いかにして自分は選ばれたというストーリーと戦うか

ともかく自分は選ばれたというストーリーはめちゃくちゃ多い。ブレードランナー2049が良かったのは、その選ばれたというストーリーそのものが入れ子になっていて、植えつけられた記憶になっているところで、ここは良かったな。

比較的多くの人が、自分こそが何かの召命を受けてこの世に生を受けたと思いたがる。

だけど、そういうものは一切ないので、結局のところ自分で自分のストーリーをどんどん付け足していくことになる。そういう心理を知っている人は、誰かにその素材を提供する立場になることで、彼のエネルギーを吸い取ったりコントロールしたりできるようになる。

そういうのはなんだかなー、と思うので、なるべくなら自分は誰にも何にも選ばれていないし、選ばれなくても別にかまわないし、それで価値付けされるぐらいなら何にも選ばれない人のままで良い、という考え方でいたい。

同様に選ばれたくないと同じように、誰のことも選びたくない。

そこには運命もないし、ストーリーもない。お互いのことを選びあうのは家族の中だけで良くて、それ以外の人に対して、過剰なストーリーを読み込みたくない。

ただ存在していることだけで十分で、この世になにかつめ跡を残したくもない。

自分を越えた何かの前進を助けたくもないし、周囲の人の感謝を越えた巨大な業績も欲しくない。昼行燈で生き、小市民として小金を貯めこみ、お茶を濁していると揶揄されることを積極的に尊んでいきたい。

勝利の旗は早々に破り捨て、獲得したものは速やかに譲渡し、エンドクレジットも墓の名前も全て他人に譲り、栄誉栄光の断捨里を徹底する。

この世の栄光を手に入れるくらいであれば、あえて凡庸な成果の中に埋もれて無名の者となり、大衆の匿名性を甘受したい。誰でもない人、名前のない人、どうでも良い人になりたい。

前に、内向的な人の良さを承認しようムーブメントみたいのがあったけど、絶対に目立ちたくない人というのも承認した方が良いような気がする・・・。『暗闇のスキャナー』にスクランブルスーツという全ての人の顔や姿をランダムに大量に表面に表示させて、誰でもない人になるスーツが出てきたけど、ああいう感じにならないものか。誰のようでもあるけど、誰でもないし、記憶にも残らないみたいな感じになりたい。

取りつかれたように社会を求める人に成長して欲しいという、圧力があるような気がする。

そういうものがあるとして、対抗するためには、同じ山でなくて小さなどうでも良さそうに見えるけど、かなり重要な山を登ることにすることだと思う。

本当にどうでも良い山もあると思うけど、その見極めだけに命をかけることにして、ともかく目だたないところだけにアタックし続ける。

「学歴社会 新しい文明病」は脱学校論を否定していて楽しい

R・P・ドーアが書いた「学歴社会 新しい文明病」は、最高の本みたい。

まだ途中までしか読んでないけど、タイトルから受ける学歴社会ってよくないからテストとかやめましょうね、っていう感じとは全然違う内容なのでびびった。古本屋で何気なく手にとって、一読してまず、イヴァン・イリイチの脱学校論を認めるところはあるものの、彼らの自由なやり方を採用すると、自発的な若者だけしか生き残れない逆にエリート主義的な方向に行くと否定していて、これはすごい。

あと、あっさりと産業革命と教育は全く関係がないという否定もはいるところが素敵。エンジニアリング、法曹、会計、建築など今となっては学校やテストが必須と考えられているような分野にも長く学校はなかった。

イギリスの産業革命の糧となった技能が蓄積され、かつ伝承されたのは、ほぼ全面的に工場や鉱山など作業の現場であり、決して学校ではなかった。十八世紀から今日に至るまで、その形式がきわめて緩慢に変化しているにすぎない、伝統的な見習制度の連続性がそれを裏書きしている。

p.32

ドーアは極めて極めて現実的な人で、人には向き不向きがあるということを認めようという立場にたっている。だから、早期に適性を見極めるテストをすることにして早目に職場に出る、そしてそれぞれの職場で必要な教育を受けることにした方が良い、という。

ドーア新興国の教育制度の矛盾をじっと観察してきて、結局、学校制度が人々を「脱落させるシステム」として機能していることを指摘する。限られた人にしか「近代的な仕事」その社会の中で、優れていると考えられる仕事は与えられないのに、子どもをそういう仕事に就けたい親の熱意に押されて大体の政府が学校を急速に整備してしまう。

