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 「日本辺境論」を簡単図解する/デジタルコミュニケーションとは何か(1)

 内田樹氏の「日本辺境論」を読み終わり、これを簡単に図解するとちょっと面白いのではないか、と思い、作ってみました。ご覧頂くと分かりますように、この本は目次時点で極めて簡潔な構造を持っています。

 日本人は、歴史的に辺境的な視点を常に強いられてきたと内田氏は言っています。そのために、「きょろきょろ」する。と、これを別の言い方をすると、教育学・学習論的に言うところの「学習性無気力」および「自己効力感に乏しい」状態に置かれているのだと言えるかも知れません。この論点は後で、少し敷衍したい点ですが、とりあえず、先に進みます。
 辺境的な視点を持つ日本人には、「強み」と「弱み」がある。「弱み」は先の大戦で壊滅的に発揮されたものであった。では「強み」とは何だろうか。それは無前提に学ぶことに対して開かれた態度である。「弱み」を克服することに力を注ぐよりも、「強み」を伸ばした方がいいのではないか。
 ここまでが、データと前提となる論拠として提示されます。この先が独自の主張となります。
 「日本辺境論」の主張とは、日本人の高い学習力を残したまま、愚かしく盲従するという悪癖を克服する術として、「機」の思想が活用できるはずだというものです。「機」の思想とは計画に沿って作り出される学習ではなく、対象との出会いの瞬間に生み出される力です。「自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないのにもかかわらず確信できる力」のことです。
 これが、「弱み」を克服する力となるのか、それとも謎の「国体」という信念を再び招来してしまうのかについては、特に触れられていません。
 これが、「日本辺境論」のあらましです。

 ここで、図解してみると分かることは、ご本人も指摘しているように「学ぶ力」→「「機」の思想」のラインがちょっと怖い。アクロバティックに飛んでいるのですね。でも、この本が売れているということからすると、そこはあまり問題になっていないのかもしれない。個人的な感想ですが、「学ぶ力」を伸ばすということが「「機」の思想」に飛ぶのではなくて、ただ「弱み」をも包括するほどの学習力に高まる、ということでも理屈は成り立ってしまうと思っています。つまり、勝間和代的にアメリカの論理を内面化することで、新しく日本人も「ロジック」と「他者への教化的態度」をニューウェポンとして装備できるのではないか。なぜなら、日本人の底なしの学習力を持ってすれば目的論的な思想すらも容易に同化できるはずだからである、とも言えてしまう。(どっちが正解かはわからないですが。)
 ただ、それでは面白くない、エンタテイメント的には日本独自の文化を立てて適度な自尊心をあおりたいと、出版社と内田氏は思ったのでしょう。これがこの本の差別化でもありますね。
 ここがポイントだと思うのですが、なぜ、適度な自尊心をあおらなくてはいけないのか? それが読者の望みであるだけでなく、日本人の「自己効力感」の問題だからだ、と捉えているのだと思うのです。
 つまり、日本は繰り返し他文化からの侵犯や王権の授与を経て「学習性無気力」に陥っているというのが、「日本辺境論」における診断です。学習性無気力とは、「電気ショックを与えられても逃れられない状況に置かれた犬は、電気ショックから逃れられる状況となってもじっと電気ショックを受け続けるだけである・・・また、仮に逃れられることを学習したとしても、それには長い時間がかかった」(「企業内人材育成入門」p.126 中原淳・編著)。つまり、日本人は長らく自分でコントロールできない外的状況に対応することに慣れすぎて、それがコントロール可能であるという事実に気付くことも、対処することもできない病気にかかっている。この病気を治すためには、「自己効力感」、つまり自分の力で外的な環境を操作することができるという事実を少しづつ学び、統制への確信と自信をつけていく必要がある。
 この場合に問題となるのは、私たちの能力感が「他者との比較」によって定義されてしまっていることです。内田氏が指摘するように、一国の首相が日本の価値を「GNPのランキング」でしか語ることができない、この現象です。これは「能力観」という点から考えることができます。
 無気力になった子供を集めた学習実験によると、やさしい問題を多く与え、自信をつけさせたグループ(成功体験群)と、やさしい問題と難しい問題とを与えて、難しい問題ができなかったときには、努力が足りなかったためであると繰り返し話したグループ(努力帰属群)では、後者の努力帰属群グループの方が難しい問題で失敗してもやる気を失わなかった。後者は、能力は努力次第で変化すると感じ、自分の能力を自分で高める「内発的動機」を作り出したのに対して、成功体験群は「他者からの評価」にのみ依存し、能力を開発する動機を持たず、評価を失ったとたんにやる気を失ってしまったのである。(「企業内人材育成入門」p.135 中原淳・編著)
 このように比較して二つの本を読んでみると、日本人の症例とはまさに、前者の、「やさしい問題=先行者がいる問題」だけを与えられて成功体験を繰り返してきたグループそのものであると言えるのかもしれません。先行者が不在になると、とたんに何をしていいのか分からなくなってしまう。やっかいなのは、そうした能力観を持つ人たちに、では考え方を変えなさいと言って何かを強制しても、それが新しい「電気ショック」としてしか機能せず、新しい「無気力」を学習させることになるだけではないか、ということなのです。この日本人にかけられた狂った呪いを解くために、日本人は自分たちなりのやり方で外部の環境に働きかけるやり方を見つけなくてはいけない。このように、「日本辺境論」を読み解くこともできるのかもしれません。
 
