愛するということ 抜き書き

ところどころ気になるところを抜き書きします。「愛するということ」エーリッヒ・フロム。

愛は技術だろうか。技術だとしたら知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。

・・・まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛する という問題、愛する能力の問題としてでなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許される限りの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。また、自分を魅力的にするために、男も女も共通して用いる手法は、好感をもたれるような態度を身につけ、気のきいた会話を心がけ、他人の役に立ち、それでいて謙虚で、押しつけがましくないようにする、ということである。愛される人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人びとに影響をおよぼす」ようになるための方法と同じである。実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものだ。

・・・愛することほど易しいものはない、というこの考え方は、それに反する証拠が山とあるにもかかわらず、いまもなお愛についての一般的な考え方となっている。

・・・人びとはこんなふうに考えている-金や名誉を得る方法だけが習得するに値する。愛は心にしか利益を与えてくれず、現代的な意味での利益をもたらしてくれない。われわれはこんな贅沢品にエネルギーを注ぐことはできない、と。

はたしてそうだろうか。

p12-p19

 第二章

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつは極めて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている。

・・・生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。・・・与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られることではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

・・・自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

・・・このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命観を高めることによって、他人の生命観を高める。・・・ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与えるものにするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛にかぎっていえばこういうことになる-愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

・・・しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。

  第二章 自己愛

さまざまな対象に対する愛がありうるという考え方には反論の声があがらないが、その一方で、他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。すなわち、人は自分を愛するほどには他人を愛さないとか、自己愛は利己主義と同じことだとみなされている。こうした考え方は西洋思想に古くからある。カルヴァンは自己愛を「ペスト」と呼んだ。

・・・利己主義と自己愛の心理学的な側面を論じる前に、他人にたいする愛と自分にたいする愛とはたがいに排他的であるという考え方が論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。すくなくとも悪ではないだろう。なぜなら自分だった一人の人間なのだから。そのなかに自分自身を含まないような人間の概念はない。自分自身を排除するような学生は本質的に矛盾している。聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。

・・・以上のようなことから、私自身も他人とおなじく私の愛の対象となりうる、ということになる。自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

・・・利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。

 第4章

 愛の習練は

  1. 規律 習練における規律だけでなく、生活の規律も含まれる。余暇における無規律が現代人の当たり前になってしまっているが、まとまりを得るためには規律が必要だ。
  2.  集中 現代人は、絵だろうと、酒だろうと、知識だろうと何でも大口をあけて必死に呑み込もうとするが、それでは集中を欠くことになる。
  3. 忍耐 速さを優先する社会において忍耐は得難いもののひとつである。スピードを重視してかせいだ時間で何をするかというと、何をしたら良いのかわからずにつぶすことしかできない。
  4. 技術の習得に最高の関心を抱くこと 生活のあらゆる場面において、規律と集中力と忍耐の習練ょ積まなければならない。

どうしたら規律を身につけられるのか。

毎朝決まった時間に起き瞑想するとか、読書するとか、音楽を聴くとか、散歩するといった活動に一定の時間を割き、推理小説を読むとか映画を観るといった逃避的な行動には最低限しかふけらず、暴飲暴食はしない-といった誰にでもわかる基本的なルールだ。

・・・現代では集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。・・・集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聞かず、たばこも吸わず、酒も飲まず、一人でじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人になりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

・・・一人でいるとそわそわと落ち着かなくなり、かなりの不安をおぼえたりさえする。こんなことをしても何の価値もない、ばかばかしい、時間をとられすぎる、などという理屈をこねては、この習練を続けたくないという自分の気持ちを正当化しようとする。

・・・いくつかのごく簡単な練習をしてみるといいだろう。たとえば、(だらしなく座るのでもなく体をこわばらせるのでもなく)リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを見るようにして、じゃましてくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。呼吸について考えるのでもなく、むりに呼吸を整えるのでもなく、ただ自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸を感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じ取れるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じ取るのだ。すくなくとも、こうした練習を朝夕二十分ずつ(できればもっと長く)そして毎晩寝る前に続けるとよい。

そうした練習をするだけでなく、何をするにつけても精神を集中させるよう心がけなければならない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色を眺めるときも、である。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければならない。精神を集中していれば自分が何をしているかはあまり問題ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるために、これまでとはまったくちがって見えてくる。

