日本は高資本蓄積によって「資源の呪い」状態だと思う / 「経済成長」デイヴィット・N・ワイル

経済成長についての理論を網羅的に学ぶには、最適すぎる本。

経済成長 | デイヴィッド・N. ワイル, Weil,David N., 弘, 早見, 均, 早見 |本 | 通販 | Amazon


・意外だったこと 「技術革新と科学は関係ないことが多かった」

 第9章「先端技術」の囲み記事「科学と技術」(p.236)によれば、「生産技術は試行錯誤で発見され、なぜ特定の処理が所定の結果になるのかを理解したからではなかった。」つまり科学が進歩したから、技術が進歩したわけではなく、その逆で、技術がなぜだか進歩したから、それがきっかけで科学が進歩したに過ぎない時代が長かった。

 「鉄鋼、化学薬品、電気の技術革新は新しい科学理解なしでは実現しなかったと考えられる、半導体、レーザーや原子力などもそうだ。しかし21世紀に入ってもなお、新しい科学的理解によらない技術進歩の例は多い。インクジェット・プリンターは、インクの小さな泡を紙に吹き付けるために小型の熱源を用いているが、この発見は、1977年に研究者が偶然に熱い半田ごてを、いっぱいのインクを入れた注射器に偶然に触れた時に起きた。もう一つの例はウインドヘックスである。これは鶏が卵を産むときのように瞬時に研磨し液体の廃棄物を乾かすために、密室内を超音速で流動する圧縮空気を使う装置である。これはカンサス州の高校卒の農家が発明し、いまなお科学者がその作用方式を理解できないでいる。」

 よく言われているサイエンス教育が大切である、とか理系大切、というのは完全な思い違いである可能性も高い・・・。
 通常、仕事をしている人は、毎日の仕事を無意識の試行錯誤ですごしているが、これが極めて大切で、専門家による経費をかけた解決策がワークしないのは、無意識の試行錯誤と組み合わさっていないからかもしれない。
 さらに言えば、研究者が先進国で増加傾向であることが技術に結びつかないのは、上記の理由であるかもしれない。その場合、大規模な人的資本配分ミスが発生している可能性もある。現場に人的資本を厚めに配置すれば生産性が上がるかもしれない。

・意外だったこと2 「成長に対する資源制約は思ったほど大きくないかもしれない」

 p.450のグラフ「天然資源の価格、1850年-2005年」によれば一時的な上下動はあるものの、おおむね、天然資源価格は長期的には低落傾向にある。
 これは、天然資源の枯渇が起きそうになると価格がシグナルとなって代替品の生産増加や、技術革新が起きてきたということを示している。
 つまり、長期的に考えて破滅的な資源の枯渇や環境の破壊が起きる可能性は人々が通常考えるよりも低い、といえるだろう、ということだ。適切な価格メカニズムにより危機が避けられれば、だけど。
 だからエネルギーや天然資源の枯渇に賭けて投資をするのは超長期的には考えもの(たまたま日本の商社は資源高騰に賭けていたけど・・・。)だし、資源保護を目的とした政治活動に時間を投じるのも経済成長という切り口だけで考えたら合理的でないかもしれない。

・思ったこと 「生産性の算出はそもそも難しい」
 生産性そのものを観察することができないため、計測できる数値を経済成長分から引き算することで、「生産性」らしいものを取り出すしかない。 
 でも、物的資本の蓄積は計測できるが、人的資本の蓄積は極めて難しい。しかも、人的資本は極めて大きいと推定されているので、これだけで数値が大きく狂う。

 そして、
 生産量=生産性×生産要素蓄積 だったとして、

 1=1×1
 1=0.5×2 
 だから、単純に生産要素が積みあがったときに生産量が横ばいだったら、定義の上で生産性が二分の一になったように見える。生産性は、技術と効率に分解できるが、この場合、効率は確かに悪いだろうが、それは生産要素の配分効率が悪いのであって、生産性の効率が悪いわけではない。また技術の要素も、先進国間でも先進国と途上国間でもほとんど差がないと考えられるのだから、生産性の差は=「効率の差」でなければならない。

