良く眠れるタイプの人は、睡眠時間の確保よりも、覚醒時間を確保した方が良いという思いつき

 良く眠れるタイプの人は、睡眠時間の確保よりも、覚醒時間を確保した方が良いのではないかということを思い付きました。

 科学的根拠はありません。

 睡眠時間の適正時間は個人差がありすぎて良くわからない、ということはあるらしいです。そこで、最近結構たくさん寝たな、と感じた時にあえて寝ないようにすると、逆にストレスが減ったり身体の健康に繋がったりするのではということを思いつきました。

 個人的には、不安なことがありすぎて眠れない、という経験があまりなく。(ごく稀にあるが、目が覚めたとしても、すぐに寝る。)これは、つまり、不安があってもそれが処理されないということがあるのではと疑っています。

 眠れば不安も処理される、というのは片側だけの真実なのでは、という直感。

 起きて、好きな音楽聞いてイエーイみたいなことが、実は必要なのでは。

 きっと寝過ぎないタイプの人は、そういうことをして過ごしているのですよね。私はすぐに寝ていたが、きっと意図的に寝なければ、もっと楽しい可能性があるのでは!!

 やってないからわからないのだけど、徹夜で麻雀するみたいな習慣とか楽しいからやっているのですよね、きっと。世の中的には、これは普通のことなのでは。私は知らないで過ごしていたが。寝過ぎる人がその習慣を身につけてないだけで、平均的には夜更かしは思わずしすぎてしまうものなのでしょうか。眠いから夜更かししてでも何かするという感覚が全くない。

 だんだん、自分の感覚が疑わしくなって怖くなってきたけど、きっともっとみんな夜にだらだらしているのだろう。こんなにきっちり寝ていたりしないのだろうと思えてきました。どうしよう。これが真実だったら、眠いけど我慢して何かしないといけないという謎の使命感が出てきてしまう。

話す言葉が揃ってしまっていたこと

ふと突然facebookのタイムラインを見て、みんながいろいろなことを書いているなーと思って、コロナで自粛ですよと言われていた時期にタイムラインが同じような言葉で揃ってしまっていた時期のことを思い出した。

揃ってしまうということが、時々、SNSがあってもなくても起きる、過剰同期しているなと思う瞬間が印象に残ることがある。

タータンチェックのマフラーが異様に流行っていた90年代に、街中で同じ柄のマフラーが溢れていた時のことをいま、思い出した。

後、映画館で並んでいる人たちがびっくりするくらい茶色または黒色の服を着ている人たちで、自分もそんな感じの格好なので、うわってなったとか、あ、今すごい揃ったなー、みたいな瞬間がある。

違いがなくなる瞬間ってあるなあということを思い出した、というだけの投稿。

イノベーションが解決策なのかどうかがわからない

「長い20世紀」を読むと、成長をイノベーションが生み出しているというよりは、権力や戦争・パワーに対する盲目的な投資がきっかけになって伸びている気もする。

お金を持っている人は保守的なので大胆すぎる行動指針を作れない。それが作れるのは権力を志向する人だけだから、圧倒的な力の差で敗北してきた人たちが、窮鼠猫をかむ的な馬鹿力で追い込まれてようやく本気出す的なところがある。あるいはキリスト教を絶対に布教するぞという妄信とか。

イノベーションといえば自由なアイデアという感じがあるけど、本当は結構追い込まれないと本気は出せないものなのではないか。というか、イノベーションは目的ではなく、何かを解決するためにイノベーションっぽい何かが間に合わせの解決策として出てくるだけなので、つまりは、追い込まれている状況が何かないと行動は生み出されない。

行動を生み出すのは狂気の信念か、死ぬかもしれないという狂おしい予測、つまりは死の予感。生きる予測しかないところには何もないということなのか。

 

