帝国の構造

帝国の構造 を読んで面白かったのは、帝国の復活を柄谷行人が期待していたところ。

左翼最後の希望という感じなのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということなのか、アメリカの帝国主義を破壊する勢力に最大限期待している感が伝わってくる。

帝国主義と帝国を分けているところが目新しくてよかった。

ここでいうところの帝国というのは旧帝国とも言われる、ロシア・トルコ・清帝国でもあり、その前身のモンゴル帝国でもあり、さらにはローマ帝国以前の帝国の起源たるペルシア帝国でもある。帝国の原理を備えた旧帝国は、国民国家をベースにしていないので、民族浄化的な思想がない(と整理されている)。

国民国家帝国主義よりも、旧帝国をベースに新しい価値観をそこに乗っけることで、カントの考えた永遠平和を実現させるぞ、というのが基本的なスートリーライン。ある意味、とってもわかりやすい。ただ単純化が強いので、これはこれで帝国主義者を撃滅せよ的な新しい浄化思想になってしまいそうなので、限界も感じた。

そもそも帝国と帝国主義を区別したのはハンナ・アーレントだと、この本で知って、「全体主義の起源」を読もうと決意。勢いで三巻本を書店で購入した。

柄谷行人の整理だと、今は第一次世界大戦以前に近いらしいけど、そうするとまた新しい全体主義を見ることにはなるので、大変恐ろしいことである。

中国株が下がっているのをマイケル・バーリとかソロスとかが買いに行っているらしい

「世紀の空売り」バーリ氏、中国の代表的テック銘柄に逆張りの買い - Bloomberg

確かに、これは近年にしては珍しい、わかりやすい状況がきてるかもしれなくて、こういう記事を読んだりしながらうーんとなっている。

不動産バブルの日中比較と中国経済の展望 |ニッセイ基礎研究所

 

マクロ環境がわかりやすくなっても個別株を見極める能力がないことが致命的なので、どうにもならないなーというのはあるのですが。

少し余裕ができたと思ったら案件が舞い込むの法則は何なのか

大体、少し時間があるなと思うと、それを狙っているかのように案件が突然発生する、特に誰かが差配しているというわけでもなく、長年の積み重ねが突然パッと出てきて、これを考えましょう!と課題としてさし出してくる。

ふうむ。と思うけど、これを毎回受け止めていると課題の方も、よしまた出していこうと思ってしまうかもしれないので、課題に対して毅然とした態度をとるべきかどうか、課題の方がどう思っているのかをちゃんと聞いてから考えるべきかとか、色々思うが、課題の方から能動的に自分の意見を述べてくれることはない。

だから、課題のインタビュー方法を考える必要があると思う。課題が自分の言葉で話したくなる方法を考えて、課題が課題自身を特定して、課題解決に向けて課題特有の能力を発揮して課題と課題が相互に補完し合うような形で課題たち自身のコミュニティで前向きに考えて欲しい。

それを阻害しているのが私であるという認識に早く到達したい。

Microsoft officeをOS再インストール後に復活させたい

Microsoftアカウントの中に「サービスとサブスクリプション」というページがあって、そこから購入済みのソフトウェアを探すことができる。

これを見つけることができなくて苦しかったのでメモ的にここに貼っておきます。

 

Google ChromeのDiscoverをPCで非表示にしたい

Discoverが検索トップ画面にニュースを出してきてしまって、どうしても消したい。

そんな時は、右下隅にある「設定」を選択>「検索設定」を選択。

これを見つけるまでが大変でした。右上の設定画面をいくら眺めても出てこなくて苦しんだ。

Google検索トップの右下の設定>検索設定

検索設定の中に「その他の設定」を選択すると、その中に「ホームページにDiscoverを表示」があるので、それをoffにする。

検索設定




時間のことがわからない 時間的厚みとは

問いとして持っていて分からないこと。

時間がわかるようでわからない。

 

