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「負債論」をカンタン図式化してみる【理論編】

 デヴィッド・グレーバーの「負債論」は素晴らしく面白い本なんだけど、何しろ長い。長いけど読み終わりたくはならない稀有な本。

 グレーバーは、ウォールストリート占拠運動で「われわれは99%だ」というスローガンを考えた人でもあり、この本も、金持ちのグローバル企業は返さなくていいのに、一般人や先進国以外の国は、借金の返済を迫られるのはなぜか?という疑問に迫るために書かれている。

 だけどなにしろ、長いので理屈が結局何だったのか忘れてしまうくらい・・・。訳者解説も大分要約してくれているけど、もっと簡単にしないと頭に入らないので、図式化してみました。まずは理論部分から。 後半の歴史編は、また時間のあるときにでも書く・・・。

 ちなみに、ぼくなんかよりはるかに簡単にこの本とはおそらく全く関係なく事態を要約している記事があるので、どうぞ。まさに名誉をかけたゲームが価値を収奪するシステムを日本人の小学生が作りだしたのだ。

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 大前提としての疑問は、グレーバーがパーティーで出会った活動家的な女性弁護士に、グローバルジャスティス運動っていうのをやっててIMFが課している諸国への借金を帳消しにする活動しているんだぜ、とドヤ顔で説明したら、「でも、やっぱり借りたおカネは返さないと!」と言われてしまったことから始まっている。何で、みんな「負債は返済されなければならない」と思っているんだろう??(あと鉄板のモテる話だと思ったのに、なぜモテないか、という怒りもあるのか→邪推ですね。)そもそも、これはモラルとしてなぜ、これほどまでに強力なのだろう。

 しかも、このモラルは矛盾している。一方で、カネは返さなくてはならない、と言っているのに、ほとんどの人は貸している人々を毛嫌いし、憎悪している。カネ貸しが悪ならば単純に返さなくても良いのではないか。昔の政府は良く徳政令とか出していたし。

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 しかも、根深いのは、負債の返済がモラルになっていることだけでなく、私たちのモラルそのものが負債の言葉でしか理解ができなくなっていることだ。

 他者への義務を果たすことを「借りを返す」と言う。けど、それでは義務は計測可能な何かなのだっけ。そもそも義務と負債を同じもののように感じているのはなぜだろう。

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 負債がまだモラルそのものじゃなかった時代、そういう社会はどういう秩序で作られていたのだろう。実際の人類学のケースから考えてみた。

 そもそも、商業経済がそれほど入り込んでいない社会では「借り貸し」という概念そのものが、社会を壊す考え方、人間の尊厳を脅かすものとして警戒されていることもある。イヌイットは、デンマーク人の人類学者がふるまわれた肉に対してお礼をいくどもいったことに対して、憤然と答える。そのような負い目はいらない。「この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる。」それは、そこから交換やヒエラルキーが忍び込むことの拒絶である。

 三つの原理がある。

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 コミュニズムは「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人には必要に応じて」というもので、Googleでもゴールドマンサックスでも、企業の中でも仕事の中でも、ごく普通に効率的だから採用されている原理だ。どこにでもあるもので、例えば工具を職場の人たちが共有したり、近くにあるものを手に取って渡したりするちょっとした作業を協力の基にすることを指している。

 交換は、等価が前提とされるため「そこにひそむふくみから、[交換にあたる]人びとも等価であるとみなされる。少なくとも、贈り物にお返しされたり、金銭の持ち主が代わる瞬間にあっては、そして、それ以上の負債や義務が存在せず、両者がそれぞれ等しく自由に立ち去るときには、そうである。逆にみれば、このことは自律を内包している・・・等価と自律、どちらも君主との相性は悪い。だが、この潜在的な解消可能性と究極的な等価性という全般的な見通しの内部で、際限のない[交換]のバリエーション、はてしのないゲームの可能性がみいだされるのである。」*1

 そして、ヒエラルキーは、「先例の論理」で機能する。基本的には交換とは関係なくただ、先例によって固定されていくものである。 

 

 商業化があまり進んでいない人間経済、社会の関心が富の蓄積ではなくて、人間存在の創造と破壊、再編成である社会では、交換の役割は限定的で、コントロールされている。

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 人間経済では、人間はその特別さゆえに、例えば婚礼の際に自身の同族の中から、同じ人数の人を差し出す証として、花嫁対価となるシンボルを差し出す。だけど、それは同じ人ではあり得ないので、実際には返済不可能な負債のシンボルでもある。

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 すべての人が家族や村落とつながっているから、その人を交換の論理にさらすことはできない。限られた例外が、抗争状態にある村落から暴力的に文脈をはぎ取られた人たちだった。

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 交換可能となった人を、「名誉」の数量的な表現とすることで、私たちはお互いを戦争中の他の村落の人として認識するようになった。負債があることで、私たちは自分の家族を奴隷の身分に落とす潜在的な恐怖におびえるようになった。誰もが他人であるのだから、この闘争状態が続く限り、いつ負債を暴力的に追わされて家族を売り飛ばし、結果的に名誉の最下位に落ちるのか分からない。

 

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 この恐怖こそが、保護意識の高まりとともに家父長制を生み、奴隷の所有権を生み、近代的な自由と私的所有権の発展につながったのである。

 という話よりもやっぱり以下が分かりやすいのだけど。

 

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*1:逆に等価で取引を終わらせることはコミュニズムが浸透している社会では失礼にあたることもある。相手を立ち去っても構わない人として扱うことになるから。だから、そういう社会では常に多少の過不足が交換で生じるように工夫しなくてはいけない。そして無限に交換が続くようにしなくてはいけない。