そのため、必ず大卒や中等教育以上の失業者が大量に発生してしまう。彼らは、開かれて公平な教育というシステムで、公平に裁かれて人生の初期に自分が、劣った存在であることを合理的に納得させられる。

そういう状況を作り出すくらいならば、そもそもそれぞれの人が持ってうまれた能力をしっかりと発揮できる職場に就職ができて、無駄に不要な教育期間をすごしたり、過剰なストレスを受験によって感じるよりは、職場で早くから学んで優れた仕事を残す方が良いのではないか・・・とドーアは言う。

この考え方の前提には、「どう頑張っても適性の壁はある程度は越えられません」という諦めがある。

これは、なかなか良い。

今の社会では、大体において、凡庸であることは悪とされているから、もし本当に適性を見極められるのであれば、みんなが凡庸よりは少し上の成果を残している感じになり、(実際に残しているかどうかはともかくとして)満足感は上がるような気がする。

また、学歴社会についての批判の本ではあるけど、結局なぜ高学歴者が良い会社に入るかというと、その社会で学歴が受け入れられるようになると、本当に優秀な人は、高い学歴を得て良い会社に入ろうと努力するので、その社会のベスト&プライティストは第一級の学校に集まるようになる・・・ということらしい。

これは、実際に確からしい感じがしていて(ぼく自身は中卒だけど)結局、確率的には難しい学校に入った人は自尊心も与ってか、大体において優秀な仕事をする人になる人が多めではあると思う。

だから、結局のところ現時点で優秀な人を探そうとすると、難しいハードルを突破している人を探すことになり、それは今の優秀な学校出身者だということになる。

そして、ドーアはその方式を適性検査に変えたら良いというのだけど、それもあんまり何かが変わっていることにはなっていなくて、せいぜい、そのテストで選ばれなかった人が早目に別の職業を探すようになるというだけのことでしかないような気がした。

だから、ドーアの提案はまともなんだけど、構造そのものを変えているわけではないので、所謂脱学校論的な観点からすると、「学校化は終わらない」ということになる。

だけど、学校化ではないルールというものは、結局のところ新しいエリート主義だという指摘も反論ができず、難しい・・・。というのが分かってすごい面白い。

 

それで、どうしたらよいのか。

 

まず、ドーアの示す解決策「適性の早期発見」というシナリオの可否を考えてみたいのだけど、多分「適性」を掲げることは、深刻な不安を社会に持ち込むことになると思う。全ての人が自身の「適性」に恐れおののくだけだと思う・・・。今ですら、本当にこの仕事向いているのか・・・という悩みが人々を覆い尽くしているのだから。

それは、エーリッヒ・フロムが指摘した「自由からの逃走」で指摘されていた以下のような理由による。結局、私たちが現在の日本で見ているように学歴が全てではなくなってきている社会ではびこるのは「私らしさ」や「本当にやりたいこと」で、それが「適性」に置き換えられても問題の根本は変わらない。脳科学で定められた適性によって仕事が割り振られても、そのことに対する虚しさを感じるPKディック的な世界が広がるだけだろうし・・・。

能率という観念がもっとも高い道徳的な価値の1つと考えられるようになった。同時に富と物質的成功を求める欲望が、ひとびとの心をうばう情熱となった。

・・・もはや自然の、疑う余地がないと考えられるような、固定した場所は存在しなくなった。個人は独りぼっちにされた。すべては自らの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない。

なんで自民党支持する人が多いのか 自由からの逃走 - ororの日記

すなわち近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないという真実--を漠然ながら理解できる。このことを認めるためには、ひとが本当になにを欲しているかを知るのは多くのひとの考えるほど容易なことではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題の1つであることを理解することが必要である。しかし、それはレディ・メイドの目標を、あたかも自分の目標と考えることによって、遮二無二避けようとしていることがらである。近代人は「自分のもの」と予想されている目標を達成しようとするとき、大きな危険をもさけようとはしない。しかしかれは、自分自身にたいして自らの目標を危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。もちろんわれわれは、それが俳優や催眠術にかかった人間の行動と同じように、自発的なものではないことを知っている。劇の一般的な筋がわたされると、各俳優はかれにわりあてられた役割を力強く演ずることができ、自分の縄張や演技の細かな部分は、自力で作りあげることさえできる。しかもなおかれは、かれにわたされた一つの役割を演じているにすぎない。