・・・他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。・・・そういう人にかぎって、集中して耳をかたむけたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってはくる。精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで、一日の終わりにベットに入ってもなかなか眠れない。

・・・集中力を身につけるための習練は最初のうちはひじょうにむずかしい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、いうまでもないことだが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時があるということを知らず、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身に付かない。

・・・自分に対して敏感にならなければ、集中力は身に付かない。これはどういう意味か。・・・たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気付いたら、自問するのだ。

以上の例に共通して重要なのは、変化に気づくこと、手近にある理屈にとびついてそれを安易に合理化しないことである。そりに加えて、内なる声に耳をかたむけることだ。内なる声は、なぜ私たちが不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、その理由を、たいていはすぐに教えてくれるものだ。

・・・私たちは、両親や親類の心の動き。あるいは自分が生まれた社会集団の心の動きを、正常とみなし、自分の精神状態がそれらとちがわないかぎり、自分は正常なのだと感じ、それ以上深く考えたりしない。たとえば、人を愛することのできる人間や、個性的な人間や、勇気や集中力をもった人間には一度も会ったことがない、という人も多い。

・・・愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味を持たず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。

ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をあのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

どんな種類の精神病者も、客観的にものを見る能力が極端に欠如している。狂気に陥った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分のなかにある、欲望と恐怖がつくりあげた現実である。精神病者は外界を内的世界の象徴とみなす。あるいは自分が創造したものとみなす、誰だった夢のなかでは同じように考える。夢では、私たちが出来ごとをつくりあげ、ドラマを上演する。それは自分の欲望と恐怖の表現である。(洞察と判断の表現であることもある)私たちは、眠っているあいだは、夢の生産物は覚醒時に知覚する現実と同じくらい現実的だ、と確信している。

狂気に陥った人はや眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし、私たちはみんな、多かれ少なかれ狂っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、世界を客観的に見ることができない。

・・・どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

 そして、最後の要素は、「信じる」こと。

自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

・・・自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。

・・・信念をもつには勇気がいる。 勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望を受け入れる覚悟である。

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして、愛するには、勇気が必要だ。ある価値をこれがいちばん大事なものだと判断して、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

・・・みんなに受け入れられなくても、自分の確信に固執するには、やはり信念と勇気がいる。また、困難に直面したり、壁にぶちあたったり、悲しい目にあったりしても、それを、自分には起こるはずのない不公平な罰だとみなしたりせずに、自分に課せられた試練として受け止め、それを克服すればもっと強くなれる、というふうに考えるには、やはり信念と勇気が必要である。

・・・第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくこどに自分が弱くなっていき、弱くなったために信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

 

地方活性とか地域の再生とかは結局のところ何なのかな

あんまり一言でくくれないものなのかもしれないけど、「年収は住むところで決まる」の理屈だと、生産性の高い企業があって、その周辺でサービス業が伸びる。生産性の高さは知的な能力の高い人がそこにいるかどうかで決まるみたいな感じだ。都市の美的な美しさとかはあんまり関係がない。

一方で、都市空間そのものの心地よさみたいなものが大事なのではないか、という話もある。

Sensuous City[官能都市]【LIFULL HOME'S 総研】

都市の隙間に入り込んでくる面白いことを始める人たちのスモールビジネスのサポートとかも大事だという話もある。

縮小都市・まちづくり・地域福祉 – surume blog

第一段階 衰退・荒廃した地域で、「アーバンパイオニア」が「開拓者精神」をもって新しい何かを始める。著者によれば、このアーバンパイオニアとは、①ぼろ住宅を安く取得し、DIY精神で自分で修繕して、そこを自宅に移り住むタイプ、②廃棄された倉庫や工場を安い賃金で借り、アーティストがそこをスタジオにするタイプ、③空き物件を活用してスモールビジネスを始める起業家型、の3つがあるという。これらのアーバンパイオニアは、補助金などに頼らず、その地域や場の可能性を予感し、「空き」をオモロイと感じる感性を持っている、という。
第二段階 このアーバンパイオニアが根付くと、地元のスモールビジネスが相次いで起業する。その中で、トレンドに敏感な若者のに人気のスポットが増える。
第三段階 その成功を見定めるように、コンビニやカフェ、ファーストフード店が出店する。この段階で、地元の不動産デベロッパーやチェーン系ビジネスが投資をし始めることにより、地区の改善が進展し、家賃が上がり、貧者が追い出される、という。
第四段階 このように賑わいが活気づくと、全国区のデベロッパーや金融資本が舞台に登場し、新築ビルや集合住宅が新設される。

