「学歴社会 新しい文明病」は脱学校論を否定していて楽しい

R・P・ドーアが書いた「学歴社会 新しい文明病」は、最高の本みたい。

まだ途中までしか読んでないけど、タイトルから受ける学歴社会ってよくないからテストとかやめましょうね、っていう感じとは全然違う内容なのでびびった。古本屋で何気なく手にとって、一読してまず、イヴァン・イリイチの脱学校論を認めるところはあるものの、彼らの自由なやり方を採用すると、自発的な若者だけしか生き残れない逆にエリート主義的な方向に行くと否定していて、これはすごい。

あと、あっさりと産業革命と教育は全く関係がないという否定もはいるところが素敵。エンジニアリング、法曹、会計、建築など今となっては学校やテストが必須と考えられているような分野にも長く学校はなかった。

イギリスの産業革命の糧となった技能が蓄積され、かつ伝承されたのは、ほぼ全面的に工場や鉱山など作業の現場であり、決して学校ではなかった。十八世紀から今日に至るまで、その形式がきわめて緩慢に変化しているにすぎない、伝統的な見習制度の連続性がそれを裏書きしている。

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ドーアは極めて極めて現実的な人で、人には向き不向きがあるということを認めようという立場にたっている。だから、早期に適性を見極めるテストをすることにして早目に職場に出る、そしてそれぞれの職場で必要な教育を受けることにした方が良い、という。

ドーア新興国の教育制度の矛盾をじっと観察してきて、結局、学校制度が人々を「脱落させるシステム」として機能していることを指摘する。限られた人にしか「近代的な仕事」その社会の中で、優れていると考えられる仕事は与えられないのに、子どもをそういう仕事に就けたい親の熱意に押されて大体の政府が学校を急速に整備してしまう。

そのため、必ず大卒や中等教育以上の失業者が大量に発生してしまう。彼らは、開かれて公平な教育というシステムで、公平に裁かれて人生の初期に自分が、劣った存在であることを合理的に納得させられる。

そういう状況を作り出すくらいならば、そもそもそれぞれの人が持ってうまれた能力をしっかりと発揮できる職場に就職ができて、無駄に不要な教育期間をすごしたり、過剰なストレスを受験によって感じるよりは、職場で早くから学んで優れた仕事を残す方が良いのではないか・・・とドーアは言う。

この考え方の前提には、「どう頑張っても適性の壁はある程度は越えられません」という諦めがある。

これは、なかなか良い。

今の社会では、大体において、凡庸であることは悪とされているから、もし本当に適性を見極められるのであれば、みんなが凡庸よりは少し上の成果を残している感じになり、(実際に残しているかどうかはともかくとして)満足感は上がるような気がする。

また、学歴社会についての批判の本ではあるけど、結局なぜ高学歴者が良い会社に入るかというと、その社会で学歴が受け入れられるようになると、本当に優秀な人は、高い学歴を得て良い会社に入ろうと努力するので、その社会のベスト&プライティストは第一級の学校に集まるようになる・・・ということらしい。

これは、実際に確からしい感じがしていて(ぼく自身は中卒だけど)結局、確率的には難しい学校に入った人は自尊心も与ってか、大体において優秀な仕事をする人になる人が多めではあると思う。

だから、結局のところ現時点で優秀な人を探そうとすると、難しいハードルを突破している人を探すことになり、それは今の優秀な学校出身者だということになる。

そして、ドーアはその方式を適性検査に変えたら良いというのだけど、それもあんまり何かが変わっていることにはなっていなくて、せいぜい、そのテストで選ばれなかった人が早目に別の職業を探すようになるというだけのことでしかないような気がした。

だから、ドーアの提案はまともなんだけど、構造そのものを変えているわけではないので、所謂脱学校論的な観点からすると、「学校化は終わらない」ということになる。

だけど、学校化ではないルールというものは、結局のところ新しいエリート主義だという指摘も反論ができず、難しい・・・。というのが分かってすごい面白い。

 

それで、どうしたらよいのか。

 

まず、ドーアの示す解決策「適性の早期発見」というシナリオの可否を考えてみたいのだけど、多分「適性」を掲げることは、深刻な不安を社会に持ち込むことになると思う。全ての人が自身の「適性」に恐れおののくだけだと思う・・・。今ですら、本当にこの仕事向いているのか・・・という悩みが人々を覆い尽くしているのだから。

それは、エーリッヒ・フロムが指摘した「自由からの逃走」で指摘されていた以下のような理由による。結局、私たちが現在の日本で見ているように学歴が全てではなくなってきている社会ではびこるのは「私らしさ」や「本当にやりたいこと」で、それが「適性」に置き換えられても問題の根本は変わらない。脳科学で定められた適性によって仕事が割り振られても、そのことに対する虚しさを感じるPKディック的な世界が広がるだけだろうし・・・。

能率という観念がもっとも高い道徳的な価値の1つと考えられるようになった。同時に富と物質的成功を求める欲望が、ひとびとの心をうばう情熱となった。

・・・もはや自然の、疑う余地がないと考えられるような、固定した場所は存在しなくなった。個人は独りぼっちにされた。すべては自らの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない。

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すなわち近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないという真実--を漠然ながら理解できる。このことを認めるためには、ひとが本当になにを欲しているかを知るのは多くのひとの考えるほど容易なことではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題の1つであることを理解することが必要である。しかし、それはレディ・メイドの目標を、あたかも自分の目標と考えることによって、遮二無二避けようとしていることがらである。近代人は「自分のもの」と予想されている目標を達成しようとするとき、大きな危険をもさけようとはしない。しかしかれは、自分自身にたいして自らの目標を危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。もちろんわれわれは、それが俳優や催眠術にかかった人間の行動と同じように、自発的なものではないことを知っている。劇の一般的な筋がわたされると、各俳優はかれにわりあてられた役割を力強く演ずることができ、自分の縄張や演技の細かな部分は、自力で作りあげることさえできる。しかもなおかれは、かれにわたされた一つの役割を演じているにすぎない。

