される。
・真理への到達は、パフォーマンスの最大化、生産性の向上によって測られる。
・つまり、語るべき人、語るべき立場であると承認されている人は、最適化された「能力」を発揮している人のことだ。自己は、本人に内在している可能性の最大化を行う装置として認定される。アウトプットの質と量が偉大さの重みを測る。
・自己は、発見されるべきものである。そして、自己は、表現され社会的価値として実現されるべきものである。

 

まとめ
・つまり、現代の言葉では「自分らしく、気楽に生きる」ことは、必ず「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。ということになる。
だから、それは実は非常に一面的な指示であって、そのことに気付くたびに私は本当に腹が立つ

なんか、よくまとまっているな。特にギリシャキリスト教を経ての今、というのが良くわかる。表現されるべきもの発見されるべきものがない、という状態というのはとても良い。活かされるものではなくて、鍛えていくもの、獲得されるものである方が良いような気はする。体感的に正しい感じもするし。

うーん、だから、このロジックが腹立たしくも現代ではうまくいってしまうのがいやだ。

「社会的な価値の中で何ごとかの表現を行うこと=望ましくは、社会的な価値への反抗として」。 

 わかっているけど、ここから別の価値を導き出せないかというのがぼくの小さな抵抗なんだと思う。ここから真実の贈り物が生み出せるんじゃないかという。入口はこのストーリーでも良いから、別の何か、人に何かを贈る体験の連続としての人生に変化していくんじゃないかという。本当の到達は生産性ではない。生産性へのあこがれから始まっても良いのだけど、それではないものになっていった方が良い。

何かきわめて大切なことと向き合うということは、昨日他人が受けた称賛をまねてただ繰り返そうとすること、とは全然違うものになるはずだ。比較もできないし、圧倒的に今でしかない何かのことなので。その今は過去から来世という未来に繋がるもので、今が代わると未来も変わり得る。

身近な人に対して何ができるのか、ということをきちんとやりきること以上にはないのでは・・・、と個人的には思うけど。何か大いなるものになろうとしたり、大いなるものと交信しようと試みること、それ自体は、心の働きとしてはあると思うけど、それが社会としての要請になるというのは、何かおかしいような気もする。

価値の交換は可能か というテーマで話を聞いた

これ最高だったな。

www.facebook.com

・価値の交換ってそもそも可能なのか。

交換をしているときって、本当は贈りたいという気持ちがベースにあるのではないか。原初の交換は、交換じゃなくて単なる贈与の積み重なりだったんでは。みたいなことを聞いた。

あるかもしれないし、個人的には自分が何かを「買いたい」とほぼ思わないので、何となくそれは謎が解けた感じがある。本を欲しいとか読みたいとかは、「知りたい」というだけで、それは究極は知ったことを誰かにあげたい、からなのかもしれない。

何かを完成させて人に伝えたい。

仕事も結局は、「あげたい」という気持ちの発露でしかないので、それで、自分が何を受け取るかは本質的には全く問題ではない。それで、騙されたとか働かされたということは、仕事の本質においてはない。「あげる」ということが日々できている限り、仕事は幸福でしかない。仕事の本質が誰かに何かをあげることであれば、仕事が失敗するということも本質的にはない。

と、いうように考えていくと、価値の交換はしていない、ということでもある。

すべての人がお互いに贈り合う環境をつくっているだけで、その中で価値は交換されてない。それぞれが自分の行為に満足しているだけなので、価値は、どこかからどこかに移動しているのではない。

人が純粋に善意で、「より良いものを」あげたいと思うので、プロセスが複雑化したり環境を破壊するような高エネルギー消費で、ものをつくるようになるけど、本質的には、ただあげたいだけなので、それで環境が劇的に悪くなっても人にとって問題はないはずだ。なぜなら、人があげたいだけなのであれば、そのときどき、その瞬間で最善なものは常にその人の心の中にあるから、それをあげていれば、その人は最高に幸福なのだから、べつに生活水準がみたいなことはあんまり関係がない。

ただ、いろんなものが生産がされなくなることで、身体的に不快だったり、健康状態が悪くなったりはするかもしれないけど。

それで、より「本質的な交換」とかいった仮想通貨を語るときのコンセプトは、ぼくは個人的には成立が全然できないと思った。もしかしたら、それはぼくの狭量さなのかもしれないけど、「贈る」行為の媒介物は何でも良いから、別のそこに新しい技術が投下されようがされまいが、何も変わらない。

貨幣に対する幻想を作り上げて、何が大切かの優先順位をいじることで何か自分が有利になろうとする人がいる、というのはあるかもしれない。だけど、それで、その人たちが幸せなのか・・・と考えたら、別にそうでもないだろうし、人が「贈る」ことにこころを込められるかどうかと、豊かさはそれほど関係がないかもしれない。

だから、貨幣の機能は大事ではない。

もう1つ考えるべきことは、それでも人は、「贈る」ことを何かのシステムとの対立で理解するべきなのかどうかということは思った。簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換みたいな仕組みの生み出す評価ということ自体を、何かを壊すもの、疎外するものと考える必要はあるのだろうか。

あるいは、問いを変えると、そういった簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換というコンセプトの何を変えると、もっともインパクトがあるだろうか。

ぼくの直感では、それは貨幣ではなくて「評価」だと思う。

「評価」とは、何を数え上げるのか、つまり、簿記なのだけど。カウントする「もの」をどう指定して、どこに記録するのか、の方だと思う。

貨幣は、ゲームの中の「アイテム」や「カード」なので、ゲームを変えるのはそういったコマではない。モノポリーのコマやカードをいくら変えても、どんなに機能を追加しても、カウントしたものの多さや少なさで競うというルールそのものを変えなければ、本質的なゲームは一切変わらない。

カウントすることや、保存しようとすること、何かを同じ軸におこうとすること、そのものは否定できないと思う。だから、カウントの仕方を柔軟にするとか、相対化することでしか対応できないのではないかというのがぼくの感じ方だ。

そして、その達成の評価軸を「贈る」というユーザー体験におくのはわかる気がした。まじですごい。

 それで贈るを主にした場合に「買う」とは何か、がなぞなのだけど。

「買う」というのは、「贈る」ためなのか、それともお金を「贈りたい」のだろうか。ごはんを食べるときに、人は贈られているから、おかえしをしたいのだけど、手近におかえしできるものがないから、自分の仕事を贈ったことにするための何かがほしいのか。だからお金というのは本当は、その人の仕事そのものであるということか。

仕事そのものである、ということは、「買いたい」という気持ちというのは本来的には結構理解できない。例えば映画を観たいというのは何か。それはその体験を通じて自分が何かを知ったり、解放されたりする体験だけど、それって、例えば昔で言うと物知りな長老に何か面白いためになる話をしてもらう、みたいなことなのか。

長老にとってはとても大切な贈る行為なのかもしれない。

 そして、ひとが仕事を大切にするように、仕事を誰かに贈るように、物語を大切にするのは、その長老という人格を通じて、その人を慕うようにすることによって、何かを表現しようとしているということでもある。

 それは、たぶん、この全体、すべての行為のつながっている様子そのものに対して、何かの気持ちをささげようとしているということでもある。