投資的に意味がありそうなのは、規制が強化されない国で自由に研究と投資をできる大企業が良いのでは。アメリカとかヨーロッパとか日本は規制強くなりそう。

長い20世紀を読んだ

長い20世紀」を読んだ。

下の図が書いてあることの大枠で、資本主義にはそれぞれの時代の覇権を握る主役となる国や地域がある。この覇権が移り変わる時に同じような現象が起きる。没落し始めた旧覇権地域では、金融が優位になる。有望な投資先が国内になくなるので、新覇権地域へ投資するために資本は貨幣に替えられる。そして、その貨幣を新覇権地域へ投資する。
一方で、旧覇権地域では産業への投資が行われなくなり、金融業務だけが残るので雇用はどんどんなくなり、労働者は仕事を失うようになる。これが毎回繰り返される。
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覇権国は必ず、没落するのがシステム的に決定されている。
なぜなら、資本主義は必ず利益率をどこかで耐え難いまでに低下させる。競争がある限り利益率は下がる。もし利益率を維持するのであれば、独占的な状態を作り出して産業の成長を止める必要がある。どちらの道を取っても、前者の場合は利益がないために資本主義は行き詰まり、後者の場合では成長がストップするので資本の行き場はなくなり資本主義は行き詰る。
この状態まで到達すると、必ず行き詰った旧覇権国の周辺地域が有利になる。周辺地域は覇権国よりも成長率が高い、故に資本の投資先として有望である。そのため、覇権国の資本は必ず新覇権国へ引き寄せられる。
旧覇権国は必ず、この流れを止めるために金融的に新覇権国を支配して一時的に最大級の栄光を手にする。が、この状態は続かない。
前の時代に支配する方法として有効であったことが弱点に変わる。イギリスの帝国主義的支配は全世界に圧倒的な平和をもたらしたが、それは自由貿易の押しつけとセットであり、自由貿易の中心点がイギリスとなる場合だけを容認する体制だった。
一方でアメリカは、自由貿易は推進しておらず、あくまでも自国領土内に完結する巨大市場を持つことが最大のアドバンテージだった。アメリカは自国を巨大な植民地として内部化した。反帝国主義的で、反自由貿易的であることがその力の源泉だった。
全世界へ広がる交易とその交易に携わる無数の家族主義的な中小イギリス企業間の果てしない自由競争ではなく、制限された貿易体制とあくまで企業にとっての経済圏内での垂直な統合による官僚的な大企業による内部コストの徹底的な削減がアメリカの強みだった。
アメリカの本質は、世界経済の統合ではなく、世界経済のできる限りのアメリカへの内部化であり、その大企業的な組織支配体制へ組み込めるものを増やしていくことが、大切な方向性だった。アメリカは巨大ではあるが都市国家的であるとも言える。
この先は読んだ感想
もし、覇権が移り変わるとしたら、パターンが今まで同じであれば、それはイギリスやジェノバ(とスペインの帝国主義)の様相を持ったより「帝国主義」を志向する国家・地域になるだろうと言える。
世界のあらゆるところに植民的な土地を持ち、実効支配できる武力を配置することで、アメリカの支配力を無効化できるような戦い方をできる国家・地域が生まれるかもしれない。その新覇権者は、「アメリカの支配を打破し"自由貿易"を実現すること」を、錦の御旗として世界を正義の戦いへ動員しようとするだろう・・・。
旧覇権国であるアメリカとヨーロッパは、この傾向を食い止めるために、SDGsとか地球温暖化とか社会主義(ベーシックインカム)とかの改良主義的なスローガンを繰り返すことができる。または製造業の自国回帰とか、個人情報保護とかを謳うことができる。
けれども、これは大局を覆すには至らない、というか基本的に規制強化の方向性になるので、「自由」という大義帝国主義の並び立っている世界観に勝てないような気がする。
規制強化が続くと、より自由な交易、より自由な企業が集積する地域の魅力が、世界中から人と資金を惹きつけるようになる。それは同時に、地球温暖化を阻止することを諦めることとセットになっている可能性もあり、人類の危機vs自由の戦いみたいになる。でも、この自由は人権や政治の自由ではなくて、経済活動に対する規制がないというだけだけど。

脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのかを読んだら、学習モデルのことが書いてあってすごく納得した。人間の行動は三種類しかなくて、

  1. フィードバック 昆虫・反射・単純行動・即物的
  2. フィードバック誤差学習による逆モデルの獲得 試行錯誤的・がむしゃら
  3. 順モデルを使ったイメージトレーニングによる逆モデルの獲得 イメージトレーニング・運動イメージ・思考、思惟的

 の3つだけ、というのが衝撃を受けた。

 逆モデルの獲得は「転びながら学習する」というもので、一回一回スキーとか自転車で転びながら、どうすると転ぶのかの予測モデルを自分の中に作っていく。

 順モデルを使うのは、実際にやらなくてもビデオとかを見ながらプロの動きを脳内に作って、スキーに行かないで会社の階段で練習をし続けたら、本番二日でいきなりうまくなるみたいなこと。「こうしたらこうなる」を思考でシミュレーションして学ぶこと。

 当たり前といえば当たり前だけど、よくある学習プログラムはどちらかしかやっていないから、両方やれば良くなるよ、ということを言っているのだなということがわかった。あと、結局入り方は別だとしても逆モデルをつくることでしかないからすごいシンプルだ。これができているかできていないかで学習効果も推定できる!

