ほぼ日上場で思い出した本「日常に侵入する自己啓発」 ほぼ日手帳は新しい自己啓発じゃねという本

 ほぼ日上場で思い出したのが、2015年に一番興奮した本「日常に侵入する自己啓発」(牧野智知)という本だった。なぜかというと、この本の中で「ほぼ日手帳」を従来の手帳があまりにも「自己啓発」のために使われ過ぎていたことへのカウンターとして構想されたと指摘していたから。夢へのスケジュール手帳から、もっと自由な手帳を目指したい、でもその「ほぼ日手帳」の試みも最終的にはもっと精密な自己コントロールを目指した新しい自己啓発になっているのではないか、ということも書いてある本でした。

 今や売上30億円超だから、こういう社会学系分析も実は、深層心理マーケティング分析になっているような気がして、ほぼ日関係の記述を中心に紹介します。

 さて、この本での「ほぼ日手帳」分析は、以下のような自己啓発のカウンターとして構想されながらも、結局、管理された「自由」によって自分を何かに構成していこうとするもの。より精密で権力のように全然見えないのだけど、権力のような何かなのでは、という指摘になっています。

 「ほぼ日手帳」とは何か。2005年に刊行されたガイドブックの糸井重里の語るコンセプト。

「なんでもない日、おめでとう

ただの一日も、なんにもなかった一日も、二度とこない、かけがえのない一日。一年三六五日、三六五の特別な一日。(中略)なにを書いても、書かなくても、なんでもない一日を特別な一日にする。自分が主人公になる手帳。それが、ほぼ日手帳です。」 (p.195)

 この「自分が主人公」になるというのが重要で、これは、つまり、糸井重里は新しい「自己啓発」なんでもない日おめでとう、を創設したのではないか、ということでもある。*1

ほぼ日手帳」は先回りして設計された「自由」によって構成されている・・・自由に楽しく、かけがえのない今ここを大事にし、名づけようのない時間に網を張ろうとする手帳(術)こそ、より細密な水準で、人々の時間感覚に影響を与えるものだと考えられないだろうか。(P.198-200)

 つまり、「かけがえのない私」の特別なストーリーを、手帳という網によって、より確実に完全にすくいとろうとする。自分らしさを知ることが幸せな人生をつかむことの唯一のカギだからだ。

 その例証として、以下のような糸井の発言が引用されています。

「人が、ひとりでいるときには、もっとこう、ぼんやりとした、なんでもない、名前もつかないような時間があるものだ。(中略)そういう、名づけようのない時間を、名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だと思うんです。そして、ある日、そういう中に、ぽこん、と泡みたいに、ことばとして生まれちゃうものがある。そのことばを書き留められるものとして、<ほぼ日手帳>が役に立ったらいいなぁ、と思う。(中略)だから、名づけようのない不定形のものをすくい上げる、いちばん目の粗い網として、ぼくにとっての<ほぼ日手帳>はあります。(P.198)

 この独特の文体によって見えにくくなっているが、重要なのは、「名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だ」という言い切りにあると思うんです。「と思うんです。」と言うと、断定していることが分かりにくくなるのだな、と勉強になった。

 さて、この主張は2017年の現在、どうなっているのか、ほぼ日のサイトで確認してみると、

 ほぼ日手帳が主役なのではなく、「わたしが主人公です」ということを、わかってもらえるようになって、作っているぼくたちもうれしいです。

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 以前として、中心となる「わたしが主人公」はブレていないことが分かる。「自分らしさ」という言葉と「わたしが主人公」は似ているけど、違っていて、ここに糸井が年間で30億を生み出した力があると思うのです。

 「自分らしさ」という言葉には、「らしさがある人/らしさがない人」という暗黙の二分法があって、「ある人偉い」という含みがすでにある。だけど「わたしが主人公」には、もはや「自分らしさがない」という前提は全くなくて、必ず自分が主人公であるべきだ、という強烈な断定がある。だから、糸井は突然に、名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だ」とするし「言葉がぽこんと生まれちゃう」と受動的に、あたかも望まない妊娠みたいな言い方をする。

 ここには、「自分らしさ」を追求するのは疲れちゃうし厭だけど、でも、すべての人は逃れようもなく「わたし」を背負っていて、そこから定期的に「生まれちゃう」何かと向き合わなくてはいけないのだという、何か罪のようなうっすらとした意識が出てきている。跳躍がそこにはあって、「自分らしさ」を「獲得」するための成長のストーリーではなくて、自分のかけがえのなさをそのまま「作品」として受容しようとする転換がここにはある。わたしの「卓越性」や「独自性」はもはや問題ではなくて、絶対的な「比較不可能性」の現出こそが期待されている。あたかもアート作品のような唯一性が宿るだろうことが期待されているし、それを自分自身が読み込んでいけるから需要されているのだと思う。

 不思議なのは、本当に「自分が主人公」であるのなら、そのことを殊更に確認する必要があるのだろうかということだ。「わたしが主人公であるか/そうでないか」が、この新しい設定では問われている。「主人公である」ためには、手帳が装置として必要で、確認手段は、「ぽこんと出てくることば」なのだ。

 だから主人公でない人、ダメとされる人は、「ぽこんと生まれてくる」わたしの声を無視している人。わたしの子供であり、わたしそのものである大切なものを捨てている無自覚な人だ。つまり、無自覚な人は哀れむべき人である。だから、結局ここでは「自分らしさ偉い」のかわりに、「わたし自身を無視している人哀れ」で、「わたしを主人公にしている人は、それで、ようやく一人前」という区別を一段階下に引いていく戦略がある。

これがわたしの「いのち」です。This is my LIFE.
人生、暮らし、いのち。いのち、暮らし、人生。
どれもみんな含んでいるのが「LIFE」。
これが、わたしです、わたしそのものです。
This is my LIFE. 「LIFEのBOOK」ほぼ日手帳

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  そして、自己啓発は、ついに「他者」に開かれようとているらしい。「他者」と「わたしとは何か」を通じて、分かり合うという次のフェーズが開かれるのかもしれないです。自己の信仰告白合戦こそが、次世代の自己啓発なのかも。

 最近だと、手帳をひとりで使うだけじゃなくて、
家族のコミュニケーションに使う人もいますよね。
SNSで手帳を見せ合ったりしているのも、
なんだか、外に広がっている感じがします。
世界に目をやると、ほぼ日手帳を使って、
よその国の人どうしがつながったりもしていますし。

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*1:余談だけど、なんでもない日おめでとうと同時に「丁寧な暮らし」の松浦弥太郎や、その前段の「暮らしの手帖」が生み出す暮らし賛美文化がある。そして、「日常に侵入する自己啓発」の中では、コンマリの「人生がときめく片付けの魔法」が先端の後継者として紹介される。