人間的自由の条件 他者の欲望と普遍的承認ゲーム

人間的自由の条件を抜き書き。

 

p.126-130「3 近代の人間の本質─「他者の欲望」と「普遍的承認ゲーム」」

 ヘーゲルは『精神現象学』の全展開を支える土台として、人間存在の本質をその「欲望」の独自性において捉えるという出発点を置いた。人間の意識は「自己意識」だが、自己意識が存在するためには、欲望が「非自然的な対象」「所与の実在を超えた何物か」に向かう必要がある。そしてこの「実在するものを超える」何かとは、じつは「欲望」それ自身、つまり「他者の欲望」以外ではない。人間の欲望は自然対象から離れて「自己自身の自由」をめがけるが、この欲望を保証しうるものは「他者」だけである。人は「他者の承認」を介してしか「自己意識」の欲望を実現することはできないからだ。この事情は、また、人間の「欲望」の対象をも本質的に規定する。すなわち人間は自己自身のありようを「他者の欲するところのもの」へと向けようとする。このことが人間存在の根底的な基礎であるかぎり、人間社会は、「欲望として相互に欲し合う欲望の全体となって初めて人間的」なものとなる。社会とは、そのような欲望の多様性の場面であり、したがって単に欲望が存在するだけでは足りず、各自の欲望が相互に他に向かうという関係の場面を構築する。それが人間存在についてのヘーゲルの基本理論である、とコジェーヴは主張する。

(略)「人間の欲望は他者の欲望である」

(略)例えば、男女間の関係においても、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないなら、また相手の欲望を欲望として捉え、この欲望を「占有」し、「同化」したいと望むのではないならば、すなわち、相互に「欲せられ」、「愛される」こと、或いはまた自己の人間的な価値、個人としての実在において「承認」されることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない。

愛し、愛されるとは、相手の存在(エロス的対象であろうと、自分を保護し気遣う庇護者としてであろうと)を単に「わがもの」とする我有の欲望ではない。それはいわば、自己の内に理想化された「相手という幻想」を見出した上で、互いに他の欲望対象たろうとすることだからである。つまり、愛するとは、他者を我有することではなく、「自己を愛するものとしての他者」を確認することであり、愛されるとは、「他者の欲望の対象としての自己」を確認することだからである。したがって、「承認」の欲望とは、単に自己の「存在」の承認要求なのではなく、「自己価値」の承認要求を意味する。

(略)人間の欲望の一切が、「自己価値」をぐる他者との承認関係を、その起源ともまた本質ともしているということ、これがコジェーヴヘーゲルの自己意識論からつかみ出している欲望本質論の核心点なのである。

(略)人間の欲望が「他者の欲望」であるという形で関係的な本質をもつというヘーゲルの原理は、むしろ、人間存在は「他者との関係なしにありえない」といった観念の無効性を告げるものである。

これは、すごい、つまり「価値観の多様性」というものそのものがない、ということでもある。すべてのありとあらゆる「他者の欲望を欲望したい」という拡張の欲望としての「多様性」はあるけれども、自然状態としての「多様性」があるわけではない。

それは、「多様化しうる」ものではあるけど、価値観としては単一で、他者の承認を得たいということに尽きる。

人間はまずさまざまな「物」を欲しその上で「他者」(の承認)をも欲する、というのではない。逆であって、人間の「物欲」一般が、そもそも他者との関係的欲望を起源として構成されている。動物は衝動によって自然物を欲するけれど、「物一般」を欲望することはない。さまざまな「物」への欲望は、すでに「自己承認」の欲望を経由した人間固有の欲望である。

(略)「主体」が「主体」でありうるのは、一般に言われるように「真なるもの」「絶対的なもの」(=絶対者)としての「実体」が「主体」を包括しているからではなく、むしろ「主体」が求めるものが「根源的否定性」であることによってである。われわれの「欲望の対象」が「何ものでもないこと」「否定性」それ自身であり、「無」であること、まさしくそのことが人間の「欲望」を人間的「欲望」たらしめている。

 人間の生成をもたらすものであるためには、欲望は、或る存在しないもの、つまりは他者の欲望、他者の渇望する空虚、他者の自我に向かわなければならない。なぜならば、欲望存在欠如だからである(略)。すなわち、存在の只中で無化する無であり、存在する存在ではないからである。(『ヘーゲル読解入門』)

人間はを服せしめるためではなく(物に向かう)他者の欲望を服せしめるべく行動しなければならない。(略)それは─結局は─他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これはそのような承認(Anerkennung)を求める欲望にほかならない。

 ここは、ソーシャルメディアにおける「マウンティング合戦」のことを指していますね。というか社会のすべてが「マウンティング合戦」で構成されていて、すべての行動は「マウンティング」に奉仕するために結果的に作られていくということを言っている。ただマウンティングは、「ただ自分を承認してほしい」という一方的な思いでしかないけれど、人はそこから次の世界に移動する。

他者がいる世界、他者と何かを合意する社会へ。

人間の「欲望」の本質が、特定の自然的対象をもつものではなく、ただ他者関係における「自己価値の承認」の欲望であること、このことを初発の原理として社会理論を展開すれば、つぎのような諸点が帰結することになる。

 

(1)人間は「主体」(無意識的な)としては、つねに「他者」による自己の承認を欲求していること。

(2)この欲求は、より自覚的には「自己価値」への欲望となり、それは直接的な「愛情欲求」ではなく、自己価値の「承認」をめぐる諸欲望を形成すること。

(3)人間の欲望は、したがって「他者」が一般的にその価値を認め、それを欲望するものに自己自身が一致することをめがける。この欲望の関係は相互的であり、したがって、人間の欲望は実在的なものではなく、「社会関係」が一般価値として承認しているもの、に定位される。

(4)こうして最後の帰結としては、人間の欲望の諸関係は、人間社会を一つの独自の構造として定位する。すなわちそれは、人間社会を「普遍的承認ゲーム」(相剋的ゲーム)という構造的本質として形成する。

(略)ルソーの「社会契約」の概念は、単に近代社会は自由な個々人による「契約」を基礎とする社会である、ということを意味するのではなく、むしろ太古以来、「社会」(つまり、その集合的権威、権力、支配)の本質がそのような「普遍的承認ゲーム」として存在してきたことについての近代的発見自覚を示唆するものなのである。

 

(1)人間社会を「普遍的な欲望承認のゲーム」として措定することによって、近代社会における人間存在の本質を、「自己を社会へと関係づける存在」として定義づけることができる。

(2)この定義によって、近代の人間の自己意識(=思想)の進展を、自己と社会との関係的本質についての自覚のプロセスとして描くことができること。またこのことによって近代とは、人間がさまざまな幻想的な「超越項」を取り払って、自らの存在本質それ自体を了解していくプロセスの展開として定義されること。