Jトラスト グループリースの現時点でのインパクト

  Jトラストの収益にグループリース株価がもたらすインパクトは、以下のように公開されている資料から試算ができます。

 約5バーツ毎に-14億円とすると、現時点での株価18.30バーツの場合、マイナス幅は、-65.8億円になります。

 決算説明資料|Jトラスト株式会社

f:id:oror:20170323012558p:plain

 

 グループリースの株価が現状で推移するのであれば、今期の最終利益は、以下のようになる計算です。

 連結営業利益は、42億円の予想から、この時点で含まれていたグループリースの利益46億円と、65.8億円が差し引かれるので、-69.8億円の赤字で着地します。

 うーむ。

時価総額/GDP比の現在値 2017年1月末時点

前回に引き続き、時価総額/GDP比の現在値(1月末時点数値)を調べてみます。

日本 87%(2014年4月末) → 92.5%(2014年9月末) → 112%(2015年2月末) → 111%(2015年3月末) → 112%(2015年10月末) → 104%(2016年5月末) → 115% 

時価総額の参照数値が一部のみから一部二部その他合算に変更

アメリカ 102%(2014年4月末) → 106%(2014年9月末) → 108%(2015年2月末) → 107%(2015年3月末) → 107%(2015年10月末) →  102%(2016年5月末) → 114%

・計算式  時価総額÷名目GDP時価総額/名目GDP

 (過去から100%〜120%程度が高値圏と考えられる。バブル期の%の推移については、GDP/時価総額比率 1989年でGDP比率145.5%を参照。)

 ※参考データ

ここから想定される日経平均株価の高値のレンジは、ざっくり

 17,919円(108%) 〜 21,300円(128%)

 以上です。

「負債論」をカンタン図式化してみる【理論編】

 デヴィッド・グレーバーの「負債論」は素晴らしく面白い本なんだけど、何しろ長い。長いけど読み終わりたくはならない稀有な本。

 グレーバーは、ウォールストリート占拠運動で「われわれは99%だ」というスローガンを考えた人でもあり、この本も、金持ちのグローバル企業は返さなくていいのに、一般人や先進国以外の国は、借金の返済を迫られるのはなぜか?という疑問に迫るために書かれている。

 だけどなにしろ、長いので理屈が結局何だったのか忘れてしまうくらい・・・。訳者解説も大分要約してくれているけど、もっと簡単にしないと頭に入らないので、図式化してみました。まずは理論部分から。 後半の歴史編は、また時間のあるときにでも書く・・・。

 ちなみに、ぼくなんかよりはるかに簡単にこの本とはおそらく全く関係なく事態を要約している記事があるので、どうぞ。まさに名誉をかけたゲームが価値を収奪するシステムを日本人の小学生が作りだしたのだ。

new.akind.center

 大前提としての疑問は、グレーバーがパーティーで出会った活動家的な女性弁護士に、グローバルジャスティス運動っていうのをやっててIMFが課している諸国への借金を帳消しにする活動しているんだぜ、とドヤ顔で説明したら、「でも、やっぱり借りたおカネは返さないと!」と言われてしまったことから始まっている。何で、みんな「負債は返済されなければならない」と思っているんだろう??(あと鉄板のモテる話だと思ったのに、なぜモテないか、という怒りもあるのか→邪推ですね。)そもそも、これはモラルとしてなぜ、これほどまでに強力なのだろう。

 しかも、このモラルは矛盾している。一方で、カネは返さなくてはならない、と言っているのに、ほとんどの人は貸している人々を毛嫌いし、憎悪している。カネ貸しが悪ならば単純に返さなくても良いのではないか。昔の政府は良く徳政令とか出していたし。

f:id:oror:20170319012140p:plain

 しかも、根深いのは、負債の返済がモラルになっていることだけでなく、私たちのモラルそのものが負債の言葉でしか理解ができなくなっていることだ。

 他者への義務を果たすことを「借りを返す」と言う。けど、それでは義務は計測可能な何かなのだっけ。そもそも義務と負債を同じもののように感じているのはなぜだろう。

f:id:oror:20170319012733p:plain

 負債がまだモラルそのものじゃなかった時代、そういう社会はどういう秩序で作られていたのだろう。実際の人類学のケースから考えてみた。

 そもそも、商業経済がそれほど入り込んでいない社会では「借り貸し」という概念そのものが、社会を壊す考え方、人間の尊厳を脅かすものとして警戒されていることもある。イヌイットは、デンマーク人の人類学者がふるまわれた肉に対してお礼をいくどもいったことに対して、憤然と答える。そのような負い目はいらない。「この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる。」それは、そこから交換やヒエラルキーが忍び込むことの拒絶である。

