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風立ちぬ ついに悪と和解した宮崎駿

風立ちぬ』の評価が二分されているらしい。

「風立ちぬ」をどう語るかでわかる3つのクリエイタータイプ - エキレビ!(1/3)

身の回りの人に聞くと、「まあ、面白かった」とか「素敵な映画だった」みたいな遠い感じの感想しか返ってこない。
実際、見に行った。

普通に、こりゃあ傑作だなあと思った。何で、みんな狂ったようにお薦めしないんだろう・・・。
というわけで、ぼくは、絶対に見るべき映画として推奨することにした。

なぜ、これほど素晴らしいのか、は、実はもう書かれていました。
「風立ちぬ」戦慄の1カット:日経ビジネスオンライン
「何事が起ころうとも、今目の前の仕事を片づけることだけが最優先順位になってしまう技術者や職人の悲しい「業」、あるいは愛する者の死や大災害すら傍観者の目で観察してしまう創作者の孤独な「業」を、肯定も否定も超えてありのままに描いているだけだ。主人公も自らをも突き放した、もとより観客の賛同を期待しない描写だ。

 言い訳のようなセリフもない分、そこには圧倒的な虚無感、そして「わかってもらえなくてもかまわない」という諦念が漂っている」

 と、いうところが素晴らしい、と思うかどうかにかかっている映画だと思った。
 もとより、宮崎駿の映画の他と圧倒的に違う人気の秘密そのものが、この世界観にあるんじゃないかとすら思います。
 
 どの映画でも、彼はたった一つのことを言っていて 「人間なんてねえ、滅びたっていいんだよ!」http://ddnavi.com/news/149810/ というナウシカ打ち上げ時に言い放った気持ちと、「どこかに救いがあるんじゃないか」という気持ちの対立のことしか言っていないんじゃないか、と思います。

 それは、「人間は、より素晴らしいものになれるのか or 宿命的に悪いものを背負って生きていくものなのか」という問い掛けです。

 例えば、『天空の城 ラピュタ』のパズーとムスカは、同じ人物の両側面であるというように言われています。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130802-00002606-davinci-ent
 パズーとムスカが追い求める「ラピュタ」は、「テクノロジー」が人間にもたらす善と悪を表しています。たとえば「原子力」が暴力と死をもたらす権力の源泉となるのか、人々の幸せをもたらすのか、という対立、あるいは、「航空技術」が戦争の道具となるのか、人々の生活を豊かにするものになるのか、という対立でもあります。
 『天空の城 ラピュタ』が、悪を悪として否定せず、むしろ、ムスカに対する愛と感情移入と共に描かれているところが、面白いところです。この映画を見たほとんどの人は、ムスカの「人がゴミのようだ」という台詞を忘れずに、愛着をもって繰り返すのだと思うのですが、これを、醜い感情としてではなく、「そういうところも人にはある」という視点で描いているところが、興味深い。

 けれども、『天空の城 ラピュタ』では、「ラピュタ」というテクノロジーの結晶は、空の彼方に、廃棄物のように葬り去られて、ムスカも死んでいなくなることで、対立は映画の中では解消されます。

 しかし、今回の『風立ちぬ』が、すごいところは、対立を解消することをついに拒んだ、ということにあります。
 当たり前のことですが、私たちの生きている世界では、テクノロジーは依然として、善でもあり悪でもある存在のままです。福島第一原発は、放射能を垂れ流しているし、人類の命運が尽きる核戦争が起きる可能性はあり続ける。自らの技術で自らを滅ぼす、そのような「悪」が存在しない、ふりをするのをもう止めよう、生きて善をなそうと懸命に努力することが、より圧倒的な「悪」に繋がるとしても、それを予測することができないのが、人間なんだ、と言ってしまったのです。

 かつて、宮崎駿は、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、土鬼の皇帝たちが仕えてきた"墓所の主"というテクノロジーの怪物を巨神兵に握りつぶさせて、それで、何かを解消したふりをした。
 けれども、"墓所の主"は、結局のところ私たち自身であり、個人としての私たちが何かを打破することで、変わるものではない。土鬼の皇帝が、言ったようにナウシカは、先代の王たちのように宿業の道に踏み出しただけであり、今までの王と何も違うことはない、はずなのです。

 『風立ちぬ』で、二郎は、パズーでもありムスカでもある存在として、自身の「美しい」夢によって世界を滅ぼします。
 そこに、人間としてのあるべき姿や、倫理を持ちこまない、ということこそが、「日本人」の今の特徴の一部を鮮やかに示すと共に、その諦観から、新しい破壊と狂気が不可避に産み出されるだろう、という宮崎駿の予測でもあるのだと思います。

 
 つまり、結局のところ私たちは、アメリカほどには、すっきりと私たち自身を評価することができていないし、どうやってやったらいいのかも分かりません、という宣言でもあります。
 そういう状況で、個人としての私たちが、仮にあまり意味はない戦いに参加するべきかどうか、という選択を迫られたときに「美しさ」にあらがうことができるのかどうか、という問いでもあります。
 できれば、「美しくない」その道を歩きたいです。