「ひとりで頑張る自分」を休ませる本 は、いい人に向いています

あー、自分よく人からいい人って言われているなーと思う人は読んだ本が良い

いい人やめろと言われてもやめられないし、好きなことしろと言われても何が好きなのかよくわかんないし、人から責められると自分が悪いんだなーと素直に受け取ってしまい「改善が先だからまだまだ私はやりたいことなんてできない」と思う人は、読んだ方が良いです。私が現在進行形で思っています。

もし頭の中で、他人の事が離れずにリピートし続けているのなら、それで相当な量のエネルギーを奪われているかも。このリピートし続ける声がなくなったら、すごくいろんなことが楽になるのでは!と思いました。楽になりたい。

こんなことか書いてあったという抜粋。

自分にとって「苦手な人・嫌な人」は、必ずいます。

でも「いい人」は、「苦手な人、嫌な人」なんて思ってはいけない、という感覚がなんとなくでもあるのです。

「いい人」ですから「みんな心の中には美しいものが流れている」と思っていて「苦手な人、嫌な人」と思ってしまうのは自分の心が歪んでいるから、と勘違いしてしまいます。

なぜそんなことを思ってしまうのかというと、「他の人はあの人のこと苦手じゃないのに、どうして自分だけ苦手なんだろう?と考えてしまうから。

「普通は、苦手な人や嫌な人なんていなくて淡々と生活できているのに、自分はそうじゃないのかも?」と思ってしまう。

だから「いい人」は、「自分がおかしいのでは?」と考えてしまいます。

p.187

「いい人」は嫌いな人の前でも、「嫌い」という態度を出すことができません。なぜなら、「どんな人に対しても、いい人でなければいけない」と思ってしまうから。

「嫌い」という自分の気持ちを無視して「いい人」を演じてしまうため、脳内で矛盾が生じて、そこから発作が起こり「嫌いな人の前で固まる」ということが起こってしまうのです。・・・

・・・それはとても簡単で、「嫌いは嫌い!」という自分の感情を大切にしてあげることなんです。

「どのくらい嫌い?」とちゃんと自分の気持ちを確かめてあげる。

「本当にムカついていて、消えて欲しいほど嫌い!」だったら、そのまま自分の感情を認めてあげる。

それを「仕事だから」「人間関係を大切にしなければ」と、常識で自分の「嫌い」という感情を打ち消さないようにします。

「嫌いは嫌い!」でいい。

それが態度に出たっていい。

もし、「そんなことをしたら申し訳ない」と思ったら、「相手からの嫉妬の発作を浴びているんだ!」と考えましょう。

p.188-189

人からの嫉妬でわかりやすいのは、「悪口」「陰口」「嫌み」、そして「罵倒」などです。

そして、嫉妬だとわかりにくいのが「アドバイス」「注意」「心配」、そして「無視(無反応)」になります。

相手を見ても、嫉妬しているとわかりません。

嫉妬だと判別できる唯一の方法は、相手からの言動を受けて、自分が感じていることをしっかり確かめること。

確かめたときに「私が間違っているかも?」と落ち込んだり、不安になって不快にまみれていたら「嫉妬されているんだ」ということになります。

後になって、「なんであんなこと言われなきゃいけないんだ!?」と怒りが湧いてきますが、言われたその瞬間は「固まってしまって何も言い返せない」という状態に陥って「私が悪いのかも?」と反省してしまう。

これが嫉妬されている証拠です。

なぜなら、嫉妬とは、嫉妬している人の脳内で過剰な電流が発生している状態で、相手の言動とともにその電流が「いい人」の脳内に流れて「感電」した状態になっているから。

そうすると「固まって何も言えない」「自分が悪いのかもしれない」という幼い子どものような精神状態に戻されてしまいます。

そして嫉妬された側の脳内の電流が乱されて、「なんであんなことを言われなきゃいけないんだ!」「やっぱり自分が悪かったのかな?」と怒り反省を行ったり来たりと繰り返してしまうんです。

嫉妬で感電させられて、それを頭の中で繰り返しているうちに「自分中心」ということをいつの間にか見失って、気が付いたら「いい人」に戻ってしまうのです。

人からの嫉妬で簡単にやり過ごす方法は「足の裏の感覚を確かめる」というもの。・・・嫉妬の電流も同じで、嫉妬の発作を起こした空いたから頭に伝わってきますが、その電気を足の裏から地面に流してしまえばいいのです。