何となく、この隙間が出来て誰かが文句をいわれない環境で「勝手にやる」というのが大事なんではないかという気がしないでもない。

まだ何もまとまってないけど。あと、減築とかも気になる。

上田裕文(2008):ドイツにおける団地再生のとりくみ―ライネフェルデの事例.ランドスケープ研究71-4,365-368. - 撤退の農村計画

 どの都市でも、「見捨てられている」という共通項があるような気がする。日本の場合、見捨てられているというほど衰退しているわけではないから、これが難しいという感じがある。

どちらかというと自由になんでもできるけどお金は出さないというような広い工場みたいなところを私有地として持っていて、学生に解放してほうっておくと言うようなことがいいのではと思う。戦後すぐのバラックでできた飲み屋街とかも「焼け跡」という状況がプラスに働いている。

秩序がない、みんなが何かもっと大きな問題に気を取られていて、そこで何かが起きても気にする余裕がない。放棄されている。というのが大事で、何かに庇護されている、インキュベーションされる、みたいな発想がすでにダメなのでは。という直感が出た。

あと、すでに社会資本が形成されていて、大学も複数あって文化もあるみたいな土地は新規採用とか線形的な発展には向いているけど、非線形的な発展には向いてないかも。打ち捨てられたどうでも良い場所であればあるほど、非線形性が爆発するのかも。

貧しいけどスーパー自由みたいな感じだ。ときわ荘プロジェクトっぽいけど、あれでもない。もっとカオスが極まらないといけない。

ビットコインは勝手に予測すると一年ぐらいかけて50万円を下回る水準まで下落すると思う

すごい勝手な予測だけど、たぶん、一年ぐらいかけて50万円を下回りその後は長い低迷の時代が続くと思う。ビットコインが復活することはたぶんなくて、政府系通貨(あるいはその他の有価証券や不動産系証券や資源系資産)との間で何らかの連動性が保たれるようにされている仮想通貨や、連動性のある仮想通貨間の取引の間にある仮想通貨などが代替的に出てきて生態系が更新されると思う。

その時までは、仮想通貨の取引をしないのが正しいと思っている。すごい勝手な話で恐縮だが、仮にこの後値段が十倍になろうと百倍になろうとも長期的に持続しない生態系に対しての評価は変わらないと思う。

ものすごく小額で取引したので、全く全体の資産に対する寄与はないけど、ビットコイン取引を以下のようにクローズしたので、2.5年間の取引で約3500%(税引後)の取引になった。

2017/11/29  SELL レート 1128000円

2015/6/2  BUY レート 28100円

これままで最良・最高の結果になったけど、全然投資していないので、本当に小遣い稼ぎにしかなっていない。最大の反省点としては、なぜこのせめて十倍の投資額にしなかったのか・・・ということだけ。読みが正しくても、リスクのバランスが悪いとポートフォリオの成績は悪い・・・。当たり前のことをたたきつけられた。あと、いつも思うけど売るのが早い。早すぎる。

あと、もっと反省すればマウントゴックスのサイトを検索してたいころに気にしていた段階でなぜ、小額でも良いから突っ込まなかったのかという反省もすごいある。どうせ引き出せなくなっていたので関係ないかもしれないが・・・。

全体としてはバブルの発生メカニズムに対する信頼感が低すぎた。人間の欲望を低く見積もりすぎた感がすごいある。バブルの発生の際には必ず、仮想通貨的な、「新しい貨幣」が生み出される。そのアノマリーを正しく受け取れば、ビットコイン以外にはその資格を持っているものはなかったはずだし、その新技術感が「今回は違う」という確信を生みだすこともかなり予測できていたのでは、と思ったりするけど、後知恵では何とでもいえるということなのかも・・・。

