クラウド アトラス

クラウド アトラス』は、「自由」についての映画だ。

「自由」を抑圧するのは、人間の過剰な「欲望」や「恐怖」で、それを打破し続けることで自由が前進することになる。
というメッセージを、様々な時代を通じて、未来も含めて普遍的な姿として描こうとする映画。
だから、常に、抑圧は存在するのだけど、時々抑圧者を倒す、良い意図を持った人たちが現れて、彼らが少しずつ世界を変えていくことになる。でも、弱肉強食の論理はいつの時代でも猛威を振るっている。

「抑圧からの解放」を善として描くことができるのはアメリカならではの、強みで、それにキリスト教的な倫理が絡まってくるのは無難な感じなのだけど、たちえば、宮崎駿が回帰するのが、常に自由というよりは「自然な姿」、「技術が抑制されていている世界」であることと、対照的だ。

とツラツラ考えていくと、日本映画や、そもそも「日本のコンテンツ」というのは何なのか、という年来の謎が深まっていく。
「愛」や「自由」や、「平等」や「正義」を問わないコンテンツというのは、何を軸として展開されているんだろうか。

うーん、やっぱり任侠映画の仁義は、仁とか徳とか、論語的なものに回収されるものなのかなあ・・・。