20年前のことを昨日のことのように感じる、とか。

未来をいまのように感じることはできるだろうか、とか。できるだろう。想像すればできる。

あり得ないような時間の混ざり方はできるだろうか、とか。できるだろう。想像すればできる。

たとえば、子どもがいる今と同じままに小学校の時に私が戻ることはあるだろうか。

 

たとえば、自分が小学生で同じクラスにいる背筋を伸ばして座っている娘を見ているということはあり得るだろうか。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

あるいは、老年を迎えた娘が静かに座ってる前に15歳のぼくが低木をかき分けて現れる。小賢しい少年の膨れ上がるプライドがまなざしからあふれ出るようにわかる。言ったところで誰にもわからない問答を得意になって始めたりする。そういうことはあり得るだろうか。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

終わりの日にすべての死者が復活するという。でも、死者はすでに復活しているのではないか。わたしのとなりに父は座っていて、わたしの書くことを覗き見てうなずいてるのではないだろうか。おそらく、そうだろう。いま、わたしのすぐそばに父はいる。

 

ない、と言い切れるかがわからない。

 

昨日と今日の境目がない世界があるとしたら、それはどんな世界なのか。

あるいは、生と死の境目がない世界があるとしたら、それはどんな世界なのか。

これから生まれてくる未来の人たちとリアルタイムで話すことはできるだろうか。

 

これらができないのだとしたら、それはなぜできないのだろうか。

 

時間的厚みは人間の意識をつくるうえでたまたま与えられたもので、これが唯一の認識ではない。

 

人がしている認識とは違う時間はあり得る。

 

木の時間はきっと人間とは全然違う。おそらく木は退屈しない。

ずっと木が退屈するのではないか、というのが心配で苦しかった。

でも、木は退屈しない。木なりの時間を認識するだけで。

 

時間には厚みがあるが、方向はそれほどない。

少なくとも人にとって、方向は絶対ではない。

過去の記憶に入っていくときに、そこに現在の要素や未来の要素を入れることはできる。そのように加工することも、人にとってはできる。

だから、時間の逆行、タイムトラベルみたいなことが想像できる。

 

これは、厚みがあるからできるだけで、本当に時間がそのように行き来できるわけではない。おそらく真の時間とは関係なく、厚みを持って様々な刺激を統合して一つの意識の中に入れられるから、そう感じている。

 

バスが窓の右端から左端に走っていくと思った時、右端のスタートの時から始まって左端の消えていくまでを一つの絵として、「時間の厚み」を持って再生して見ていることができる。これはぶつ切りの現象という点がつながっているのではなくて、最初から最後まで時間がそこに溜まっていって、最初のことを覚えているからできる。

この「厚み」のせいで、逆に人は「流れ」を感じ取っているが、本当に流れがあるのかはよくわからない。

 

時間的な厚みがない世界ということを考えてみる。

 

バスが移動しているかどうかを点でしかとらえられない世界。

そこでは、運動している何かではなくて、「感じ」だけがあるのだろうか。

何かがある「感じ」がある。

これは、意識できていないものと近いかもしれない。

私たちは何かの「感じがする」という言い方をする。

 

時間的な厚みが届かなくて認識されないもののことを「感じ」と呼ぶしかない。

では、時間そのもののことを認識することはできるだろうか。

多分、できない。

 

時間は、思い出すことによってしか把握されない。

かつてと今に違いがあると思い出すことでしか把握され得ない。

それは、時間の把握ではなくて、バスの移動の認識と同じもので、ある地点と別の地点では何か様子が違う。違っていることに対して「時間」を当てはめる心の働きがある、ということだ。

 

それが、時間の働きかけによって起きているかどうか、本当に知ることはできるだろうか。

 

その推測は、時間的な厚みがないとして感じるであろう「感じ」と比較して、強い確信として良いだろうか。

 

それは時間のせいで起きていることなのだろうか。

時間がなくても、その変化は起きたのではないだろうか。

時間は何かを変える力を本当に持っているだろうか。

あるとして、時間の本当の姿はどのようなものだろうか。