人間的自由の条件 読んだ

人間的自由の条件」読んだ。ポストモダンとかマルクス主義に対する批判としてはとてもよくできていて、関心した!フーコーのここがダメ、とかとてもよかった。

なのだけど、読後感としては不安が残る・・・。

そこで、調べていたらそこは問題点としては残るんだなーと。

もう1つの観点はこうです。社会がどれだけ「自由の相互承認」を充実させても、僕たち自身が自由を感じられないことがある。つまり自由のための「実存的条件」が整っていない、と。

 

 現代はそういう時代ですよね。僕たちは、政治的自由とか生き方の自由はまがりなりにもあるわけです。でも、今の若い人たちは、むしろ自由だからしんどいんですよ。

 つまり、何でも自由にしていいよっていわれると、どうやって生きていったらいいか、かえってわからなくなってしまうんですね。あるいは自由競争社会の中にバーンと投げ入れられて、「はい、自由だよ自由だよ」って言われて、序列をつけられて苦しい思いをすることもある。だから、今の僕たちの世代以下ぐらいは、自由であるということが苦しいんですね。それで、自由への疑念がすごく生まれているわけです。

 

 でも、それでもなお、みんな自由に生きたいと思ってるんだったら、それを可能にする社会を作る必要があるっていうのが僕の考えです。そして、どういう「実存的条件」を整えれば、僕らは自由になれるのかを考える必要がある。

http://timesphilosophy.blogspot.com/2014/08/blog-post_52.html

自由の実存的条件のために、自身の欲望を変えることもできるようになっていくという話がこの後にあるけど、一方で欲望が見えないということもある。

ただもう1点、近代人ルソーには、たぶんあんまり見えてなかったことがある。

 それは、僕たち現代人は、欲望と能力のギャップだけじゃなく、そもそも自分の欲望がわからないっていう不幸を抱えてるということです。

 若者は特に、何をしたらいいのかわからないということが多い。欲望がわからないという不自由を、僕らは多かれ少なかれ抱えてしまいますよね。じゃあこれはどうしたらいいか。

 

 竹田先生はよく、世界は欲望の網の目だって言うんですね。すごくおもしろいですよね。世界っていうのは、ありのままに、無色透明に存在してるんじゃなくて、僕たちの欲望に応じて、なにがしかの意味を持って存在するんですよ。

 

 たとえば、僕の話でいうと、早稲田大学の大学生だったときと、大学教員になってから見える高田馬場の町の景色は、全然違うんですよ。大学生のときは、500円の定食屋しか見えない。ところが教員になったら、800円の定食屋が見えるんですよ。

 

会場: (笑)

 

苫野: 世界は欲望の網の目なんですね。で、何をやりたいかわからないってときは、この欲望の網の目が極めて荒いんです。だから何も引っかかってこないんですよ。世界に意味が引っかかってこない。

 ってことは、この欲望の網の目を、しっかり編んでいって、いろんな引っかかりを作っていけばいい。

 

 それはどうしたらできるか。本にはいくつか書いたんですが、1つだけいうと、僕はよく、何をしたらいいかわからないっていう学生には、「キッチンの掃除をするといいよ」っていうんですよね。

 

 これ、意外に本質的だと思うんです。つまり、目に見えて成果がすぐに現れることを繰り返しやっていると、世界に自分が関わっている感じが出てくるんですよ。俺の人生意味がある、みたいな。特にウツの時とかいいんですよね。三角コーナーの掃除とか。そうすると、「大丈夫、俺、ちゃんと世界に意味を与えてる」みたいなふうになっていって。徐々に徐々に、世界にいろんな意味が結ばれてくるっていうことがあったりする。「やりたいこと」が分からなくて、ウツで、っていう方がいれば、だまされたと思って試してみてください(笑)

 

 これが自由になるための実存的条件。もう1回いうと、欲望の中心点を結ぶということ。そしてそれがつら過ぎたら、それを変えるということ。これは自由の大きな条件かなというふうに思います。

http://timesphilosophy.blogspot.com/2014/08/blog-post_27.html

 ということで、こうなってきてしまうと、自由の苦痛の中でどう生き抜くか、ということになってしまって、やっぱり人は自由から逃げ出してしまうのではないか、とも思ってしまう・・・。もっと画一的で強権的なものに憧れてしまうのでは・・・。

と、考えるとなんだかつらい・・・。