そして、もし仮に次のチャンスが来ても、同じくらいどうでも良い金額でしかリスクははれないと思うので、自分の性格的な限界がここにあるということなのかもしれない。

ストーリーは一人の中にある

ストーリーは一人の中にある。

ビジョンやテーマと呼ばれているものは、一人より大きなもののように思われがちだけど、そうではない。心に刺さるコンテンツたりうるためには、一人の体験に発している何かからスタートする必要があるし、そんなストーリーを引き出す必要がある。

全てを包括するすごいストーリーというものはなくて、ただひたすらに一人が見ているもの、感じているもの、考えているもの、そこに戻る必要が絶対的にある。

それが言葉の始まりで、そこから先に繋がるものが出てくる。

それ以上のものはない。

すべての人に、途方もなく深いストーリーがあって、万人が語れるものを持っていると思った。どんな人でも良いと思う。どんな人にインタビューしても面白い話にできると思う。結局、一番面白いのは人で、人以上に面白いものはないような気がする。

語られる話は自分の当り前の話でなければならないけど。当たり前の話をしないと、面白くならない。自分の当たり前は、他人の非常識なので。つまらない話というのは、自分にとっては非常識だと思っている、他人から見たら当たり前の話なのかもしれない。

幸福感は習慣化と関係がある仮説

価値観軸でも届くメッセージは作れると思う。届けるだけなら。

けど、行動に移るとなると、もっと身体的なものが必要だと思うのです。

それが習慣化。

毎日会社に行くとか、毎朝珈琲飲むとか、決まったパターンで飲み屋に行くとか、決まった時間に帰るとか、毎週必ず教会に行くとか、何か決まったことを繰り返すことですね。これが幸福感とたぶん関係がある。

習慣はフレームを生みだす。人は、習慣や習慣の集まりとしての仕事によって、自分に対してフレームを作る。習慣が滞りなく進んでいるかどうかで自分を測る。

フレームは、身体の外側、手触り感が分かる場所。自分というものの輪郭が得られる場所。なので、とても大切だ。

実際には、それは輪郭でしかないので、ほとんどの習慣には実質的な意味はないし、たぶん仕事の大半も、輪郭としての意味しかないけど、人にとっては大事だ。

なので、人の習慣化に何か効果をもたらすようなことを考えると良いと思う。

資本主義の根幹は、記録による行動の習慣化と意味づけなので、これが最もベーシックな行動と幸福の結びつきなんではないか。

 

共感しないことを共感するマーケティング

ちょっと前の記事だけど、これを思い出したので。

cakes.mu

世界はますます、自己啓発から「共感」の時代に、コミニティの時代になっていくと思うけど、一方でその圧力がうっとうしい人も増えていくと思う。そこに、価値を見出してマーケティングのターゲットにするという論理も出てくると思う。

oror.hatenadiary.jp

共感しあってはいないけど、仲間で戦友ではある、というようなことがあると思う。

それを言葉にするのは難しいのだけど、ポジションとして

  • 自己啓発型世界変える系
  • 趣味大好きコミニティ系
  • 群れないローンウルフが群れている系
  • 威信を上位下達型飲み会サークル系

など、いくつかある類型のどれを用いて、帰属意識を作り出しているのかは考えると良いかも。

企業への帰属意識は、基本的には支持政党への帰属意識と同じで合理的ではなくて極めて感覚的なものでしかない。野球団のどれが好きなんていうことに、全く理由がないのと同じだ。それでも、人は帰属意識のとっかかりを見つけて、それを変えることがない。

共和党支持者には権威主義者が多いとされているけど、会社も同じで同系統の心理的なフレーム、同じタイプのメンタルモデルが引き寄せ合うようにできている。メンタルモデルの出てくる起源は、結局のところ経営者で、経営者が抱いている世界に対する見方が、社員に反映されて、それが反響し合うかどうかで帰属意識が変わってくる。

群れない系が良いと思っている系の人は、それでも群れようとするので、その群れ方の作法を作り出すことでマーケ的な成果をあげることはできるんではないかと思う。

群れのことをちゃんと生物学のメタファーで考えると、ローンウルフというのは群れの力学に敗れた者なので、別の群れに吸収されないと弱いまま生きなければならない。リーダーとの闘争に敗れることは自然の力学としてあるので、必ず彼らは、彼らを集める自然な帰属性を持った集団を必要とする。

