価値の交換は可能か というテーマで話を聞いた

これ最高だったな。

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・価値の交換ってそもそも可能なのか。

交換をしているときって、本当は贈りたいという気持ちがベースにあるのではないか。原初の交換は、交換じゃなくて単なる贈与の積み重なりだったんでは。みたいなことを聞いた。

あるかもしれないし、個人的には自分が何かを「買いたい」とほぼ思わないので、何となくそれは謎が解けた感じがある。本を欲しいとか読みたいとかは、「知りたい」というだけで、それは究極は知ったことを誰かにあげたい、からなのかもしれない。

何かを完成させて人に伝えたい。

仕事も結局は、「あげたい」という気持ちの発露でしかないので、それで、自分が何を受け取るかは本質的には全く問題ではない。それで、騙されたとか働かされたということは、仕事の本質においてはない。「あげる」ということが日々できている限り、仕事は幸福でしかない。仕事の本質が誰かに何かをあげることであれば、仕事が失敗するということも本質的にはない。

と、いうように考えていくと、価値の交換はしていない、ということでもある。

すべての人がお互いに贈り合う環境をつくっているだけで、その中で価値は交換されてない。それぞれが自分の行為に満足しているだけなので、価値は、どこかからどこかに移動しているのではない。

人が純粋に善意で、「より良いものを」あげたいと思うので、プロセスが複雑化したり環境を破壊するような高エネルギー消費で、ものをつくるようになるけど、本質的には、ただあげたいだけなので、それで環境が劇的に悪くなっても人にとって問題はないはずだ。なぜなら、人があげたいだけなのであれば、そのときどき、その瞬間で最善なものは常にその人の心の中にあるから、それをあげていれば、その人は最高に幸福なのだから、べつに生活水準がみたいなことはあんまり関係がない。

ただ、いろんなものが生産がされなくなることで、身体的に不快だったり、健康状態が悪くなったりはするかもしれないけど。

それで、より「本質的な交換」とかいった仮想通貨を語るときのコンセプトは、ぼくは個人的には成立が全然できないと思った。もしかしたら、それはぼくの狭量さなのかもしれないけど、「贈る」行為の媒介物は何でも良いから、別のそこに新しい技術が投下されようがされまいが、何も変わらない。

貨幣に対する幻想を作り上げて、何が大切かの優先順位をいじることで何か自分が有利になろうとする人がいる、というのはあるかもしれない。だけど、それで、その人たちが幸せなのか・・・と考えたら、別にそうでもないだろうし、人が「贈る」ことにこころを込められるかどうかと、豊かさはそれほど関係がないかもしれない。

だから、貨幣の機能は大事ではない。

もう1つ考えるべきことは、それでも人は、「贈る」ことを何かのシステムとの対立で理解するべきなのかどうかということは思った。簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換みたいな仕組みの生み出す評価ということ自体を、何かを壊すもの、疎外するものと考える必要はあるのだろうか。

あるいは、問いを変えると、そういった簿記会計や資本の効率性とか貨幣交換というコンセプトの何を変えると、もっともインパクトがあるだろうか。

ぼくの直感では、それは貨幣ではなくて「評価」だと思う。

「評価」とは、何を数え上げるのか、つまり、簿記なのだけど。カウントする「もの」をどう指定して、どこに記録するのか、の方だと思う。

貨幣は、ゲームの中の「アイテム」や「カード」なので、ゲームを変えるのはそういったコマではない。モノポリーのコマやカードをいくら変えても、どんなに機能を追加しても、カウントしたものの多さや少なさで競うというルールそのものを変えなければ、本質的なゲームは一切変わらない。

カウントすることや、保存しようとすること、何かを同じ軸におこうとすること、そのものは否定できないと思う。だから、カウントの仕方を柔軟にするとか、相対化することでしか対応できないのではないかというのがぼくの感じ方だ。

そして、その達成の評価軸を「贈る」というユーザー体験におくのはわかる気がした。まじですごい。

 それで贈るを主にした場合に「買う」とは何か、がなぞなのだけど。

「買う」というのは、「贈る」ためなのか、それともお金を「贈りたい」のだろうか。ごはんを食べるときに、人は贈られているから、おかえしをしたいのだけど、手近におかえしできるものがないから、自分の仕事を贈ったことにするための何かがほしいのか。だからお金というのは本当は、その人の仕事そのものであるということか。

仕事そのものである、ということは、「買いたい」という気持ちというのは本来的には結構理解できない。例えば映画を観たいというのは何か。それはその体験を通じて自分が何かを知ったり、解放されたりする体験だけど、それって、例えば昔で言うと物知りな長老に何か面白いためになる話をしてもらう、みたいなことなのか。

長老にとってはとても大切な贈る行為なのかもしれない。

 そして、ひとが仕事を大切にするように、仕事を誰かに贈るように、物語を大切にするのは、その長老という人格を通じて、その人を慕うようにすることによって、何かを表現しようとしているということでもある。

 それは、たぶん、この全体、すべての行為のつながっている様子そのものに対して、何かの気持ちをささげようとしているということでもある。