周りから何をした人として記憶されたいかとかを考えたいか

何かで「周りから何をした人として記憶されたいか」みたいなことを自分に問うて、あり方を見直すみたいな話を読んで、全然できないわ、と思ったので、その衝撃をここに書いておこう。意味はぜんぜんないんだけど。

 

まず、文章の一部で言うと「記憶されたいか」というところをじっくり考えると「記憶されたくない」かもしれない。まず記憶されることのメリットがない、と妻からも言われて、それもそうだなと思ったし、記憶されるとなんか恥ずかしいというのもある。ほぼほぼ多くの人にとっては存在しなかったものとして生きていくのも良いのではないか。なんかいたな、ぐらいの。すごいなと思われるのも毎回頑張らないといけないので何かいやだし、かと言ってすごくないなと思われても努力を要求されそうなので、まったく何も思われないのがベストだろう。ただ難しいのは、「何もしない」と目立ってしまうので、だめで、そこそこに何かをしていて満足感すら提供していかないとダメなところ。満足感があれば、透明な景色として社会の一部なんだなーこの人はと思ってもらえてほぼ背景的な感じで、モブの一部としてうごめいていける。没個性というわけでもなく、個性的っすねーというわけでもない、本当になんでもないな、というポイントを狙っていく必要がある。そこに最大限フォーカスして努力を重ねることで他人の中での私の記憶は薄らぐはずだ。どちらかの領域にはみ出してしまうと、「変わった出来事」になってしまうのでダメだ。記憶の対象になってしまう。そもそもを考えると、このテーマをそこまで考える必要があるのか、というのがそもそも謎。でもまあ考えてみると良いと思っている。いつも。

前半の「周りから何をした人として」というところです。何かをしているという認識をだれかに与えること自体が罪くらいのイメージがある。いや、一般的にはそうではないのはわかっていて、こういうイメージで私売ってますんで、的な何かを提供するべきだし、そうすることによって安心感が形成されるのも理解していると思います。だけど、何かをしているということ自体がそれそのものが、何か良くないことなのではないかという根本的な思い込み、ありますね。これはですね、フロイトの無意識の概念をそのまま受け入れすぎているという自己分析を今した。「人間の意識はごく一部をとらえているにすぎず、本当の自分の行動はほぼ勝手に決定されている」というフロイトのテーマ、これに頭をかち割られるような不安と衝撃を受けたんですよね。そういえば。それで、意識で自分をコントロールしていると思ってきた自分が間違っているということに恐れおののいて、それ以来、意識として自分が目指すすべてを積極的に疑うことで、この不合理感覚をどうにか乗り越えようと決心したのかもしれない。自分が何かをしていることを信じることができない、と深く信じるのであれば、だれかに対して自分の意志を表明すること自体もできない。なぜなら、自分は自分のことを理解していないのだから、いかなる意味でも正しい意図というものはありえないので、だから私が何かの意図を伝えることは罪ですらある、的な解釈をしたのかも。

何がきっかけだったのかはよくわからないけど、現時点においても「何かをしようとしている人」であることは何か非常に落ち着かない耐え難い状態なので、「何か自分の意図が把握できていない人」としてであれば、まあいいかなと思う感じがある。

そもそも人は環境に適応する生き物として生きているので、そこに根本的な意図はぜんぜんない、と考える方がすっきりしている感がありまして。

なので、そこから自分の在り方を定義するような行動をとるということが、何を目指すものなのかがわからない、ちょっと理解を超えているところがある。「あの人は毎朝、チューリップの球根に水をあげていたわー」とか、で記憶されたいだろうか。別に、されたくはない。

それよりは、自分自身の適応行動として毎朝何時に球根に水やりをするのが快適なのかを自分で記録とって改善を図っている方が楽しいのではないか。自分の水やりの姿を据え置きカメラで定時観測してインスタに自動投稿すれば、たぶん「記憶される」の方は達成されるかもしれないけど、それよりもそのインスタの画像から自分が自分の適応行動としての正しさを観測できるかどうかの方が大事なのではないか。

いや、チューリップの球根のことで考えると意味わかんないけど、例えばご飯食べたりすることって、純粋に適応行動でしかない、そこにあいつは「カレー食べている人だ」という認識をブランディングさせていく意図とかない。一部の熱心なSNSユーザーにはあるかもしれないけど、ほぼないと思う。

反論としては、いや社会における自分の位置を他人の承認のもとに作っているからだよ、それが適応なんだな、みたいなのがあると思う。そこをきちんと考えていくと、他人が環境で、その環境に適応しているかどうかを計測する指標として、周りの人が私をどう認知しているかで達成度合いを測るという考え方なんだと思いますね。

が、その場合すごい問題がありまして、そもそも他人の認知を計測できるかどうかとかは置いておいても、「他人の認知の度合い」と「私の適応性」が因果関係によって結ばれているのかどうか、なんですよ。

私の身体的な適応性は、ある程度身体の中で閉ざされていて、空腹かどうかとかは、状態を自身で保つことができる完結した系ですよね。でも、他人の認知を含む私の適応性の宇宙というものが、閉ざされた系ではないということに大問題がある。

「私の適応性」は、「他人の認知」とどのような関係にあるのか、という問いがあるということを言いたい。

いや、一方では、「私は私」他人の評価なんか関係ないのよ、みたいなのもありますよね。でも、それはそれで、違うと思うんですよ。だって明らかに違う。「私が社会に適応しているかどうか」を私自身が認知するのは、他人のふるまいから受け取ったたくさんの報酬と否定から判断するしかないですよね。ほかに社会の中で完全に孤立したものとして存在しているなんていうことはない。

うー、つまり、ここで何も結論はないのだけど、これはそんなに簡単につながっているものではないということだと思う。簡単にこれでオッケーみたいなものがないのでは