 ところが、効率の差が見当たらない場合には、「生産要素の配分効率の悪さ」、もっと端的には「資本再配分の効率の悪さ」が推定される。


・仮説 「生産性は労働価格高騰の結果でしかないのではないか」
 
 生産性を検出するのは困難だが、それでも生産性こそが国家間の所得の差異を説明するだろうと考えられるから、仮説を考えることは止められない。

 前節で指摘したように、「生産要素をうまく使えていない」のが、生産性の差であるのだとしたら、その原因には「生産要素をうまく配分する必要のない人」がいるだろうと推定する他ない。

 ここで、若干脱線してありがちな議論を指摘してみる。「生産要素をうまく使えていない」原因を「生産要素をうまく使えていない労働者の質」に求める議論がよくあるのだけれど、それは違うと思う。と、いうのは、上記で指摘したように技術の革新は、決して科学の発展が原因で起きたわけではないからだ。しかも、これだけ先進国で研究人材が増加しているのに技術革新が停滞しているのは、科学による技術促進に限界があることを示している。だから、労働者の質が悪いのだから「教育をもっとしよう!」というのはお門違いも甚だしい議論だと思う。これ以上、教育によって明文化された知識を伝授しても、問題は現場での改善の繰り返しなのだから、意味がないと思う。

 さらに、もっとよくある議論として、「生産要素をうまく使えていない」原因を「生産要素をうまく使えていない経営者の質」に求める議論があるけど、これがとても重要で「経営者の質」ではなくて「経営者はなぜそのように判断するのか」を考えると面白い。(経営者の質はスキルの問題なので、的外れ感がある。もし経営者の質が悪いだけなら、優れた「質」の経営者を持つ企業が勝者になるだけなので、そんな問題が成立するはずは論理的にない。全くのゼロだ。というのは、ともかくとして・・・。)なぜ、経営者は、というか資本の所有者は、生産要素を変なところに置いておきたいのか??

 もう一つ、別の問いを立てても良い。

 なぜ、資本家や労働者は、「生産性を上げなければいけない」と切迫感に駆られて口走るのか。

 これを、生産性の上がらない国の例から考え直してみる。「経済成長」デイヴィット・N・ワイルで指摘されているように天然資源が豊富な国では、経済成長が鈍化する傾向がある。これを「資源の呪い」と呼ぶ。

 「資源の呪い」には三つの原因が考えられている。(p.425)

  1. 過剰消費
  2. 産業化への過程(オランダ病)
  3. 政府

 過剰消費は、一時的な資源ブームがずっと続くと誤認して、消費水準を下げないことによって起きる。資源価格が下落しているのに、消費が過大に続くことで、膨大な外国債が残される。
 産業化への過程(オランダ病)は、豊富な資源を用いて商品を海外から購入すると、結果的に国内の製造業が衰退し、資源が喪失したときに産業が失われた国が残される。
 政治は、天然資源の存在によって政府の判断がより拙いものになり、不要な投資や腐敗によって、経済に悪影響を与える。
 これらは現象だが、その背後のメカニズムはより興味深いと思う。
 資源国の資本所有者は、資本を「投資」する必要はない。資本を投資するのは外国資本であり、採掘のリスクを取るのも外国資本である。資源国の政府や資本家は、その収益の取り分を掠め取るだけで良いのだから、資本所有者は、「投資して危険にさらすなんて馬鹿だ」と思うだろう。
 労働者も同様で、政府や資本家から十分に支払いを受けられるのなら、人的資本に投資して自己の生産性を上げる必要があるとは思わないし、生産過程を効率化してより高い産出量を達成する動機がない。それをしても政府や資本家から高い報酬で報いられるわけではないからだ。

 もっと端的に表現すれば、「 資源の呪い = 金持ちのニートの呪い 」と同じものだ。(ケインズが願った年金生活者の安楽死問題と同じかもしれない。)金持ちのニートは、親が支払う高額なお小遣いがある限り、自分で創意工夫して商売を始めたり、就職活動を始めたりする動機がない。つまり、ここには、すごく簡単に言うと「 お金持ちは働かなくても良い 」と、いうすごく当たり前の理屈がある。

 さて、ここでようやく、最初の問いに戻るけれども、なぜ経営者は生産要素を無意味なところに置くのか、そして労働者は資本家から「生産性を上げなければいけない」と切迫して改善を迫られないのか?(だからといってのほほんと働けるわけではなくて、改善が必要とされない業務をあてがわれて給与が下がっていくだけなのだが。)