敗れることの必然性。運命。敗れた者は、必ず栄光に向かって立ち直るというストーリーとかは、引けるな・・・。共感しあうコミニティに対する怒り、その裏側にあるのは、自分こそが共感をされるべきリーダーたりうるはずなのに、敗北したという怒りとそれを認めないプライドがあるので、そこをドライバーにすると良いのでは。

構造としては、「●●は、ここではできない。」「なぜなら、集団が出来上がっているから」「だから、新しい場所で始めなおす必要がある」に持ち込む必要がある。

 敗れたヒーローは、新しい場所に流れつくけれど、最初は周囲となじまない、あるいは敵対さえする。そこで、喧嘩やもめごとが起きるけれども、次第にお互いの個性がわかってきて共通の目的を達成したりするようになる。そして大きな試練のとき。彼らが彼ら自身の仕事をしなければ乗り越えられないような瞬間がきて、ヒーローは逃げ出そうとしていた、ここが居場所だと思うようになる。というような流れなんだろうな・・・。

共感しない自己を自己の物語として再生することができる、という共感。

『スターウォーズ 最後のジェダイ』を見てつまらなかったというか激しい心理的葛藤にみまわれた

スターウォーズ 最後のジェダイ』皆さま、ご覧になられましたでしょうか。

私は、生まれて初めてスターウォーズシリーズを見てとても辛くなる、という体験をして動揺しています。見れば見るほど落ち込んでいくというか。何でしょうか。

つまらない、という説もあるんですが、つまらないというよりは、心がつらい。

まず、人が死に過ぎてつらいです。『ローグワン』の時も、登場人物が死に過ぎて辛かったのですけど。最近のスターウォーズ、簡単に人が死に過ぎじゃないだろうか。前からこんなでしたっけ・・・。冒頭の爆撃機の特攻とか辛すぎるし、それが崇高な死でもないし、直後で否定すらされるし、何なんだ。しかも特攻は良くないと言われてるのに、後で提督が自艦をハイパースペースに突入させて特攻するし。何なの。人命を尊重したいのか、それとも正義のためなら死んでもいい的なものなのか。どんどん混乱するし、つらい。しんでほしくない。

戦争シーンも全体的にリアリティが増していてつらい。展開は雑なのに、描写が細かくなっていて戦争を思わせる描写になっているのがつらい。無駄に塹壕とか描かなくてもいいのに。しかも、何で塩田に塹壕掘るんだろう・・・。絶対しぬじゃん。基地の内側から攻撃するとかはないの・・・。戦争の悲惨さを描きたいのかもしれないけど、何かスターウォーズ世界でやられるととてもつらい。見ていられない。

あと、カイロ・レンがつらい。何でダースベイダーは見てられるのに、レンはダメなのか。前作はまだ迷いがなくて良かったけど、迷いまくっている悪役ほど見ていてつらいものはないということが良く分かった。ムスカ大佐を見習ってほしい。悪は一切の葛藤を超越したサイコパスの天才でないといけないので、こんなに人間性のある悪は、ちょっとだめ。レンがレイに手を差し伸べるシーンは、皇兄ナムリスがクシャナと一緒に暁の帝国を作ろうと言うシーンとそっくりだけど、全然違う。

ナムリスには迷いというものが全くないけど、今回のカイロ・レンは、レイに出会って下心がありすぎてダメだ。悪だったら、もっとストレートに奪いにいかないと。何か下僕感があってつらすぎる。絶対的な自信を持って俺に惚れるだろ、ぐらいでないとこっちが落ち込むんですわ。

そして、ルークもつらい。何だこれ。甥の教育に失敗したら人生おわたみたいな落ち込み方。そんなに自分の人生に期待しすぎるなよ・・・、そこまで重圧に感じさせてごめん、こっちもそんなつもりでジェダイにあこがれてたわけじゃないんだ、とどんどん何か自分のせいで、ルークが落ち込んだみたいな転移がきてつらくなってくる。あれ、子どものころのあこがれが罪だったのかな、ごめんみたいな。どんどんつらい気持ちになってくる。