 三つの原理がある。

f:id:oror:20170319012108p:plain

 コミュニズムは「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人には必要に応じて」というもので、Googleでもゴールドマンサックスでも、企業の中でも仕事の中でも、ごく普通に効率的だから採用されている原理だ。どこにでもあるもので、例えば工具を職場の人たちが共有したり、近くにあるものを手に取って渡したりするちょっとした作業を協力の基にすることを指している。

 交換は、等価が前提とされるため「そこにひそむふくみから、[交換にあたる]人びとも等価であるとみなされる。少なくとも、贈り物にお返しされたり、金銭の持ち主が代わる瞬間にあっては、そして、それ以上の負債や義務が存在せず、両者がそれぞれ等しく自由に立ち去るときには、そうである。逆にみれば、このことは自律を内包している・・・等価と自律、どちらも君主との相性は悪い。だが、この潜在的な解消可能性と究極的な等価性という全般的な見通しの内部で、際限のない[交換]のバリエーション、はてしのないゲームの可能性がみいだされるのである。」*1

 そして、ヒエラルキーは、「先例の論理」で機能する。基本的には交換とは関係なくただ、先例によって固定されていくものである。 

 

 商業化があまり進んでいない人間経済、社会の関心が富の蓄積ではなくて、人間存在の創造と破壊、再編成である社会では、交換の役割は限定的で、コントロールされている。

f:id:oror:20170319014541p:plain

 人間経済では、人間はその特別さゆえに、例えば婚礼の際に自身の同族の中から、同じ人数の人を差し出す証として、花嫁対価となるシンボルを差し出す。だけど、それは同じ人ではあり得ないので、実際には返済不可能な負債のシンボルでもある。

f:id:oror:20170319014718p:plain

 すべての人が家族や村落とつながっているから、その人を交換の論理にさらすことはできない。限られた例外が、抗争状態にある村落から暴力的に文脈をはぎ取られた人たちだった。

f:id:oror:20170319014857p:plain

 交換可能となった人を、「名誉」の数量的な表現とすることで、私たちはお互いを戦争中の他の村落の人として認識するようになった。負債があることで、私たちは自分の家族を奴隷の身分に落とす潜在的な恐怖におびえるようになった。誰もが他人であるのだから、この闘争状態が続く限り、いつ負債を暴力的に追わされて家族を売り飛ばし、結果的に名誉の最下位に落ちるのか分からない。

 

f:id:oror:20170319015034p:plain

 この恐怖こそが、保護意識の高まりとともに家父長制を生み、奴隷の所有権を生み、近代的な自由と私的所有権の発展につながったのである。

 という話よりもやっぱり以下が分かりやすいのだけど。

 

new.akind.center

 

 

*1:逆に等価で取引を終わらせることはコミュニズムが浸透している社会では失礼にあたることもある。相手を立ち去っても構わない人として扱うことになるから。だから、そういう社会では常に多少の過不足が交換で生じるように工夫しなくてはいけない。そして無限に交換が続くようにしなくてはいけない。

政府とかグローバル企業といった大きい組織は弱体化して、人々は地域にひきこもるようになる、で、自己実現は弱体化すると思う。

 アメリカの軍事力が低下して、中国の軍事力が強くなると、日本やアジア圏の政府は今よりも力が弱くなる。グローバル企業は、アメリカの世界的な覇権により沿って成長してきたから、相対的に力が下がっていく。

 中国は地域への支配力を強化するけど、地域の盟主になれるほど強力ではないから、その間は、グローバル企業が弱体化した隙間で、地域のつながりを活かした企業や個人事業者が活躍する余地が生まれる。

