最近の日本のフィリップス曲線 デフレ期の失業率増加

 1980年〜2014年までの日本のフィリップス曲線を描いてみると、デフレ期である1996年〜2013年までの失業率の高さがはっきりと分かる。フィリップス曲線は、時期によってシフトするが、その含意はわりといつでも有効で、インフレ率が高ければ失業が減り、インフレ率が低いと失業が増える。「戦後日本のマクロ経済分析」貞廣 彰・著によれば、このフィリップス曲線の右下のデフレゾーンから脱却するのは、完全失業率が4%以下になったときと言っている。(p.186)
 まさに、今の日本は完全失業率4%以下であり、このまま何とかインフレ率が高まって失業率が下がる方向に行きたいものだ。 この話題の続きは、長期経済統計から見る日本の国富の推移 貯蓄率のマイナス要因で500-1000兆円国富が減るのではないかにある。

 

 1997年にフィリップス曲線は、別次元にシフトした。この間に何が起きていたのか、について、貞廣によれば、「96年から97年にかけての公共投資の抑制と97年4月の消費税率引き上げという財政面からの引き締めが景気を抑制したこと」*1と述べており、まさに橋本構造改革がデフレ日本を切り開いちゃった、という残念な結論を、あくまでも冷静に分析している。返す返すも橋本政権さえなければ・・・。

 結果としてデフレ期待は貨幣への選好を高めた。一度、始まった貨幣への期待の高まりはそれ自体の力で拡大していき、貨幣以外の資本クラスの期待収益率の低下が激しくなる。貨幣の期待収益が上昇しはじめると、投資家の行動にはとんでもなく、強い影響がある。インフレの世界では、資本は長期的に貨幣価値で評価すると低下していくため、対策として土地を買ったり株を買ったり事業を起こしたり、の作業が必要になるが、デフレの世界では、「何もしないでお金を貯める」ことの価値が最大になって止まらない。

 さて、フィリップス曲線のこの相関関係の背後(特にヨコ方向にフラット化した場合)に、労働所得の下方硬直性が働きかけている、という超定番のお話がある。日本のフィリップス曲線が、何でデフレゾーンで右下にヨコに伸びているフラットな形をしているのか、というところで、貞廣がこの議論を取り上げている。実際に日本の労働所得が下方硬直しているから、フィリップス曲線がヨコに伸びていくのか、その事例を振り返ると・・・。

 労働名目賃金のまっすぐな低下を体験しております。

 つまり、下方硬直性などかけらもなく、ただズドーンと賃金が下がった・・・。私たちが目の当たりにしている事実だが、ショッキングなことに日本は労働市場構造改革が円滑に進みすぎて、フィリップス曲線の前提を突き崩ししたのだ。*2 そこで、代わりに貞廣が検討するのが、需要の価格弾力性(10%価格が下がってもモノが10%多く売れるわけではない)と、均衡失業率の高まりだ。ここでは、均衡失業率の高まりに注目したい。なんでかというと、直観的に変な仮説のように思うから。

 均衡失業率が高まるという仮説に則って考えると、デフレ経済では均衡失業率が高まり、フィリップス曲線がシフトすると考える。それはなぜかというと、ひとたび何かの理由で失業が増えると、だんだん世の中の失業の常識が作られて、失業率全体が高まっていくというのである。その根拠の一つとして、失業者の失業期間が長期化すると、彼らの技能が低下して職探しが困難となり、均衡失業が高まるというものがある。だが、失業率が下がりはじめれば、この状態も次第に解消していく。

 この最後の仮説は、とても面白い。というのは、生産性の秘密と深い関わりがある問題かもしれないからだ。もし、これが本当なら、失業を経路として、生産性が低下していくことの説明がある程度できることになる。

 あるいは、これを反対側から考えても良いかもしれない。投資家あるいは事業家から見て、期待収益率が下がる、ということだ。フィリップス曲線が、期待インフレ率と、均衡失業率の変化によって、各時代の領域にシフトしていくのだとしたら、この「均衡失業率」って呼ばれているものは、結局のところ、「労働の期待収益率」ということにならないだろうか。

 労働の期待収益率とは、つまり事業家から見れば、資本の効率と組み合わせて検討する「事業の期待収益」のことである。つまり、「事業の期待収益」(近似的には実質経済成長率)は、フィリップス曲線を通じて表わされる、経済の「ゾーン」のどこに位置しているかで、マクロには決定されてしまっているということだ。

 これは、近年話題の「長期停滞」ともかかわってくる重大テーマで、経済のある条件下では低成長に捉われるが実は、それは極めてテクニカルな問題でしかないという、すさまじい含意がある。

 このことを近年の日本経済における資本ストックの成長率で振り返るとこういう感じ。
 

 いくつかの経済ゾーンがあって、インフレ率と実質率で生み出される資本クラスの期待収益率の違いによって成長したりしなっかたりしているのではないかという観測を何となく持てそう。