 この本の趣旨は、「心の地動説」と呼ばれているもので、これも非常に良い。

 私が、意識を用いてすべての自分の決定をコントロールしている、というように「天動説」で考えるとつじつまが合わないが、無数の無意識的な「こびと」の意思決定をすでに決定された時点で意識が受け取っているだけで、なにも決定できてはいないと考えるとつじつまが合うという内容。

 なぜ、そういう仕組みになっているか。エピソード記憶を保持するために、意識が必要だったからではないか、というのが仮説。もしエピソード記憶がないと、すでに餌をとりに行った場所にまた行ってしまったり、「夕食はもう食べた、 とか、昨日の獲物は穴においてあるとか、一週間前に自分の子どもが生まれたとか、去年の夏に家を建てた」といったエピソードがないと、「腹が減ったら食事をし、残した食べ物のことは忘れる場当たり的な行動しかできない。極度な痴呆状態だと考えれば良い。実際、下等な哺乳類は、なんらかの「意味記憶」は持つが「エピソード記憶」を持たないためにこのような生活をしているように見える。」ということらしい。

 そして、このエピソードも全部記憶してしまうと、役に立たないので、重要そうなものだけ抜き出して記憶しておくようにできている。この抜き出すということも無意識に行われていて、こうして整理・圧縮されているものをつながりとして認識しているのが「意識」だということになる。

 だから、意識は、常に前処理が全部終わった状態で物事を川下で眺めている状態にある。

 ということをふまえて、前野さんといえば幸福学だなと思い、Web記事を改めて読んだら、とても面白い。あ、そういう前提があるからこうなるのか!となって、結論だけ読んでも当たり前のことのような気がしていたことがそうでもない。

ただ、日本の画一化社会というか、偏差値社会、戦後の教育では、成績が良ければ偉い、いい大学行っていれば偉い、というように、人の強みを一つの軸で測りすぎていたと思うんです。だからありのままに自分らしく、あるいは自分の強みを見つけるという時に、成績のような一つの評価に偏りすぎていたと思います。

アメリカに行ってみるとわかるんですけど、どんな仕事をしている人も生き生き働いているんですよね。別に医者が偉いとか、経営者が偉いじゃなくて、ガソリンスタンドで働いている人も、「これは大事な仕事だぜ!」って自信を持っているわけですね。

 そういう風に、やっぱりもっと多様なものを認め合って、画一的な評価軸じゃなくて、ホスピタリティがすごいとか、誠実さがすごいとか、あるいはガソリンの入れ方がかっこいいとか、いろんな強みがあっていいと思います。それをもっと認め合って、ありのままになる社会になっていくと、その4つの因子を皆が満たすということができていくのだと思います。

 https://kikigotae.com/t_maeno/#outline__1_2

 この話は、エリック・フォッファーの「波止場日記」を読んでいるとすごく感じる。全然気にしていないので、それがすごく心地よいし安心する。このままではダメだという追い込みがすごく自分にかかっていた。

 そして、「心」がなぜ作られているのかともつながってくる。そもそも意識は、主体的に何かを決められないから、そこに力を入れて、「これをやらなければ!」となりすぎると、無理が生じて生産性が下がるのだろう。

1つ目は自己実現ですよね。発明したら、ものすごい自己実現じゃないですか。それから今イノベーションは協力して皆で、多様な人が集まると良いアイディアが出ると言われているので、2つ目の繋がりが多様であるのはいいですよね。3つ目のなんとかなる、もまさにイノベーション。リスクを取ってやることですからね。みんなが、ダメかもしれない、やめとけよ、ダメだよ、と言うのに、そこで一歩出てやるわけですから。4つめは、ありのままに、自分らしく、ですから、これが今、日本人に欠けているところですよね。全く新しいことをやること。

以上のことに、ある時気づいたんです、あれ、幸せの研究とイノベーションの研究、別にやっていたつもりだったのに、実はいっしょじゃないか、と。しかも、アメリカの研究で、幸せな社員は不幸せな社員よりも創造性が3倍高いという、強烈な研究結果があるわけですよ。ということは幸せになっておくと、創造性が3倍、アイディアが3倍出てきて、まさにイノベーションを起こせるということじゃないですか。ですから実は幸せとイノベーションは物凄く関係している。イノベーティブな経営をしようと思うなら、まさに幸福学をやらなきゃいけないということですよ。