 人々は、政府が指し示す方向で経済的な恩恵が受けられないことを見て取って不安になり、より地域的で互助的な組織に回帰するようになる。

 だから、時代のキーワードは、ますます小集団やコミニティに関するものになっていくだろう。流れはますますま「自己実現→友情・家族」になっていく。

 もし、多くの人にうけるコンセプトを考えるなら、この「安心への強い欲望」に応えないといけない。友情のキーコンセプトは、「逆境にあっても絶対に見捨てないという約束」だ。友人と友人は、利害関係を越えて相手のために尽くすという前提があるので、これは結構重たい。ソクラテス以来の難問で、これが賭け金となる時代というのは、世の中にそれだけ「役に立つか立たないか」という評価軸が確立されてきているという証でもあるだろう。

 「お前を絶対に見捨てない」というメッセージをお互いに共有する、これはほぼ結婚と同じことを言っていて、現代でこういうことを考えている人はまだ少ないと思う。桃園の誓いみたいに、死ぬときは同じ日同じ時間だ、みたいな。だけど、これがこれからは、次第に増えてくる。コミニティが大事、地域が大事、みんなで飲み会楽しいね、という段階は、まだ個人主義の時代。次第に会社も、国も頼れないとなってくると、お互いに頼り合うことで安心したい、その安心の抽象化が進むと、次第に期待は「お前を絶対に見てない」とお互いに思うことになっていく。だんだんそれは、血の契りみたいな約束のカタチ化・儀式化を伴うようになっていくことでもあるだろう。

 これまでは、「本当の自分」が卓越性の賭け金だったけど、これからは、「無条件の忠誠」を平等で対等な人同士が結ぶことが、個人的な卓越性の証になる時代だ。自己実現も不可能な目標だからこそ、力を持つけれど、友情も基本的には不可能へのチャレンジだ。

 世界の支配力が流動的になり、より個人的な信頼で結ばれた人々の評判が重要になり、その評判は、どんどん能力ではなく「誠実さ」や「友情に対する忠誠心」の評価になっていく。一方で、こうした事情を利用して、一切この卓越性を歯牙にかけない合理的な行動をとる集団も現れるだろう。

 真のグローバル企業として勝利を収めるのは、友情を利用して人々を争わせ、その死体を食らうような行動が平気でとれる企業で、たぶんそれは、マイクロクレジット的なコミニティに恩恵を与えそうな装いをもった金融業者の台頭に繋がるだろう。

 それらへのカウンターも現れることになるが、最初の勝者はコミニティをエンパワーするブランドの基に次第に優位性を暴力的に利用する者として立ち現れるに違いない。そこから、新しい戦いが始まるけど、それまでは時間がかかるだろう。

 

 企業のブランドメッセージとして「世界を変える」系メッセージを使うことが出来たのは、「自己実現」が浸透しているからで、自身が神であれば世界を再創造することはたやすいという想像がある。だけど、これからは、「世界を変える」系はどらかというとNGで、「互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようとするコミニティ」に所属していることがステータスとして、君臨することになる。

 そういう世界では、かつて仏教が最強だった時代のように、コミニティが他者を説得し改宗させて呑み込んでいくプロセスが重要になっていく。なぜなら、世界を変えることはこの良きコミニティが世界そのものになっていくことなのだから。

 かくして、「世界を変える」系メッセージと自己実現は、弱体化してコミニティ全盛時代が来ることになる。コミニティを振りかざし、その絶対的な善を主張する人々が支持されて権力を獲得することになる。

 ノウハウの基本的な形は、宗教組織に、どんどん近付いてくだろう。

 

 

サイエントロジーの教会が新宿に出来ていて驚いた

 ただ、びっくりした、という、それだけなんですけど。

 L. ロン ハバードの本とか、伝記のパネルとか置いてあって、お茶飲むスペースとかあって、どうぞーって言われたけど入れなかった・・・。自分の強みを分析する、とかのセミナーやっているみたいでした。

 

f:id:oror:20170313023751p:plain

www.scientology-tokyo.org

 

 