われわれの願望-そして同じくわれわれの思想や感情-が、どこまでわれわれ自身のものでなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。

自由からの逃走的な行動 - ororの日記

それでも、ドーアの言う方向性が興味深いのは、特に人を仕事に割り振るルールがない社会では学歴こそが人々のラベリングシステムとして有効に働いているということ。そして、それが実際に人々に良い仕事という素晴らしい恩恵をもたらすから、人々に熱望されて「教育熱」という一見すると良さそうな熱意として噴き出すことだ。この流れはまさにマルチの仕組みとおんなじだ・・・。最初は割の良いリターンを出すけれども参加者が増えるとリターンは増やせないので、すごく利回りは低下するけど、頂点のリターンがとんでもないので、参加者はどんどん増えていく・・・。

そして、それを助けようとする諸外国や非政府セクターの人々もこれを正義として疑わずにむしろ感動しながら仕事に取り組んできたであろうことも興味深い。

教育というワードには「機会の公平性」や「進歩」や「弱者の救済」という虫酢が走るようなドラッグが染み込んでいていて素敵だ。これを目的にする人には、何か存在そのものの深刻な問題がある。

なぜ他者を同僚として助けずに、「教師」として導こうと志すのか・・・。そもそもの疑問がある・・・。

多分、この構造を「適性」に変えたときに起きるのは、人々が自分の適性を「より良いもの」に改造しようとすることだ。これがヤバイ。

普通に例えば、肉体労働に向いていますよ、と言われて素直に受け入れて社会的な評価をいっさい気にしない素直な(あるいは高度にあまのじゃくな)人であれば、何の問題もないけれど。実際には、無意味な社会的な序列はなくならないと思う。

それで、結局のところ人々は、より「評価が高いとされている」仕事に自分の適性を捻じ曲げたくなると思う。これがなくならないと、どんな振り分けシステムを作っても、そのシステムに対応する人間が自ら生み出す不幸はなくならない。

その根幹にあるのは、人は自分の運命を自分で決めるほどには度胸がない、ということだ。だから学歴のような一律のシステムで「他者と同列で」評価されたい。自分だけに特殊化されたシステムで評価しても、それを「他者目線」に翻訳しなおしてしまうだろう。そして、勝手に翻訳した「他者目線」システムの評価に合うように、自分の適性を改造する心理的な訓練に熱心に取り組むようになる。

例えば、あなたはエステシャンに向いていますよ、と言われて実際にやってみて楽しく仕事ができていも、エステシャンよりもエンジニアとかデータサイエンティストの方が何かのドラマとか映画とかで話題になって、注目を浴びているとなったら、心は揺らいで転職を考えて、エンジニア適性テストに合格するための学校に通うようになる。

それで、瞑想とかで自分の心を整えてGoogleのエンジニアと同等のメタンルスキル認定とかを受けて、マインドフルネスなエンジニアになって辣腕をふるう妄想をするんだけど、実際にはコードを書くのはそんな好きではない、みたいなことになる。

 

ドーアが言う適性による割り振りは、そもそも、適性によって割り振られる人間の適性の範囲と、仕事の範囲がぴったり一致していることも前提している。

例えばだけど、農業にぴったりの人が1000万人いても、農業側の需要が100万人しかいなくて、非農業が900万人需要だったら、満足する人は10人に1人しかいない。

結局のところ、「満足感」というものをうまく社会の中で演出するのは極めて難しいということになる。もっと考えていくと、たぶん、この問題はもっと分解できる要素があるような気もしてくる。

  1. 適性というのは確かにあるとは思う。
  2. ただ、適性にはかなり可塑性があって、幅広い範囲の仕事に対応できる。
  3. 自尊心や心の安定は、職業の適性だけでなく社会的な威信や報酬のランクとかでも決まってしまう。
  4. 自尊心や心の安定は、そういう外部要因だけでなく、マインドの持ちようでかなり可塑性があり、幅広い対応ができる場合もある。
  5. 2.と4.の可塑性を掛け合わせて、ぴったり適性じゃなくても大体あっていればオッケーというラインで楽しく過ごせるマッチングを効率的にやって、あとは、仕事を深刻に考えすぎない社会的な機運をつくる。

ということなのかも。で、学歴についてはドーアのいうことはもっともだと思うけど、もっと言ってしまうと、やっぱり学校がなくても問題ないような気もするな。いっそオンラインスクールとかで、社会人になってから学びなおしとかでも良いしな。

 

また別の話題だけど、今では専門分野と考えられる多くの分野に同業の組合はあっても、学校は長くなかったということを考えると、何かの技能を仕組化したりしてスケールさせたり、コンテンツ化して広く伝播させようとする、現代のよくある考え方は間違っている可能性が高いな。同業者の助け合いみたいなものは有効に機能するけど。例えばエンジニア同志でGitHubで共有するとかはその伝統に乗っていると思う。

スケールできる仕組みを作っている会社は「教育」ではなくて、動作の均一さとか、繰り返すことが出来る教育不要な商品の提供方法とか、何かで無意識に工夫している可能性がある。それで、その流れそのものを「社内教育」と呼んでいるのかもしれない。

実際には、考え方の伝播とかではなくて、動作としての再現性とか学ばなくても良い工夫の方が大事なんではないか。もし、伝承する必要があるとしたらそれこそ徒弟制的な感じを置かないと・・・。真の技能はそういう形でしか伝わらないと思う。

後は、もともとの才能の見極めになるのかも。