われわれの願望-そして同じくわれわれの思想や感情-が、どこまでわれわれ自身のものでなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。

自由からの逃走的な行動 - ororの日記

それでも、ドーアの言う方向性が興味深いのは、特に人を仕事に割り振るルールがない社会では学歴こそが人々のラベリングシステムとして有効に働いているということ。そして、それが実際に人々に良い仕事という素晴らしい恩恵をもたらすから、人々に熱望されて「教育熱」という一見すると良さそうな熱意として噴き出すことだ。この流れはまさにマルチの仕組みとおんなじだ・・・。最初は割の良いリターンを出すけれども参加者が増えるとリターンは増やせないので、すごく利回りは低下するけど、頂点のリターンがとんでもないので、参加者はどんどん増えていく・・・。

そして、それを助けようとする諸外国や非政府セクターの人々もこれを正義として疑わずにむしろ感動しながら仕事に取り組んできたであろうことも興味深い。

教育というワードには「機会の公平性」や「進歩」や「弱者の救済」という虫酢が走るようなドラッグが染み込んでいていて素敵だ。これを目的にする人には、何か存在そのものの深刻な問題がある。

なぜ他者を同僚として助けずに、「教師」として導こうと志すのか・・・。そもそもの疑問がある・・・。

多分、この構造を「適性」に変えたときに起きるのは、人々が自分の適性を「より良いもの」に改造しようとすることだ。これがヤバイ。

普通に例えば、肉体労働に向いていますよ、と言われて素直に受け入れて社会的な評価をいっさい気にしない素直な(あるいは高度にあまのじゃくな)人であれば、何の問題もないけれど。実際には、無意味な社会的な序列はなくならないと思う。

それで、結局のところ人々は、より「評価が高いとされている」仕事に自分の適性を捻じ曲げたくなると思う。これがなくならないと、どんな振り分けシステムを作っても、そのシステムに対応する人間が自ら生み出す不幸はなくならない。

その根幹にあるのは、人は自分の運命を自分で決めるほどには度胸がない、ということだ。だから学歴のような一律のシステムで「他者と同列で」評価されたい。自分だけに特殊化されたシステムで評価しても、それを「他者目線」に翻訳しなおしてしまうだろう。そして、勝手に翻訳した「他者目線」システムの評価に合うように、自分の適性を改造する心理的な訓練に熱心に取り組むようになる。

例えば、あなたはエステシャンに向いていますよ、と言われて実際にやってみて楽しく仕事ができていも、エステシャンよりもエンジニアとかデータサイエンティストの方が何かのドラマとか映画とかで話題になって、注目を浴びているとなったら、心は揺らいで転職を考えて、エンジニア適性テストに合格するための学校に通うようになる。

それで、瞑想とかで自分の心を整えてGoogleのエンジニアと同等のメタンルスキル認定とかを受けて、マインドフルネスなエンジニアになって辣腕をふるう妄想をするんだけど、実際にはコードを書くのはそんな好きではない、みたいなことになる。

 

ドーアが言う適性による割り振りは、そもそも、適性によって割り振られる人間の適性の範囲と、仕事の範囲がぴったり一致していることも前提している。

例えばだけど、農業にぴったりの人が1000万人いても、農業側の需要が100万人しかいなくて、非農業が900万人需要だったら、満足する人は10人に1人しかいない。

結局のところ、「満足感」というものをうまく社会の中で演出するのは極めて難しいということになる。もっと考えていくと、たぶん、この問題はもっと分解できる要素があるような気もしてくる。

  1. 適性というのは確かにあるとは思う。
  2. ただ、適性にはかなり可塑性があって、幅広い範囲の仕事に対応できる。
  3. 自尊心や心の安定は、職業の適性だけでなく社会的な威信や報酬のランクとかでも決まってしまう。
  4. 自尊心や心の安定は、そういう外部要因だけでなく、マインドの持ちようでかなり可塑性があり、幅広い対応ができる場合もある。
  5. 2.と4.の可塑性を掛け合わせて、ぴったり適性じゃなくても大体あっていればオッケーというラインで楽しく過ごせるマッチングを効率的にやって、あとは、仕事を深刻に考えすぎない社会的な機運をつくる。

ということなのかも。で、学歴についてはドーアのいうことはもっともだと思うけど、もっと言ってしまうと、やっぱり学校がなくても問題ないような気もするな。いっそオンラインスクールとかで、社会人になってから学びなおしとかでも良いしな。