 最初の1997年のフィリップス曲線のシフトと比較してみて思うのは、たぶん、投資家が持つ「期待収益率」は、1〜3年の決算評価に左右されているということだ。これは、先の仮説とも符合していて、「労働者の技能の低下」ではなくて、(同じことの言い換えだが)、投資家にとっての労働価値の重要性が違う、ということを意味している。そして、「労働価値の重要性が違う」ということは、「生産性の重要性が違う」ということを意味している。その関連で、ピケティが問題にしている資本ストックの総量という問題が出てくるんじゃないだろうか。(資本が大きすぎると、投資家にとっての労働価格の重要性が下がる。)

 生産性は、投資家にとっての「生産性の重要性条件」が整えば上昇するが、そうでなければ上昇しないという単純な理屈があり、定常状態に向かう自然成長率があるのではない。だから、たぶん技術イノベーションは、資本量が一定水準以上になると(どの水準だかは分らないが)、思ったほどには寄与していない可能性がある。
 このことは、すでに70年代のインフレが高まっていくプロセスで労働価格の高まりが販売価格に転嫁されて、どんどん値上がりが止まらなくなることで似た事象が観察されていると言える。もし、労働価格の高まりが販売価格に転嫁されなかったらどうだったのか、ということだ。もし転嫁されないのであれば、生産性は企業の努力で向上していることになる。この努力の限界に達するから、インフレになる。
 そのことを表しているように思うのが上記の図だ。70年代に設備投資の増加率が他の資本クラスと同じぐらい高かったことに注目している。

 これは、言ってしまえば常識的な結論で、シュンペーターの言うように「イノベーション」とは技術のことではなく、「技術と資本が労働を通じて結びついて今までにない収益を達成すること」であるのだから、問題は技術革新のスピードでないことが分かる。問題はなぜ、投資家は「労働者」を新結合に導かなければならないのか、だ。「技術」と「資本」は蓄積されるだけで、それを用いる「労働」が資本にとって、切実に必要とされていなければ物事は前に進まない。いくら国民一人当たりの研究者数が増加し、論文数が増加しても、それが「新結合」される必然性が投資家サイドになければ、何も変わらない。投資家にとって、労働者が大切であり、彼らが生み出す失敗と成功が求められているかどうか、が大事だ。

 もし、投資家が切実にイノベーションを進めたいのに、技術革新が進まなければ、むしろ労働の代替効用が高まるのだから、貿易がより緊密になり、効率的に運用する知恵が重要になるだろう。つまり、技術/資本/労働の三要素はあたりまえだけど、現在のまだ完全ロボット化されていない経済では、結び付かなければ意味がない。そして結びつくから、生産が達成される。*3

 だから、よく言われている、イノベーションのための研究開発予算の投下とか、イノベーティブな経営手法とかは、思ったほど大事でなく、インフレと実質金利の組み合わせで、フィリップス曲線上の最適解にスライドさせれば、生産性は自然と高まるだろう、ということになる。なぜなら、この仮説が正しければ、そしてフィリップス曲線の含意が「資本にとっての貨幣/労働需要」の原則を表しているのであれば、生産性とは一言でいえば「労働の期待収益」であるからだ。*4

 そして、経済政策が第一に目指すべきものも個人の社会構成員としての効用の向上なのだから、労働の資本側から見た期待収益(単純に労働の価格を規制によって高めても期待収益は高まらないだろう)を高めるように、貨幣や他の資本クラスとのバランスをとり続け、結果、生産性が高まった、という状態を目指すべきだと思う。

 各国のフィリップス曲線と実質経済成長率の推移をプロットしてみると、興味深い結果が得られるかも。
 フィリップス曲線の興味深さは、貨幣経済と実物経済が結びついている一本の曲線だからかもしれない。貨幣の価値と、実物経済を労働だけが結びつけるからかもしれない。すごく面白い・・・。
 
 

*1:第8章 1990年代の財政をめぐる論点 (1)1990年代前半においては景気対策民需と外需の大きな低迷の中でそれなりに景気を下支えしていたこと、2)96年から97年にかけての公共投資の抑制と97年4月の消費税率引き上げという財政面からの引き締めが景気を抑制したこと、3)98年から99年にかけての景気対策は実績としての公共投資を増加させなかったので景気浮揚の効果はそもそもなかった。p.203

*2:単純フィリップス曲線はなぜ非線形か p.186

*3:しかも、ロボット化されていても経済はあまり変わらないかもしれない。奴隷制時代のアテネやスパルタが、ある種の労働を支配者に課していたように。

*4:もし、ピケティが指摘するように資本の長期代替性が労働よりも高ければ、生産性が向上することの意味も分かる。生産性が向上し資本が労働を代替できなければ、労働の期待収益が生み出されないからだ。