学習効果における「態度」の位置づけについて

学習効果における「態度」の変容は、学習者の行動選択の際の「判断」の基準として内化されるというとても特異な地位を占める効果だと考えられる。
「態度」の変容について、教育が占める役割と、社会やコミニティが占める役割とを明確化することは、今日、きわめて重要なことであるのではないかと考えている。
それは、「態度」を体得させる価値の体系が大きく変動していく現代において、それに対応する柔軟な教育の在り方をデザインすることが、どんどん重要性を高めつつあるのでは?と考えるからだ。

「態度」は、必ず「価値」の体系と結び付いて理解されていなければならない。

「価値」の構成要素であるそれぞれの「価値概念」は、その他の抽象的な概念の学習と同じように、それ以外の価値概念との違いによって、理解される。

「価値」は、将来の獲得される「状態」の理解によって、同定されるものであり、それ以外の方法によって同定することができない。

「価値」は必ず、学習者と学習者の周囲にもたらされる具体的な状態の変化を伴って実現するものであり、選択の際には、必ずそのことが想定されている。

たとえば、「無私」という概念は、「価値」の体系に属する概念であり、価値の体系を構成する下位の概念群の一つである。

「無私」に対立する概念は、「私」あるいは「私利」「私欲」である。「我執」という言葉も含まれるかもしれない。
これらの「無私」の対立概念と「無私」とは、お互いに概念の境界を定め合っている。

「価値概念」の主要な配置は、偶然と、人類社会が使用可能な資源とその配分と、採用されている組織の原理・ルールによって大きく異なるものになる。

学習や、学習のデザインを企図する教育は、この主要な配置を未だ参入していない対象者に伝播することや、配置そのものの変化の波及を狙って作られている。これに、「価値概念」そのものの創造を促進する機能を追加することもできるだろう。

a)新規参入者へ価値の体系の伝播
b)既存参入者へ価値の体系の変更の伝播
c)新規・既存参入者への価値の体系の変更方法や、可能性を伝達

上記3つの機能が、態度の学習のデザインには、含まれていると考えることができる。

そこで、我々が検証すべき点は、

a)新規参入者に伝播されている価値の体系の現在の配置/その根拠
b)既存参入者に伝播されている価値の体系の変更の配置/その根拠
c)新規・既存参入者への価値の体系の変更方法や、可能性を伝達することがどの程度行われているか/その根拠

を問うことである。

それらの配置が、「何を狙って行われているのか」「その目的は妥当な根拠に基づくのか」「それによって今後どのようなことが発生しうるのか」。これらを、我々はさらに細分化し、統合して理解をする必要がある。

なぜならば、「目的」そのものが、周囲の環境によって劇的に変化する可能性があり、使用可能な資源が、急速に枯渇する可能性もある、ため、どのような価値の体系を築くのか、は、自覚的な行動として統御されるべきものになっている可能性があるからだ。

我々が、価値の体系を「自然な変化」に任せている場合に生じる(かもしれない)多大な損失が、どれくらいなのか、それが、我々の存亡に結び付くほどの大きなインパクトを持つものなのか、そうでないのか、を特定していれば、安心してそれを放任に任せるかどうか、判断することができるようになる。

さらに、「態度」の変容を促進している、教育機関・企業・コミニティ・各種組織の影響の分布も、明確なデータとして把握可能なものとすることが必要ではないだろうか。
これによって、我々は、教育機関が、態度変容に及ぼしている実質的な役割と、企業との分担の在り方を、明示的なものとして知ることができるようになる。
それは、教育機関のあるべき姿や、企業のあるべき姿を、偶然によってではなく、資源の再配分の観点や、とりたい方針、ありたい姿に基づいて設計するための取りかかりとして望ましいものだと考える。

我々が創り出している「価値」は、決して、偶然だけによって生成されているものではなく、ある程度は、資源の再配置のために適正化しようとする努力から発している。

この部分について、どの「態度」が、どの再配置を効率化しているのか、していないのか、感覚値ではなく、事実に基づく分析が求められる時代になっていると考える。