 

また別の話題だけど、今では専門分野と考えられる多くの分野に同業の組合はあっても、学校は長くなかったということを考えると、何かの技能を仕組化したりしてスケールさせたり、コンテンツ化して広く伝播させようとする、現代のよくある考え方は間違っている可能性が高いな。同業者の助け合いみたいなものは有効に機能するけど。例えばエンジニア同志でGitHubで共有するとかはその伝統に乗っていると思う。

スケールできる仕組みを作っている会社は「教育」ではなくて、動作の均一さとか、繰り返すことが出来る教育不要な商品の提供方法とか、何かで無意識に工夫している可能性がある。それで、その流れそのものを「社内教育」と呼んでいるのかもしれない。

実際には、考え方の伝播とかではなくて、動作としての再現性とか学ばなくても良い工夫の方が大事なんではないか。もし、伝承する必要があるとしたらそれこそ徒弟制的な感じを置かないと・・・。真の技能はそういう形でしか伝わらないと思う。

後は、もともとの才能の見極めになるのかも。

ブレードランナー2049は色々思ったけど、色々思ったからすごい良い映画だ

ブレードランナー2049を見た。長いという評判だけど、長いとは思わなかったな・・・。環境映画としては最高で、街中のシーンとかずーっと見ていたい。再編集してまちの中のシーンだけにして、ずーっとエンドレスループさせたい。そういうとこは本当に良い。

風景だけ見せているカットとか、探索しているシーンとかの長さは長くてとても良い。けど、都市部を離れて郊外のゴミ捨て場とかに行き始めるとちょっと退屈かもしれない。映画全編の長さの問題じゃない気がするな。何かゴミ捨て場の土着化した人間たちの描写とか子どもがいっぱい囚われてる様子とか、散々描かれているからもう見たくない感じ。

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どちらかというと、画の中の情報量の問題で、都市部を描いている時は、都市の生態系が感じられるから楽しいけど、郊外に出てしまうとそういう複雑さが感じられないからいまいちなんじゃないか。都市部の描写は本当にマジで良かったな。ずっと見ていたい感じ。

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www.bladerunner2049.jp

ストーリーそのものとか、エピソードの刈り込みをした方が良い、というのは別に思わなかった。ブレードランナーは前作も近作も別に、ストーリーとかテーマの良さとかはあんまり重要じゃないと思う。テーマとストーリーは、基本的にはハリウッド映画の場合には「生まれの貴族性」の話なので、だから何なのかというのはあんまりない。そこは、深遠さを出すための演出部分なので、そこを掘っても新しいものはないと思った。思ったけど、感想読んでたら、PKディックのマーサー教的な要素を入れ込もうとしているよね、っていうのは良かった。そういうのはあるかもしんないけど、ストーリーの根幹ではないからなー。*1

映画としては美術のすごさが、勝負どころなんじゃないか。ブレードランナーは基本的には環境映画なので、環境映画として面白いシーンが続くのが良いのではないか。そういう意味で、ひたすら追跡しているシーンの羅列とかはすごい良かった。物語が収束しはじめるとつまんないけど、あてどなく彷徨い続ける感じが良い。彷徨いをもっと伸ばして収束部分を切り詰めるんだったら良いかも。あのまま4時間くらい彷徨っていていも苦痛じゃないかもしんない。

あと、みんなが絶賛しているけど、ジョイは本当にマジで良い。ジョイを発明したのが本当に偉い。ジョイが出てきた冒頭のシーンだけで、本当に見て良かったと思う。あと、後半のでかいジョイのシーンが、主人公の決意のきっかけになるという名シーンっぽいやつはやや嫌いだった。何か別のやり方があるんじゃないかな。あれが一番良いやり方だったのかはわからない。大体その前にどこかで一回ジョイの広告カットは入っているから蛇足感があるような気がする。説明しすぎなのかな・・・。

あと、どんどんこのシーンに関しては思うけど、なんで一人で橋の上なのか、街中で大勢の中で同じ広告を見るとかでも良かったのでは。その方が正しいのでは。

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イノセンス』のラストシーンで、素子が上から降ってくるシーンとか、もしマーサー教っぽさを出すことにしているなら、何かその宗教性とかネットワークに溶け込んでいく何かとかを出した方が良かったのではないか。あんまりやると別の映画になるからできないかもしれないけど。