映画的に変なところがいっぱいある、という指摘はたくさん読んだ。だけど、それはあんまりどうでも良くて、スターウォーズは、確かに家族のドラマが中軸にあるファンタジーなんだけど、これだとバランスが悪すぎるのでは、ということが気になってつらい。カイロ・レンに父親を殺させたりとか、物語のコマとして登場人物を扱っている感がする。何か、やさしさがないというか。フォースの覚醒のときは、それほど気にならなかったけど、もう今回のレベルになると、心が拒絶する感じ。

特に、つらかったのが、レイがルークに、何で直接話しに行かないの、行かないなら私がいく、と言うシーン。しんどかった。まるで、自分に言われているような気がした。レイに本当にごめんなさいと謝りたくなった。

しかも、そのあと、ルークが意を決して行ったと思ったのに、全部遠隔から残像飛ばしているだけで実は完全にひきこもりのまま死ぬとかも、本当につらい。心が張り裂けそう。ぼくは昔引き込もりだったから、これ、いま、こういう問題で苦しんでいる人がみたら絶望するんじゃないかなとすら思った。わかんないけど。きっとレイみたいな女の子のことは嫌いになるんじゃないかな。嫌いになるとこまではいかなかったけど。少し苦手だなとは思ったな・・・。でもレイは正しいし、どうしたらいいんだ。

制作者の意図がどこにあるかはわかんないけど、全体にひきこもりの男子から見た世界のまんまな感じがして、非常につらいのです。そんな風に思う人があんまりいないから、ぼくだけの感想なのかもしれないけど。スターウォーズつらい。

と思ったら、ほぼおんなじ感想があった!! すでに「フォースの覚醒」のときから同じ感想があったんですね。すいません、「最後のジェダイ」になるまで気づかなかった。

www.gizmodo.jp

悲しいのが、旧三部作での数々の戦いや勝利にも関わらず、それ以降のルークやレイア、ハン・ソロの人生が、基本的には惨めであることを本作が決定付けていることなのです。

「惨め(miserable)」という言葉がぴったりハマると僕は思っています。ハン・ソロとレイアなんて、彼らの子どもがダークサイドに堕ちてしまって、これがトラウマになって別々に生きることになっていた。ルークはジェダイ復活に失敗しているし、多くの人が死んでいくなか、甥っ子がダークサイドに堕ちてしまうのを防ぐことができなかった。それが原因でルークは自ら長年姿を消してしまうことになる。長年親しんできた私たちのヒーローたちは苦悩とともに孤独に生きていたことになるのです。

そうなんですよ! ギズモードUSの、Katharine Trendacostaに、最大の賛辞を贈りたいね!

そういうことです。これだと、本当にルークは何だったんだということになるし、こんなのは耐えがたい・・・。いや、ルーカスの心象風景的には、そうやってシリーズが閉ざされていくのは歪んだ勝利感があるのかもしれないけど、「子どもに夢をあたえる神話」つくりたいっていう初期の志はどこに!!!!!!! と叫びたいんですよ。

これだと夢も希望もないじゃん。エピソード9ですごいことになるのかもしれないけど。それが叶わなかったら、ぼくの中ではスターウォーズは、不幸なストーリーとしてもう見られないものになってしまうと思うと、それが哀しくてつらいです。大切なものが失われる感じです。ああつらい。 

つらつら考えると、きっと、こういう苦しみもすべて、きたるべき民主化されたフォースのための産みの苦しみだったんだ、みたいなことで片づける予定なのだと思うけど、そういう考え方そのものがつらい感じがする。

大義を奉じるみたいな考え方になってないか。フォースなんて何となく作られた言葉でしかないのに、それを誰もが持っているものするとか、のために色んな人が苦しんだり死んだりするのを見たいだろうか。

仏教の三世の話をこの前聞いたけど、過去世・現世・未来世は繋がっていて、いまこの瞬間にすることが一秒先以降のずっと続く未来世につながるから、今をちゃんと生きようぜ、的なメッセージなんだそうです。変えられない過去にこだわりすぎなエピソード8には、絶望を感じるけど、きっと来るだろうエピソード10,11,12の未来の新シリーズには、この反省点を踏まえて、過去とかがわからなくなる数百年後とかのレベルで時系列を離してしまってほしいです。

追記ですが、以下の感想がいちばんしっくりきた。長々かいてごめんなさい。サンスティーンの感想で良いです。この通りです。

cruel.hatenablog.com