ほぼ日上場で思い出した本「日常に侵入する自己啓発」 ほぼ日手帳は新しい自己啓発じゃねという本

 ほぼ日上場で思い出したのが、2015年に一番興奮した本「日常に侵入する自己啓発」(牧野智知)という本だった。なぜかというと、この本の中で「ほぼ日手帳」を従来の手帳があまりにも「自己啓発」のために使われ過ぎていたことへのカウンターとして構想されたと指摘していたから。夢へのスケジュール手帳から、もっと自由な手帳を目指したい、でもその「ほぼ日手帳」の試みも最終的にはもっと精密な自己コントロールを目指した新しい自己啓発になっているのではないか、ということも書いてある本でした。

 今や売上30億円超だから、こういう社会学系分析も実は、深層心理マーケティング分析になっているような気がして、ほぼ日関係の記述を中心に紹介します。

 さて、この本での「ほぼ日手帳」分析は、以下のような自己啓発のカウンターとして構想されながらも、結局、管理された「自由」によって自分を何かに構成していこうとするもの。より精密で権力のように全然見えないのだけど、権力のような何かなのでは、という指摘になっています。

 「ほぼ日手帳」とは何か。2005年に刊行されたガイドブックの糸井重里の語るコンセプト。

「なんでもない日、おめでとう

ただの一日も、なんにもなかった一日も、二度とこない、かけがえのない一日。一年三六五日、三六五の特別な一日。(中略)なにを書いても、書かなくても、なんでもない一日を特別な一日にする。自分が主人公になる手帳。それが、ほぼ日手帳です。」 (p.195)

 この「自分が主人公」になるというのが重要で、これは、つまり、糸井重里は新しい「自己啓発」なんでもない日おめでとう、を創設したのではないか、ということでもある。*1

ほぼ日手帳」は先回りして設計された「自由」によって構成されている・・・自由に楽しく、かけがえのない今ここを大事にし、名づけようのない時間に網を張ろうとする手帳(術)こそ、より細密な水準で、人々の時間感覚に影響を与えるものだと考えられないだろうか。(P.198-200)

 つまり、「かけがえのない私」の特別なストーリーを、手帳という網によって、より確実に完全にすくいとろうとする。自分らしさを知ることが幸せな人生をつかむことの唯一のカギだからだ。

 その例証として、以下のような糸井の発言が引用されています。

「人が、ひとりでいるときには、もっとこう、ぼんやりとした、なんでもない、名前もつかないような時間があるものだ。(中略)そういう、名づけようのない時間を、名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だと思うんです。そして、ある日、そういう中に、ぽこん、と泡みたいに、ことばとして生まれちゃうものがある。そのことばを書き留められるものとして、<ほぼ日手帳>が役に立ったらいいなぁ、と思う。(中略)だから、名づけようのない不定形のものをすくい上げる、いちばん目の粗い網として、ぼくにとっての<ほぼ日手帳>はあります。(P.198)

 この独特の文体によって見えにくくなっているが、重要なのは、「名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だ」という言い切りにあると思うんです。「と思うんです。」と言うと、断定していることが分かりにくくなるのだな、と勉強になった。

 さて、この主張は2017年の現在、どうなっているのか、ほぼ日のサイトで確認してみると、

 ほぼ日手帳が主役なのではなく、「わたしが主人公です」ということを、わかってもらえるようになって、作っているぼくたちもうれしいです。

www.1101.com

 以前として、中心となる「わたしが主人公」はブレていないことが分かる。「自分らしさ」という言葉と「わたしが主人公」は似ているけど、違っていて、ここに糸井が年間で30億を生み出した力があると思うのです。

 「自分らしさ」という言葉には、「らしさがある人/らしさがない人」という暗黙の二分法があって、「ある人偉い」という含みがすでにある。だけど「わたしが主人公」には、もはや「自分らしさがない」という前提は全くなくて、必ず自分が主人公であるべきだ、という強烈な断定がある。だから、糸井は突然に、名づけようのない気持ちを持っているということが、その人をつくる大きな要素だ」とするし「言葉がぽこんと生まれちゃう」と受動的に、あたかも望まない妊娠みたいな言い方をする。