少なくとも、決意に至るシーンには映画としてのアクションが必要不可欠だと思うな。素子は垂直に落ちくる。ジョイは橋の横にいてビルに戻っていくだけだからな。画面を切り裂くような出現と、そのまばゆさと期待・ジョイが戻ってきたかのような錯覚と、それが広告でしかないと分かる落胆みたいなシーン内での激しい上下動が欲しい。何かこだわるけど、ジョイとの別れはもっとドラマがあったら良かったなぁ。

でも、冒頭のジョイが登場して雨に打たれてるあたりの方は本当にびっくりした。何というかサービスとしてありそうな未来を示しているのが素敵だった。ジョイそのものが、環境的な存在だから本当に良い。

彼女にはストーリーがないから良い。基本的には肯定しかしないし。その肯定性とかを深堀して、マーサー的なテーマも深堀すると、もっとPKディックの方向に行ける。何か分からないが、ジョイに関しては『暗闇のスキャナー』における最後に捜査官だったと分かる主人公の恋人のドラッグ中毒者仲間だと思っていた子とかを思い出す。

そうか、だから、もっと良かったのはジョイがウォレス社にプログラムされて主人公Kの行動をコントロールしてる、最後にアンテナを折る指示をしているのもウォレス社の指示、もしくは警察の指示、ということになっていたら最高だったかもしんない。

何か、あの描き方だとジョイの意志だけは「リアル」っていうことになってしまうので、それは良くないな。そこも含めて虚構にならないといかん。

とか、色々個人的な感想が大量に出てくるからこれは良い映画だな。すごい良い映画だ。

因果応報は、良いことの連鎖をいうらしい

因果応報は、悪いことの因果関係で、バチが当たったみたいな、感じかとおもっていたけど本来は逆らしい。
良いことがあったら、それは過去の良いことがかえってきてると考えるらしい。
そう考えると、なるべく良いことを続けようと思うし、日々良いことがあれば、自分の行動を全面的に肯定することになる。
すごい考え方だ。

イベントからの導線

次のアクションとして想定されるものと、動機付けが合致しているもの。

 ・知り合いになる→共通の関心事がある→同じイベントが繰り返されるもう一度会う→次に何かのきっかけで一緒に行動するようになる

 

 ・一緒につくる行動をフォローするのは、制作系の別の活動で、そこがエントリーの入り口とつながっている

 

 ・エントリーと、チーム化と、制作して納品するまでの数カ月スパンとを分ける。

 つくらなくても、旅程が一緒とかでも良いし、何かの時間経過があれば大丈夫なのかも。

対話が出来る場

対話が出来る場っていうのは素晴らしい。

自分の弱さとか、性格的なこだわりを認めて、怒りを持ってしまうのはなぜかを人に話せて、その話を聞いて自分が学べるということがあるんだなーと、思った。

組織の中にいると、焦りとか不安があってなかなか難しかったり、あるいは家族同士だと、怒りが先に立ってしまうけれど、そういう関係のない人の中であれば話ができるというのは良い。

よくアメリカの映画とかに出てくるセルフヘルプグループみたいなものってうらやましいなーと思っていたけど、意外と日本でもあるものですね。

 

羨ましいな、とか、自分を認めてほしいとか、そういう気持ちがあると、気持ちがだんだんと辛くなってくるのだけど、俯瞰してみてみるとそれって何なのか・・・という話ではある。でも、そういうことも、かかわりがない空間で人に話すということがないとうまく消化できないものなのかも。

当事者同士で話をしていても、関係ないと思っている同じ組織の人でも、結局かかわりがあると中立ではないので、難しいものなのかもしれない。

コミニティはイベントとは限らないしグループ化されているわけでもないかも

コミニティは、多分、コミュニケーションすらもとれてないものでもコミニティなんじゃないか。イベントやってなくても、グループにまとめられてなくても、連絡先が分からなくても、お互いの存在を知らなくても、すでにコミニティなのではないか。

あるいは、共通の価値観がなくても、共通項がなくてもコミニティになれるのではないか。

コミニティ化されているものとは何なのか、今知られているものではないコミニティというものもあるのでは。なんというか、標識を持たないコミニティというものがあり得るのでは。識別できないコミニティ。

それが何のためにあるのかもよくわからないけど。

 

ひとりぼっちで、誰とも話さないことを目的とした「無言コミニティ」コミュニケーション禁止のコミニティで、FBグループへの投稿もイベント開催告知以外は禁止。