普通の人びとは虚栄心で生きている

岩井克人「資本主義を語る」を読み直していて、最高だなと思ったのが、ここ。

かれが非常に苦労しているのは、近代の社会の根本原理だと思うんです。ホッブズいわく「普通の人びとは虚栄心で生きている」と。虚栄心というのは、自分が他人よりも優越していることで自己満足するような、そういう情念で、またそればかりでなく、自分が優越しているということを他人に証明してもらわないと満足しないという、そういう奇妙な情念であるわけです。 

・・・

それが、ホッブズ批判というかたちであれ、アダム・スミスのような議論にもつながっていたんでしょう。普通の人びとが自由に自分自身の関心だけで生きておれば、それでなんとかうまくいくという、断念にもとづく独自に自由な人間生活への展望が開けた。結局、どうしても人と人の関係を信頼関係できっちりと結ばねばならないとか、理性によってそれをなんとかするんだというほうが、むしろひじょうに恐ろしい結果になるんです。モノの関係にゆだねたほうがうまくいく。

p.144-145

 ここは、人間関係を「モノ化」するということにつながってくる。

「好きなモノ」を媒介項にするのは、人間関係をモノ化できるから好まれる。信頼関係をつくることは無理だという断念がその背後にあるはず。「コミュ障」という言葉と「モノ」への饒舌は、組み合わさって一体となったコミュニケーションの様式を作っている。

近年のコミュニティブームみたいなものは、ずっとある社会主義共産主義的な理想社会へ戻るということとは深層では違う可能性がある。どちらかというと、ホッブズが言うところの「自分が他人よりも優越していること」を示すためのアイテムとして「人間関係・社会関係・コミュニティ」が雑貨の一つとしてお金で買えるものになるということを意味している。

虚栄心の話と、「ブルシット・ジョブ」でグレイバーが指摘しているモラルエンヴィー「道徳羨望」はつながっている。自分より優越した価値を提示していると見える人に対して、攻撃をされていると感じて怒りをぶつける行動が「道徳羨望」。たとえば、意味のあるひとに喜びを与えるような仕事をしている人に対して、さらに良い待遇まで求めるのは思い上がりだ、というような攻撃が出てしまう。

このメカニズムは実は、「良い人すぎる人が疲れてしまう」という構造とも関係がないようだけど、つながっているのかもしれないということに気づいた。

「『ひとりで頑張る自分』を休ませる本」という心理学本に、こんなことが書いてある。

善意でやっているのに、相手は「悪い人」になっていて悪意として受け取ってしまって、「なんでそんなことになるの?」と苦しむことになってしまう。

・・・

確かに、人間関係でも「恒常性」が働いてバランスを取るので、相手には何かしらは伝わっています。

ただし、こちらの善意が相手に伝わってもバランスをとる「恒常性」が働いてしまうから、相手は「悪い人」の役割が自動的に割り振られて、受け止め方が「悪意」に変換されてしまいます。

p.14

ここでは、善意の人に落ち度がないように丁寧に書いてあるけれど、その裏側のメカニズムは、道徳羨望のメカニズムを理解せずに、「優れたこと、優れた言動」をすると、もれなく、相手は「虚栄心」のメカニズムの文脈で無意識に解釈をしてしまい、「私を批判し、私を否定しようとしている」と受け取るということを言っていると思う。

この本では、他人のためにではなく「自分の快」を意識することで、この陥穽から抜けられるということを教える本ですが、これは、ほぼアダム・スミスの解決策と同じでもある。

つまり、いわゆる自己啓発本で説かれるような処世術は、正統に現代の社会に対して、考えられてきたことの基盤の上に乗っかっている。

のだけど、その基盤が回収しきれていない限界や裂け目みたいなものが、どんどん広がっているような気もしている。

たとえば、アダム・スミスから、マルクスへ至る「労働価値説」が背景にしている工業製品をつくっていく産業資本主義は、労働者が作り出すモノの価値を目に見えて実感できたけれども、いまやサービス的な価値は、何が売れるのかはわからず、ひとりあたりの労働の貢献もわからない。そうなると、人間中心で考えられてきた社会とその価値の体系が、うまく生活実感や労働者としての自分の実感と合わなくなって、「私はこの社会で役に立っているのだろうか?」という疑問が生じてくる。

自動車一台をつくることは、そんなに極端に変動しないけれども、あるアニメが売れるかとか、ゲームが売れるかということは、極端に変動するので、「生産性」という概念が成立しずらくなってくる。

ここで、たぶん、求められているのは産業資本主義以前の感覚で、人間の労働というよりは自然が圧倒的な生産力を持って収穫しきれないほどの食糧を供給する、という感覚で、その中で、それほど人間が力を持っていると思わない、それ以外の要因が大きすぎる感覚を取り戻すことなのではと思ったりもする。

それは自然に生かされているとか、自然を守る、自然と一体になるという観点ではなくて、もっと自然に負けていくことが当たり前で、それを悪いことだと思わない感じなのではないだろうか。

ここを徹底することは、産業資本主義とつながっている道徳を解体していくことでもある。つまり、「生産性」で道徳の優劣が決まるという価値体系を解体していかないと、普通の人々の虚栄心の裂け目が閉じないままになってしまう。

これを、うまいこと修復するためにどうしたら良いのか。

答えは、たぶん、人間が社会の中心であり産業の支配者であった時代以前のことを思い出すことなのではないかと思ったりしている。多くのことが説明不能だったときに、人は何を思って生きていたのか。何を気にして、何を気にしていなかったのか。

その先に、資本主義と民主主義と法の支配で構築されてきた社会が、別ものになっていく何かがある。

 

生産性を考えるときに、たとえば、「コメ」を中心とした統治のストーリーを律令国家がとっていたこと。フィクションとして生産力を一律の田の面積で測れるという原則をとることで統治可能性を担保することだった、ことが参考になるのかも。

「生産性」を労働分配率の逆数として定義して個別にはさまざまである人の生活をグリッドのなかに配置することと、「コメ」と「土地」の仮想空間の中で、人々の仕事や生活を配置することを可能とすることと似ている。

それらの指標が指し示す分配と、その背後にある「モノそのもの」とは直接の関係を持っているものではない。その区切り線が、多くの人にとって当たり前であると受け取られるから、もめごとが起きないという臣民にとって支配者をなだめる意味を持ち、統治者からすれば統治の実感が得られる妥協点として存在しているに過ぎない。これは、古来より伝わる「取り分の問題」であるかもしれない。

なぜ、概念の区切り線を入れなければいけないかと言うと、その妥協点が綻ぶと、人が殺し合いをする可能性があるからということがある。そうでないとしても、楽しく生きられない可能性があるなら、何か考えた方が良い。どう区切るのかは恣意的であり、おそらく論理的でもない。

 

「『ひとりで頑張る自分』を休ませる本」のなかに自分の「万能感」を許す、という言い方があって興味深い。これは、「虚栄心」が究極の形で満たされた状態を先取りする、ということでもある。

受動的意識仮説の延長にある自分でき決められない自分の意思の大本にあるもの。その「大いなる何か」である自分が、自分自身を最終的に許すということ。これは神による許しの感覚とも近いものなのかも。