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 というところまできて、ようやく、 「ありのままに、自分らしく」を追求できる環境をどんどん提供することに可能性がありそうな感じがしてきた。これを追求し続ければ相当良いのではないか。

 ただ、この「ありのままに、自分らしく」というのが難しく、順モデル的なものが自分の中にあって、そこから「自分らしく」を学習するということが構造的にできない、のを正しく理解する必要がありそう。ここをマニュアル化しきることができるかが次のポイントで、徹底的にマニュアル化できれば、生産性が爆上がりするポイントを発見できるかもしれない。

 そこで、「自分らしい」から離れてしまうとは何かを考えると「自己意識」の成り立ちが大事そうな感じがする。

まず、受動的な「私」(意識)の中の「自己意識」の成り立ちについて考えてみよう。「私」は、エピソード記憶をするための必然性から、心の中に生まれた機能なのだった。ということは、当然、「私」の一部である「自己意識」も、エピソード記憶ができるようになってからできあがったものだと考えるべきだ。

・・・「私」がやったこととして感じる「意識」という機能を持つようになった動物には、おまけがついてくる。すなわち、そうしていること自体、つまり、『「私」がやったこととしていま感じているこの状態』についての意味記憶を持つようになれるのだ。あらゆる機能に意味があるので、機能が生じた以上、当然、それについての意味記憶ができるようになると考えるのが自然だ。これが、「自己意識」という概念についての意味記憶だ。意味記憶は内部モデルのうような形で脳の中に記憶されているのだから、「自己意識」とは何か、を考えるときには、「自己意識」の意味記憶が「知」に読みだされて小人たちによって思考され、その結果が「意識」に届けられるわけだ。

p.116

  ここの部分がいわゆる「自己肯定感」みたいなことにつながっている感じがする。知の判断をしている部分で、「これはダメ」という判定をし続けると、ガックリきてしまうということなのではないか。

p.30にある図

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敵とのコラボレーション

敵とのコラボレーションに書いてあるのは以下の画像でまとまってるのでメモ。
力を使いすぎても、愛を使いすぎても良くない。これを交互にもちいる必要がある。コラボレーションだけ重視していても組織は悪くなっていく。
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ヘーゲルの課題・エリック フォッファー・森博嗣 欲望とは。

ヘーゲルが提出した、人間は他者の欲望を欲望するようになる、だから社会に繋がるようになる、という命題は、「欲望」のところがとても難しいという地点に現代では差し掛かっているように思う。

「欲望」は、「購買」とはちょっと違う。「購買」は、潜在的に困っていることをどこまでもマーケティングで探り出して、そこを刺激していくような在り方なので、実は本人の欲望には答えてくれない。

「欲望」は、本人にもよく分からずましてや他人にはもっとわからない、非常にどこにあるのか分かりにくいものなので、自分の欲望がわかる、だけでも大進歩で森博嗣はそのことだけをずっと書いている。

エリック フォッファーは、その真ん中にいるような感じがする。

他者に見せるための欲望を厳しく否定しながら、そこで他者と繋がるための回路を探そうとしているところが、まだ煮詰まっていない感じで面白い。他人との比較で栄達するような働き方を否定しきっているのは素晴らしい。これは、そこまで割り切れなかったので、とても気持ちが楽になり、かつ、自分を厳しく否定していたポイントだったのだなと気づく。栄達を目指さないことは社会の否定なのではないか、と悩んでいたのだが、これをすっぱりと否定できれば、自分も他人も容認できる。なぜなら、小さな自分の欲望に気づき、それが良いと認めるだけでそれ以上ののぞみは社会にはないし、これが現時点における最高な状態だからだ。

ここから、先に、「自分の欲望の開放」欲望を認め合うに社会はフェーズとして移行するけど、それは、かつての60年代的な「開放」ドラッグだーフリーセックスだーみたいな感じではない。本人にもなぜなのか理解ができない、だからこそ、安らぐと言う性質の欲望であり、その承認なので、それは大掛かりな消費の仕組みすらもいらないものになっていく。

これは、その先でさらなる変化をもたらすだろうけれども、現時点で考え得る未来の進化の形としては妥当で、これをまずどう達成するかが次の目標になる。