 その理由は、つまり「 資源の呪い = 金持ちのニートの呪い = 資本蓄積が高すぎる国 」ということだと考える。ピケティが指摘するように、今、どの先進国も高い資本集積を目の当たりにしている&低成長に苦しんでいる。この理由は、先進国は自ら蓄積した資本によって、「働かなくても死なないハイレベルな蓄積資本」を目の当たりにしている、ということだ。人間は、合理的な生き物なので、資本が蓄積されていることを分かってしまう。そこから、どうしようもなく、死なないことを察知してしまう。そうすると、資源国と同じことが起きる。貯蓄された資本を消費して、労働を削減し、生産性の改善のためにリスクをとるのを止めるのだ。これが資本家が生産要素を効率的に配置しようと試みない理由だと思う。資本家が生産要素を効率的に配置しようと試みたら、どうしても事業というものは高確率で失敗するので、何もしないで現状維持が良いなあ、と思うはずで、結果として生産要素は遊休したり、実際には時代遅れなのに更新されずにそのまま使われてしまったりする。それでも、問題ないのは政府がせっせと借金をして消費をすることと、引退した高齢者が貯金を取り崩して消費をするからだ。貯蓄が残っている間は、収入は確保されている。いつまで続くかは分からないが・・・。

 では、反対に生産性が上がる条件というのはあるのか、ということを考えてみる。

 資本があまり蓄積されていない状況では、食べていくためには自分で働くしかない。資本がたくさんあれば、他の国から買ってきて組み立てられる商品も、最初のうちは、自前で作って工夫して納品するしかない。そうすると、「労働」がとても貴重なものになる。資本が少ない世界では、資本を生み出すのは「人」でしかない。だから、労働者の賃金が上昇する。みんなどうしても人を雇いたい、だけど、資本が十分に蓄積されるまでは、みんなが人を欲しがるので賃金がなかなか下がらない。そうすると、資本家としては、人を雇う以外の工夫が必要だという結論に達する。

 ここで、ようやく資本家が「生産性」に躍起になる理由ができる、資本家が躍起になれば、労働者もその指示に従って「生産性」を気にかけるようになる。金持ちなニートは働く必要をあまり感じないけど、貧乏な家の子は懸命に働かないといけないと思う、のと同じ理屈で生産性が上がっていく。

 そこで、この仮説の予想される結論が出るのだけど、

  1. 日本の資本がもっと少なくなれば生産性は上がるけど、そうでなければ上がらない。
  2. 日本政府は借金を増やして浪費しているけど、資源国の呪い的な結果を招くか、資本が良い感じで減って生産性上昇のきっかけになるかは分からない。
  3. うまいこと生産性革命が起きると、投資のための資本需要が高まる。
  4. 貯蓄が下がっていくと、投資できる資本が減るので資本市場が世界に開かれているかどうかが、重要になっていく。
  5. 日本の生産性の高い企業と、世界の資本を高効率で結びつける資本市場が機能していることが必要。
  6. もし生産性革命が起きなくても、日本の資本は海外資本に代替されていくので金融取引の流量とそのビジネス機会は膨大なものになる。

もう一つの予想されるサブの結論としては、

  1. 高資本蓄積が達成されている国では、国富のバランスシートが重要性を増す。インフレ/デフレが直接国民所得に影響を及ぼすようになり、それによって、購買力の低い諸外国に欠乏をもたらしている可能性がある。
  2. 「投資家のライフサイクル仮説」(投資家はどこかで余暇状態に入るために高収益の事業を割安で売却しなければいけなくなる*1、そのため必ず資本市場で収益性の高い物件が手に入るという経済的には非合理的な現象が起きることをモデル化できるはずというぼくが考える仮説)に準じて考えると、日本は日本にある事業機会を国全体として割安で販売することに結果としてなるはず。なので、そういう機会があるときには、なるべく購入していくと良い結果が得られるのではないか。

*1:他にも事業存続を願うから売却するという理由もある。ジョージ・ルースがスターウォーズをディズニーに売るみたいなことですね。ルーカスが永遠に生きられるなら、たぶん売る理由はなかったはずで。