サイレント社会主義の完成 私たちの付加価値または剰余価値は、官僚制の中で掘り起こされ、定期的に配給される何かになった

明らかに、日々の情報の中で政治性は高まっていっている。
経済の話題は弱くなり政治の話に終始するようになっている。

これは、そもそもは資本主義が自分を延命させたことから始まっている。
90年頃、資本主義は危機に瀕していた、と思う。(日本でというだけではない。)
資本主義が生み出した製品が、人々の欲望を満たすことができないことが明らかになっていたからだ。(それなのにソ連は崩壊してしまった。)
そうなると、資本主義的に作られた全ての仕組みが疑問に付されてしまう。
これは、かなり大事件だったはずだけど、それを乗り越える方法が発明されてしまった。

資本主義でないものはないので、虚無に直面するくらいなら、資本主義を延命させるために何をしても良くなった。
そして、答えは、株式市場や資本市場を評価軸として便利だから、すべての優位に置くということだった。
数値としての評価が向上するように全ての体制を作り替えれば、みんなの気を反らせるだろうし、ボーナスもそれに応じて出せば良い。そしたら取り敢えずの満足感は出せるだろう。
資本市場の評価額を向上させるために裏付けとなる負債を、政府の負担で作り出しても良いし、さまざまな経済主体に分散して負債を作り出しても問題ない。それによって資本市場の評価額が上昇すれば、消費の源泉は確保され、生産性ではなく欲望の刺激力を向上するための投資を際限なく続け、その行為の評価額そのものを上げ続けることが出来るという循環。
経済のサービス化という形で指標上に現れるものがこれだった。裏側で金融サービスが評価対象を求めていくことと同じで、それぞれが求め合ってこうなっている。

サービス化する経済は、大量生産に向かないので、資本にはリスクがある。
このリスクをカバーするために資本市場への分散投資が必要になり不動産に投資が偏るようになる。
全体の生産性はどんどん下がっていくため、政府は自らの役割として、資本市場の下支えを受け入れるようになっていく。
こうなると、「資本主義の延命が政治化」する。
元々は、生産性の高さゆえに「経済が政治を使役」していたのに、生産性が低下していく「経済を政治が使役」するようになっていく。

だから、資本主義は自分自身を延命させるために政治に敗北することになってしまう。
経済は、政治のために存在するもの。政治が自身の公約を実現する道具であり、公約を見える形にするイベントになる。
経済行為ではなくて、公的な形で保証された贈与行為の連続がそこに現れるようになる。

そこには、いわゆる自由市場はなくて、かつて社会主義者があれほど望んで得られなかった計画経済に似た何かが粛々と動き続けることになる。サイレントな社会主義は、やがて自由市場を守るために「望ましくない」ことをどんどん政府の部門化するようになる。

例えば、格差が望ましくなければ全ての失われた機会を公的なサービスで補填するだろう。
それは民間事業者への公募によって最も費用効率が高いとされる方法で選び抜かれた方法で提供されるだろう。
実際には、「望ましくない格差」という形で民意を需要として「仕立て上げていく」技術こそが国家運営の肝になる。
これが完成できれば、もはやマーケティング的な冒険は一切不要だ。

自由市場とは実質的に政府の下請け部門であり、民意を生み出すための扇動こそが資本配分のトリガーになる。
故に、これは政治的な成熟とすらも捉えられる。
今や、私たちは、民衆を扇動する者に悩むギリシャのポリスそのものに住んでいるとも言える。

私たちの付加価値または剰余価値は、官僚制の中で掘り起こされ、定期的に配給される何かになった。