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財は生産可能性を拡張することによって財となる

経済に追加される財とサービスは、その他の財・サービスの前提となる度合いが大きいことによって、投下されたコストを回収し、らせん状に経済を成長させることになる。

したがって、新しい財を投下することを検討する企業は、意識の上では、利潤の幅に基づいて決定をしているが、無意識的にはそれによってもたらされる社会的な生産可能性の増大を計算していることになる。

消費者は、消費行動を行った結果として自己の生産可能性、あるいは、もっと正確には生活の可能性の向上が起きること、を企図しており、その実現度の大きい財(あるいは大きいと誤解される財)は、急速に購入され普及することになる。
例えば、ギャンブルやネズミ講は、その悪しき例にあたるだろう。

すなわち、製品のコンセプトの良しあしは、使用価値の表現ではなく、使用されることによって生み出される将来の価値の可能性の総額、あるいは総額と見積もられるものの大きさによって測られることになる。
コンセプトは、使用価値をただ単純に表現するだけでは要件を満たさない。便利であることや安いことを、コンセプトであると考えることは企画をつまずかせることになるだろう。
長期的に織りなされる人類のドラマの中で、その財とサービスは、どのような役割を演じることになるのか、が重要である。

そうであるならば、例えば、期待を超えたサービスを提供することのメリットは、満足感を醸成することにあるのではなく、サービスの提供主体がそのスタンスをとり続けて事業者として、成長した場合に将来的に提供することになるであろう、価値の大きさの予感になるだろう。

財・サービスには、結局のところ、想像的ではあるが、時間的な価値、将来価値が、現在の価値に割り戻されて算入されているのである。

しかしながら、その割り戻されて現在感じ取られている将来価値は、株価のように「織り込み済み」となる。つまり、実際に将来にその価値が実現されても、将来を予感してしまった消費者には、驚きはないのだ。
これが商品における意図しない負債となる。ブランド価値は、単線的に増加するのではなく、集められた期待の分だけ目減りするリスクをも同時に増大させていると考えるべきである。しかも、その目減りする価値の大きさは、期待をかき集めた以上になっている可能性がある。
これは、人格に置き換えれば容易に想像できる事態だ。
身の丈を超えた約束をした社員が、プロジェクトに失敗した場合、信頼を取り戻すためには時間と実績が通常以上に必要になるだろう。これと同じことが企業にも起きているはずだ。
ブランドとは、高めることによって成功するものではない。
期待の中長期的なコントロール、もしくは、変わらない自然体であることによって成立するものであるのだ。
意識してコントロールするためには、相当な用意周到さが求められる。
そのことにコストを費やすぐらいならば、今、提供しているサービスが、無理なく織りこめる将来価値を何とするのかを考えた方が良いだろう。それが優れたコンセプトにつながる。
ユーザーの、どの生産可能性を拡張していくドラマを創り出すのかにフォーカスするべきである。