 ここには、「自分らしさ」を追求するのは疲れちゃうし厭だけど、でも、すべての人は逃れようもなく「わたし」を背負っていて、そこから定期的に「生まれちゃう」何かと向き合わなくてはいけないのだという、何か罪のようなうっすらとした意識が出てきている。跳躍がそこにはあって、「自分らしさ」を「獲得」するための成長のストーリーではなくて、自分のかけがえのなさをそのまま「作品」として受容しようとする転換がここにはある。わたしの「卓越性」や「独自性」はもはや問題ではなくて、絶対的な「比較不可能性」の現出こそが期待されている。あたかもアート作品のような唯一性が宿るだろうことが期待されているし、それを自分自身が読み込んでいけるから需要されているのだと思う。

 不思議なのは、本当に「自分が主人公」であるのなら、そのことを殊更に確認する必要があるのだろうかということだ。「わたしが主人公であるか/そうでないか」が、この新しい設定では問われている。「主人公である」ためには、手帳が装置として必要で、確認手段は、「ぽこんと出てくることば」なのだ。

 だから主人公でない人、ダメとされる人は、「ぽこんと生まれてくる」わたしの声を無視している人。わたしの子供であり、わたしそのものである大切なものを捨てている無自覚な人だ。つまり、無自覚な人は哀れむべき人である。だから、結局ここでは「自分らしさ偉い」のかわりに、「わたし自身を無視している人哀れ」で、「わたしを主人公にしている人は、それで、ようやく一人前」という区別を一段階下に引いていく戦略がある。

これがわたしの「いのち」です。This is my LIFE.
人生、暮らし、いのち。いのち、暮らし、人生。
どれもみんな含んでいるのが「LIFE」。
これが、わたしです、わたしそのものです。
This is my LIFE. 「LIFEのBOOK」ほぼ日手帳

www.1101.com

  そして、自己啓発は、ついに「他者」に開かれようとているらしい。「他者」と「わたしとは何か」を通じて、分かり合うという次のフェーズが開かれるのかもしれないです。自己の信仰告白合戦こそが、次世代の自己啓発なのかも。

 最近だと、手帳をひとりで使うだけじゃなくて、
家族のコミュニケーションに使う人もいますよね。
SNSで手帳を見せ合ったりしているのも、
なんだか、外に広がっている感じがします。
世界に目をやると、ほぼ日手帳を使って、
よその国の人どうしがつながったりもしていますし。

www.1101.com

*1:余談だけど、なんでもない日おめでとうと同時に「丁寧な暮らし」の松浦弥太郎や、その前段の「暮らしの手帖」が生み出す暮らし賛美文化がある。そして、「日常に侵入する自己啓発」の中では、コンマリの「人生がときめく片付けの魔法」が先端の後継者として紹介される。

大納会よりも前に税制上の最終売買日がくるのだった

 あー、悔しい。とっても悔しいので投稿だ。

 初めて株式投資の利益に対する課税を繰り延べしようと思った。年内に取引して、損失を出しておけば課税は先延ばしだ。2016年中に売買するぞーと思っていたら、いつの間にか税制上の最終売買日が来ていた・・・。だって、大納会が12月30日だから、12月30日までに取引すればいいよね、余裕だよねーと思うではないですか。思っていましたよ。

 以下のように、12月27日中に取引をしないといけないことに気づいたのが、12月28日だったので、問答無用で課税決定して大した金額でないのにへこんだ・・・。

 税制上、受渡日がベースとなりますので、平成28年(2016年)の最終取引となる約定日は、以下のとおりです。

■取引所取引、およびPTS取引デイタイム・セッションでのお取引
約定日12月27日(火)、受渡日12月30日(金)

■PTS取引ナイトタイム・セッションでのお取引
約定日12月26日(月)、受渡日12月30日(金)

税制上、平成28年(2016年)の国内株式の最終取引はいつですか?

  けど、別にいつかは納税するのだからいいのではないかとも思ったりした。もっといやだったのは、NISAの無税枠も消えたので、それもへこんだ。ほんとやだ。

 来年は、絶対に忘れない。忘れないぞー、という年初の決意。どうでもいい決意だけど。絶対にリベンジ。悔しい。