個人の不公平は、生まれた場所や時代によって偶然に生み出されたものだ。その偶然性は、「確率的」であるから、神の采配に任されると考えられる。
本当にそうだろうか、個人の生まれ、が確率ではない、としたらどうなのだろう。
例えば、こういう制度だったらどうだろうか。
日本やアメリカなどの先進国に生まれた子供たちは、公平性のために等しく5/6の確率で発展途上国に移動させられる。残りの1/6は先進国に残る。反対に、途上国に生まれた子供たちのうち、1/4は先進国に移動させられる。残りの3/4はそのまま途上国にいる。(出生率が違うから正確に交換するための比率はちょっと違うと思う。)
これは、気持ちの悪い制度だ。
誰もやりたくないと思う。
でも、公平な感じはする。
少なくとも、生まれた地域を平準化しようとしている。(人間関係とかいろいろなものを無視しているが。)
もしくは、自分の貯金が確率的に送金されるという仕組みだったらどうだろうか。
毎月一定確率で、自分の貯金が送金され、世界の資産が平準化される。
電気は一定確率で途上国に送られて停電する。
自分の仕事も確率的に失われ、誰かが雇用されるという仕組みだったらどうだろうか。
そのうち、結婚している人は、パートナーが失われ、確率的に誰かとパートナーにさせられるかも。
公平性を追求すると、すべての状態が移動可能でなければならない。
戦争は、戦場における生死の確率に投げ出されるという公平性を実現する究極状態だ。
多くの人は自分がもともと持っているものを自分が与えられて当然だと考えていると思う。
だから、人間が通常考えている公平性は、「数学的」な公平性のことではないはずだ。
確率的な再配分を「何か変だ」と感じるわけなので、生得的な条件など、いくつかの「非確率的だと感じるもの」を、所有したままでいることを望んでいるはずだ。
配分には「理由」が必要なのだが、その条件が加わると、最適な配分とは異なる結論が出るかもなので、それが妥当で平和的な資源配分方法と逆らう可能性がある。
☆結構、この「もともと持っている」「持っているべき」という感覚、難しい。
多くの人に共通しているはずなのに、人によって現われが微妙に違うような感じもする。
財産権という考え方のベースになっているはずだけど、底にあるのは本能的なもののはず。
でも、どれがそういうもので、定量的に量れるのか、よくわからない。
現われとしては「怒り出す」ということによって認識できるけれども、どこが自分自身を侵犯されている分かれ目なのかがわからない。何を持って、全体的なものに支配されているということになるのか。
「自分が奪われていると感じる」閾値はどこにあるのだろう。
しかも閾値は変化するだろう。
この閾値を見つけることができればギリギリの幸福感を保つことができる。