相手の話を聞くのではなく、足の裏の感覚に注意を向けると、嫉妬の電気ショックをやり過ごすことができ、「怒りと反省」の行き来の苦しみを味わう必要がなくなります。

・・・「そんなこと言われたってできないよ!」という人は、「嫌なことを言ってくる人」を思い浮かべながら、足の裏に注意を向ける練習を一人でしてみましょう。

「あの人に悪いことをしちゃったのでは?」と思ってしまう相手との会話をイメージした時に、靴の中から地面に足の裏をつけるように、足の裏の感覚を確かめます。

すると「そんなに自分を責めてないかも…」となります。

電車に乗っている時でも「なんか自分が悪いことをしたかな?」と思ったら、電流を流す練習をしてみましょう。

他の場面で嫉妬の発作を起こしている人を目の前にした時でも、電流を地面に流して相手の嫉妬を受け流せば、自分も相手も発作が収まり、「自分中心」に戻ることができます。

これは心理学的に説明したら「系統的脱感作法」になります。(ジョセフ・ウォルピ博士の系統的脱感作法を応用したものです。)

「嫉妬の発作」を受けることでパニックになっていたのを「場面をイメージして足の裏に注意を向けてリラックスする」ということを繰り返して、嫉妬に「リラックス」の条件づけをしていきます。

すると、目の前の人から嫉妬を向けられた時に「足の裏」を意識することで、条件づけられたリラックス効果を発揮して、頭が真っ白にならないで冷静に相手のことがみられる状態になります。