 そういうことになると、終章の日本語論の意味もはっきりするのではないでしょうか。この付け加えられた感のある終章の意味とは何でしょう。論理構造としては、この終章は、本来全体を支持するベースとなるはずのものです。だが、不思議なことに、この日本語による日本文化特性の枠組み規定論は、前章の結論を支えもしなければ、接続もしていないのです。ただ、日本語では「正解を解く」という語りができないかもしれない、といわれるだけです。だけれども、この「正解を解かない」言葉を使って何かできることがあるのではないか、その可能性がひっそりと語られます。

 さて、ここで、二つ目の図なのですが、

 日本語表現の特異性からはマンガというコンテンツが生み出されました。そして、高い学習力からはトヨタなどの輸送機器やソニーなどの電機メーカーが生み出されました。この二つの現象はどのようにして関わっていくのか、から次の一手が見いだせるのではないか、というのが私の仮説です。我田引水的な結論に当然なっていくわけなのですが・・・。

 はい。そうです。二つは一つになり、新しい領域を創り出します。コンテンツと既存産業は一つになります。その際に重要な要素となるのは「コミュニケーション」です。私たち日本人の強みは、学習性無気力とも自己効力感とも関わりなく、ただ、偶然に日本語という特殊なコミュニケーション文化を持っていることです。このコミュニケーションには世界的な価値が実は秘められているのではないか。コンテンツを間に置いて、間接的な情動を伝達する姿勢、そこに価値があるのではないか、と考えています。それはより多くの感情をお互いに伝えあうことを可能とする、かもしれません。
 そして、この感情を含んだコミュニケーションが成立するとなぜ良いのか、というと、私たちの学習がさらに加速し、より高速に商品とサービスのイノベーションが起こるようになるからなのです。これをデジタルコミュニケーションあるいはコンテンツコミュニケーションの領域と言っているわけなのですが、この詳細についてはまた改めてエントリを立てようと思います。
 で、ぼくの考え方では、日本人の自己効力感は、この優位性を通じて回復されるようになる、はずです。実際には、実は日本人の無気力はすでに払しょくされているのではないか、という疑惑も持っているのですが、仮にまだまだ根深い問題だとするならば、それは、私たちが実際に国際社会に対してさらに大きな貢献を得意な分野で行うこと、で解決することでしょう。その領域が、コンテンツと産業が一つになり、私たちの情動と情報を高速で伝えあう場、デジタルを活用しコンテンツを活用した(リアルを含んだ)広大なコミュニケーション領域であるだろう、と考えているのです。

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