自由からの逃走的な行動

自由に行動しているように見えるのに、実は逃走である行動というのがあるかもしれない、というのが難しいというか見えづらい。本当に自発的に行動しているのか、という問題もとても難しい。何かの目標を宣言して行動している人は自発的な人なのか、そうじゃないのか、というとたぶん大体においてはそうでもない。

 

例えば、ビットコインとか仮想通貨って人類の運命変えるかもね、みたいな話で行動している人は自由なように見えるけど、たぶん逃走に分類される。けど、ちゃんと原理とか使い道まで考え抜くとそうじゃないかもしれないみたいなところはある。けど、ほぼ逃走だとは思う。あと、人工知能がただすごいみたいな話も逃走に分類されるけど、ちゃんと原理とか使い道まで考えていくとそうじゃないかもしれない。

その違いは、「シンギラリティ」っぽい話、予定説みたいな話に触れているかどうかだと思う。予定説に入っていくと逃走で、部分的な改善の話をしていればそうじゃないと思う。大体の感じとしては。

あと、自発的な感じというのは難しい。表面的には私はこれをやりたいです、的なことをみんなが言うので・・・。でも、本当はそんなにやりたいことでもないけど、そのことに気付かないようにしているのがあって。

すなわち近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないという真実--を漠然ながら理解できる。このことを認めるためには、ひとが本当になにを欲しているかを知るのは多くのひとの考えるほど容易なことではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題の1つであることを理解することが必要である。しかし、それはレディ・メイドの目標を、あたかも自分の目標と考えることによって、遮二無二避けようとしていることがらである。近代人は「自分のもの」と予想されている目標を達成しようとするとき、大きな危険をもさけようとはしない。しかしかれは、自分自身にたいして自らの目標を危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。もちろんわれわれは、それが俳優や催眠術にかかった人間の行動と同じように、自発的なものではないことを知っている。劇の一般的な筋がわたされると、各俳優はかれにわりあてられた役割を力強く演ずることができ、自分の縄張や演技の細かな部分は、自力で作りあげることさえできる。しかもなおかれは、かれにわたされた一つの役割を演じているにすぎない。

われわれの願望-そして同じくわれわれの思想や感情-が、どこまでわれわれ自身のものでなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。

p.278-279

近代人は表面は満足と楽天主義をよそおっているが、その背後では深い不幸におちいっている。事実かれは絶望のふちにある。かれは個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。すなわちかれは他人と「ことなろう」と願う。

・・・かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることができたならば、自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。・・・近代人は深い無力感に打ちひしがれている。そしてそのために、かれはあたかも麻痺したように、近づいていくる破局をみつめている。

p.281-282

それでは、どのようにして「自由」であることは可能となるのだろうか。

独立自由 は孤独と恐怖と同じことであろうか。あるいは、個人が独立した自我として存在しながら、しかも孤独ではなく、世界や他人や自然と結びあっているような、積極的な自由の状態があるのだろうか。

・・・積極的な自由は全的統一的なパーソナリティの自発的な行為のうちに存する。

・・・われわれはここで、心理学のもっとも困難な問題の一つである自発性の問題に近づく。・・・自発的な行為は、個人が孤独や無力によって駆り立てられるような強迫的なものではない。またそれは外部から示唆される型を、無批判的に採用する自動人形の行為でもない。

・・・第一に自発的な人は、芸術家。哲学者や科学者も

・・・第二に自発的な人は、子どもたち。かれらは本当に自分のものを感じ、考える能力をもっている。

・・・少なくともある瞬間には、われわれ自身の自発性をみとめることができる。・・・一つの風景を、新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちにある真理がひらめていくるとき、型にはまらないある感覚的な快楽を感じているとき、また他人にたいして愛情が湧きでるとき、-このような瞬間に、われわれはみな、自発的な活動とはどのようなものであるかを知るであろう。

p.283-287

・・・自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。

このことはまた、活動そのもの、すなわち過程がたいせつで、結果がたいせつではないことを意味する。われわれの文化にあっては、まさに逆が協調されている。

p.288

あと、人のことを非難したり人格的にどうかみたいなのも、自由に行動しているように見えるけど、そうでもない。