 p.181-p.184

「間違いは認めても、反省しない」

どんなに相手がその場で喜んで感謝しても、「いい人」は後になって「もしかしたら余計なことをしたかも?」と不思議に思ってしまいます。

この「いい人」の自己嫌悪は、ある意味で間違っていません。

なぜならばよかれと思って相手を助けることは、「相手の世界をゆがめている」ことになるから。

実はやらないほうがいいことなのです。

だから、結果的に相手は幸せになることができない。

感謝された時に、相手から本来伝わってくるはずのものがないと「自分が間違ったことをしたのかも?」とその場で自分のしたことを検証してしまうのです。

だから、自己嫌悪に苛まれたら「自分は余計な事をしたんだな!」と潔く認めちゃいましょう。

…ここで大切なことは「余計なことをした」と潔く自分で認めつつ、反省しないことです。

「いい人」は物事の本質を感じられてしまうから、それが相手の幸せにつながっていないことはちゃんと分かってしまう。

p.157-159

「いい人」は「人のために尽くしても人はそれでは幸せにはなれない」ということを理解することが難しいんです。

人に対して「いい人」をやれば「ありがとう」と感謝をされて、その人は幸せになるんじゃないの?と思ってしまいます。

でも実際には、困っている人を助けて貢献しても、「成功したら自分のおかげ」で「失敗したら他人のせい」と捉える人間の性質が悪さをします。

だから、相手は表面的には感謝しますが「自分のおかげ」となってしまう。

「いい人」が良かれと思って助けてしまうと、相手はいつまでたっても成長しないまま、どんどん不幸になっていきます。

p.154

「万能感をコントロールしようとしない」

「いい人」は、自分が万能感を持っているなんて想像もしません。

しかし、「いい人」が、周りの人の気持ちが気になってしまうのは、「周りの人の気持ちを自分がコントロールしなければいけない」と思うからです。

「相手の感情は相手のものだから、他人がコントロールできないもの」という感覚があれば、だれがどんなことを感じようが自分には関係ないわけです。

ところが「いい人」は「あの人が不機嫌なのが気になる」とか「あの人が落ち込んでいるのが目についてしまう」と、人の感情に敏感に反応してしまいます。

そうして、落ち着かなくなるが、「なんとかしなければ!」という万能感につながってしまいます。

さらに言えば「人の気持ちがわかる」という時点でアウトです。

「いい人」は、人の表情、仕草、そして言葉や声のトーンなどから「自分は相手の感情を的確に把握できる」と思ってしまいます。

「自分が相手の感情を的確に把握できている」と感じてしまうところが万能感の幻想なんです。

でも「いい人」が「この人は、こう感じている」と見た目から相手の感情を疑うことなく確信をもってしまうのが、何よりも万能感を持っている証拠なんです。

脳が冷静な状態だったら「自分の感情も自分もコントロールできないし、把握できないのだから、他人なんか無理!」と思えます。

…万能感は、脳にたまったストレスが生み出す感覚なので、自分でコントロールできるものではありません。

そして、今感じている「自分だけ万能感に憑りつかれてみっともない」という感覚自体も、そのストレスで帯電した脳が見せる幻想なんです。

そこから解放されて冷静に周りを見てみると、「あれ?みんな万能感に憑りつかれていて、自分だけじゃないんだ!」ということがわかります。

そして「脳に帯電したストレスによるものだから、万能感自体がコントロールできるものじゃないんだ!」ということを感じられるのです。

「誰も助けてくれない」という状況があったら「自分一人でやるしかない」ということになりますね。

万能感とは、「誰も助けてくれない」という子どもが生き抜くための本能的なもので、コントロールするものではないのです。

その万能感があったおかげで、これまで生き残ってきたともいえますし、だれも助けてくれない孤独に押しつぶされないで努力し続けることができたともいえます。

ただし、それが自分に対してではなくて他人にまで広がると、「いい人」になってしまいます。

そして「いい人」になればなるほど「誰も自分のことをわかってくれないし、本当の意味で助けてくれない」となるから、ますます万能感が必要となり「いい人」がやめられない、という悪循環になってしまうんです。

p.96-99

「万能感は「許す」だけでいい

「いい人」が万能感を持ってしまうのは、ストレスで脳を帯電させてしまうからです。

脳にストレスをためないようにすればいいので「自分を責めない、反省しない」ということができればいいわけです。

でも「いい人」の場合、逆に「自分を責めない、反省しない」ことができない自分を責めて自分をコントロールしようとしてしまいます。

結果として、ストレスになってしまう。

そこで「万能感を許す」という言葉を使います。

…「いい人」は、「いい人」であればあるほど、「恒常性」保つ働きによって「真ん中に戻す」ために万能感が湧いてきてしまう。

謙虚で「いい人」であればあるほど、それを中和させるための万能感がひっそりと存在します。

しかし、傲慢さを含んだ万能感を打ち消そうとしても、それは謙虚さを増すことでもあるので、「恒常性」が働いてしまい、さらに万能感が知らず知らずのうちに増幅してしまいます。

そこで「万能感を許す」という言葉を唱えてみると、傲慢さがある状態が「真ん中」と思えるようになるので、万能感を増やさずに済みます。

…ある女性が友達と話をしていて、友達の仕事がうまくいっていないことを知ってしまいます。

…でも、さきほどおつたえした通り、「かわいそう」と思うこと自体、万能感によるものです。

…なんとかしてほしいと友達が自分に求めているような気がしていて、それを拒否しているような感覚になって、自分が「悪い人」になっている気がしてくるんです。

そんな時に、「なんとかしてあげなければ」と焦っているような感覚になっている自分の中で「万能感を許す」と唱えてみます。

すると、落ち着かなかった気持ちが落ち着いて、友達の話をちゃんと耳を傾けることができます。

唱える前は、友達の話を聞いているようで聞いていませんでした。

「どうしてあげたらいいんだろう?」とか「この子はわたしに何を求めているんだろう?」とぐるぐると考えてばかりだったのです。

ですが、言葉を唱えてからは、友達の話がよく聞こえてきて「なんで私が助けてあげなきゃ、と思っていたんだろう?」と、現実が見えてきます。

「いい人」をやっていた時は万能感で、友達のことを自分と同じ感情を持った人間と認識していなかった、ということがわかってきます。

なぜなら「万能感を許す」と唱えて、その万能感から解放されてみたら、友達も自分と同じ人間で、自分が手を出す必要なんかちっともないってわかるからです。

話を聞いているだけで、相手を尊敬することができて、そして相手は自分の力でちゃんと困難を乗り越えていきます。

p.100-p.103

 「相手の気持ちを、ちょっとでも想像しない」

…問題は「いい人」を本当に無意識で自動的にやってしまうことなんです。

癖のように、いつの間にか「いい人」をやってしまって、人に巻き込まれてしまいます。

一番わかりやすいのは「人に気を遣っているとき」は、確実に「いい人」をやっています。

気を遣っているかどうかはどうやってわかるかというと「あ、この人は怒っているんじゃないか」と相手の気持ちを想像してしまうことです。

ちょっとでも相手の気持ちを想像してしまったら、「相手に気を遣っている」状態になっていて、「いい人」はもう始まっています。

「いい人」になっているかわかりにくいのが、「焦っている」時です。

焦りは、周りの人の気持ちを考えているから「焦り」となるわけですね。

緊張する時もかなり高い確率で「いい人」になっています。

だから、緊張しているのは、「いい人をやっているからなんだ!」と気が付いてみると「いい人」の呪縛が解けます。

「いい人」の言動では「すみません」や「申し訳ない」という言葉が頻発します。「すみません」と言ったら「いい人をやっているんだ!」という気づきになり、自動的に「いい人」から解放されていきます。

p105-106